28話:生殺与奪
反生命組織ジェノバによる惨劇から一ヶ月。死者の肉体を操り、星の果てから質量爆弾として地上に叩き落としたその所業は、人類の存亡を脅かす悪夢だった。
再生する死者の軍勢は、尽きることなく各国を蹂躙し、文明の灯は風前の塵と化していた。それでもなお、人類は息をしていた。いや、喘いでいた。希望とは呼べぬ、ただの生存本能に縋って。
ミッドガル聖教皇国は、神祖の鉄壁の統治の下、奇跡的に無傷で残った。だが、他の国々は異なる。焦土と化した都市、血と硝煙に塗れた廃墟。そこでは、生きる者たちが餓えや病気で死ぬ地獄が広がっていた。
神祖が死者蘇生の術式を解除するまでの30分の防衛戦で、世界は疲弊した。絶望が日常と化した世界で、ただ一人、英雄の名を冠せられた男がいた。
ルーファス。
ジェノバの尖兵、セーファーを打ち倒した男。その勝利は、しかし、彼の心に何の救いももたらさなかった。 セーファーとの戦いで、ルーファスはあまりにも多くのものを失った。
とりわけ、アルファという名の少女――彼女は特別だった。
世界の理を歪めるほどの力を持つ彼女は、ジェノバに誘拐され、セーファーの刃によって右腕を奪われた。その傷は、肉体だけでなく、彼女の魂にまで深い爪痕を残した。
ルーファスは知っていた。アルファが失ったものは、単なる肉体の一部ではない。彼女の笑顔、未来への希望、そして何よりも「普通の少女」である権利。
それらが、ジェノバの冷酷な野望に踏み潰されたのだ。
それでもルーファスは立ち止まらなかった。
彼は被災した各国を巡り、物資を運び、ライフラインの復旧を支援した。だが、それはただの慈善ではなかった。
神祖の命令であったし、彼は各地に跋扈するモンスターを屠り、その素材を技術開発局に持ち帰るためのものだった。
アルファの義手――彼女の失われた右腕を補う、ただ一つの希望を形作るための素材を求めて。彼の手は血に塗れ、心は罪悪感と使命感の狭間で軋んだ。
モンスターの断末魔、死者の怨嗟、そしてアルファの虚ろな瞳。それらがルーファスの脳裏に焼き付き、彼を夜毎に苛んだ。
技術開発局の工房は、異界の鍛冶場のように薄暗く、金属と魔物の骨が混ざり合う異臭が漂っていた。そこでは、アルファの義手が少しずつ形を成しつつあった。だが、それは単なる機械ではない。
ルーファスが倒したモンスターの素材――その一つ一つに、死と破壊の記憶が刻まれていた。義手は、アルファの新たな腕であると同時に、ルーファスの贖罪の象徴でもあった。
彼は知っていた。この義手が完成したとき、アルファは強くなることを望むだろう。今度またジェノバに襲われても生き残るために。だが、その先に彼女を待つのは、果たして救いなのか、それともさらなる絶望なのか。
ルーファスは工房の片隅で、義手の設計図を眺めながら拳を握り潰した。
セーファーを倒した英雄として世界に讃えられながら、彼の心は重い。英雄とは何か。希望の光か、それともただの殺戮者か。
そもそもルーファスは広報担当の神の使徒だ。考えて仕方ないことはではあるが、一人の凡人としてアルファの幸せを願わずには居られない。
豪華絢爛な超巨大な城の最奥、純白の大理石に金と銀の装飾が施された謁見室。 無数の燭台が揺らめく光を放ち、天井には星々の運行を模した水晶のモザイクが輝く。
そこに座すのは、少年の姿をした神祖。数万年を生き、神の力を操る彼の瞳は、底知れぬ深さと穏やかな光を宿している。
対するは、18歳の神の使徒、ルーファス。整った顔立ちに、礼儀正しさと苛立ちが同居する若者だ。ルーファスは、絨毯の上で膝をつきながらも、どこか反抗的な眼差しで神祖を見据える。
議題は、アルファと黒龍ウィルス適合者たちの処遇。ルーファスの声には、抑えきれぬ苛立ちが滲む。
「神祖様、アルファの件です。彼女は……危険です。ジェノバのセーファーが彼女を狙ってる。奴は俺ともやり合いましたが、戦うたびに強くなっています。死者蘇生の軍隊を陽動に、アルファの『星の扉を開く鍵』を奪おうともしました。放っておけば、世界が終わるのも近いです」
神神は、柔らかな笑みを浮かべ、ルーファスの言葉を静かに受け止める。その声は、子を諭す親のように穏やかだ。
「ルーファス、君の懸念は理解できる。アルファの力は確かに特別だ。星の扉を開く鍵……それは世界の命運を握る可能性を秘めている。だが、焦りは判断を曇らせてしまう。さあ、落ち着いて僕の提案を聞いてくれ。彼女の処遇について、三つの道を提示しよう」
ルーファスは眉をひそめ、身を乗り出す。神祖の声は、水面を滑るように滑らかで、しかしその底には冷徹な計算が潜む。
「一つ目の道。アルファを殺処分する。彼女の力は確かに脅威だ。ジェノバの手に渡れば、世界は破滅の淵に立つだろう。それを未然に防ぐ最も確実な方法は、彼女の命を絶つことだ」
ルーファスは息を呑む。神祖の言葉は穏やかだが、その内容はあまりにも冷酷だ。
「殺す……? アルファは無辜の民です! 黒龍ウィルスに感染して、肉塊にされたあげく、ようやく人の形を取り戻したのに。そんなの、あまりにも理不尽です」
「そうだね、理不尽だ。ルーファス、君は彼女の危険性を主張することで、なんとか良い感じに落ち着く完結案を妄想しているかもしれないが、これが現実だ。世界の理とは、しばしば個人の感情を踏みにじるものだ。メリットは明白だ。アルファを殺せば、ジェノバの企みは根底から崩れる。世界の破滅を防ぐ最も確実な手段だ。だが、デメリットもある。彼女と交流のある者たち。例えば、君自身や、彼女を救った血の女王エリザなどが我々に不信感を抱くだろう。信頼は揺らぎ、ミッドガル聖教皇国の結束に亀裂が生じる可能性がある」
神祖の言葉は、カウンセラーが患者に寄り添うような優しさで紡がれるが、その裏には冷徹な現実が透けて見える。ルーファスは拳を握り、唇を噛む。
「じゃあ、二つ目は?」
「二つ目の道。完全秘匿封印処置だ。アルファを、異能も物理も突破不可能な空間に隔離する。ミッドガル聖教皇国の技術開発局が誇る最深の封印室なら、ジェノバの魔手からも彼女を守れるだろう。研究を続け、彼女の力を我々のために利用することも可能だ」
ルーファスの目が一瞬、希望に輝く。だが、神祖の次の言葉がその光を曇らせる。
「メリットは、破滅の危険を抑えつつ、彼女の力を我々の手中に保てる点だ。交流のある者たちの憎悪も、殺処分よりは幾分マシになるだろう。だが、デメリットもある。アルファ自身が我々を恨む可能性は高い。永遠の監禁は、彼女の精神を蝕むかもしれない。そして、どんな封印も絶対ではない。ジェノバが、セーファーのような強者を送り込めば、奪われるリスクは残る」
ルーファスは苛立ちを隠せず、声を荒げる。
「じゃあ、結局どうしろって言うんですか。 殺すのも、閉じ込めるのも、どっちも気分が悪い。何か……もっとマシな方法はないんですか」
神祖は微笑を崩さず、しかしその瞳にはルーファスの反応を全て見透かしたような光が宿る。
「三つ目の道。アルファを君の補佐官として配属させ、君が直接守る。彼女は高水準なエルフだ。教育を終えれば、君の右腕として十分に機能する。ルーファス、君の力なら、セーファーとも渡り合えるだろう」
ルーファスは目を丸くする。神祖の提案は、予想外に現実的だ。だが、すぐにその裏にある負担に気付く。
「俺が……守る? ずっと?」
「その通り。メリットは、優秀な人材を確保できることだ。アルファの力は、星の扉を開く鍵として、我々の手に留まる。加えて、君にとっての……『ガス抜き』にもなるだろう。彼女は美しいエルフだ。肉体関係を通じて、君の不満も幾分か解消されるかもしれない」
ルーファスの頬がわずかに赤らむ。神祖の言葉は、ルーファスの内なる欲望を的確に突く。だが、すぐに反射的に反発の言葉が口をつく。
「そんな……そんな下心で彼女をそばに置くなんて、俺はそんな人間じゃない。それに、敵に奪われるリスクは? 俺が常に警戒しなきゃいけないってことですよね。プライベートがなくなる」
「その通りだ。デメリットは明白だ。君の負担は増える。敵の襲撃に備え、常に緊張を強いられるだろう。プライベートの時間も犠牲になる。さて、どれを選ぶ? アルファを切り捨てるか、自分を犠牲にアルファを救うか」
神祖の言葉は、ルーファスの心を抉る。英雄としての栄光と、若者としての未熟な葛藤。その狭間で揺れるルーファスに、神祖は静かに畳み掛ける。
「結局さ、どの道を選ぶにせよ、ルーファス。決断は君に委ねる。だが、覚えておきなさい。世界の理は、個人の感情を許さない。君がどれだけ不満を溜めようと、どれだけ自己嫌悪に苛まれようと、選択の先には必ず犠牲が伴う。それが、僕達が等しく背負うリアリティだ」
ルーファスは唇を噛み、俯く。神祖の言葉はあまりにも重い。だが、その重さは、同時に彼を突き動かす。しばらくの沈黙の後、ルーファスは絞り出すように呟く。
「……全部嫌だ。どれも気分が悪い。でも……3の案が、一番マシです。俺が守ります。アルファを、補佐官としてそばに置きます」
神祖の微笑が深まる。その瞳には、ルーファスの選択を予見していたような光が宿る。
「君は本当に凡庸だ、ルーファス。良い意味でね。自分が犠牲を払うのは嫌だけど、切り捨てるほど冷徹になれない。実はね、アルファにはすでに必要な教育を施してある。彼女は、君の補佐官として十分に機能する準備ができている。今、部屋の外で待機しているよ」
ルーファスは驚愕に目を見開く。神祖の先読みの深さに、背筋が冷える。全ては神祖の手のひらの上だったのだ。
「……何? もう準備が?」
「君の不満も、葛藤も、全て理解しているよ、ルーファス。君が英雄として輝き続けるため、私はこうして君と向き合っている。さあ、アルファを呼びなさい。彼女と共に、新たな一歩を踏み出すのだ」
ルーファスは立ち上がり、複雑な表情で面談室の扉を見つめる。そこには、アルファが待っている。英雄としての栄光と、若者としての未熟さ。その狭間で、ルーファスの戦いは続く。
謁見室の重厚な扉を押し開けると、ルーファスは一瞬、息を止めた。そこにはアルファが立っていた。
金髪が燭台の光を浴びて淡く輝き、青い瞳は深海の底を覗くような静かな力を湛えている。
ミッドガル聖教皇国の文官用制服――白地に金の刺繍が施された衣装は、彼女のしなやかな体躯を強調し、男の情欲をそそる曲線を際立たせていた。左腕には、ルーファスが自ら集めたモンスターの素材と、聖教皇国の最新鋭技術で作られた義手が光を反射している。
その精巧な作りは、彼女がかつて肉塊と化した過去を微塵も感じさせない。アルファはルーファスを見ると、姿勢を正し、礼儀正しく敬礼した。彼女の声は澄んでおり、しかしどこか硬質な響きを帯びている。
「ルーファス様。本日より補佐官として配属になりました。アルファです。よろしくお願いします」
ルーファスは一瞬、言葉に詰まる。彼女の美貌と、敬礼の端正さに圧倒されつつも、胸の奥でざわめく感情に戸惑っていた。英雄として讃えられる自分と、未熟な若者としての自分。その二人が、アルファの凛とした姿を前にしてせめぎ合う。
「あ、アルファ……ああ、よろしく。敬語でなくても良いよ、少なくとも内輪の時は。俺は君の護衛を兼ねているからな。常にその調子だと、どっちも疲れるだろ」
彼の声には、軽い調子を装いつつも、どこかぎこちなさが滲む。アルファの美しさに目を奪われながら、彼女を「部下」として扱うことへの違和感が、ルーファスの心をざわつかせる。 彼女はただの補佐官ではない。星の扉を開く鍵。
ジェノバに狙われる危険な存在。そして、ルーファス自身が守ることを選んだ、生きるべき命だ。アルファは敬礼を解き、わずかに首をかしげる。
その仕草に、ほのかな柔らかさが加わる。
「そうね。そうさせてもらうわ。ありがとう、ルーファス」
彼女の声は、敬語の硬さが消え、どこか親しみのある響きに変わる。ルーファスは、彼女の適応力の高さに感嘆しつつ、胸の奥で微かな安堵を感じる。だが、同時に、神祖の言葉が脳裏をよぎる。
『ガス抜き』。その言葉が、ルーファスの心に棘のように刺さる。彼女との関係が、英雄としての義務や欲望の道具に成り下がるのではないか。そんな自己嫌悪が、彼の胸を締め付ける。
「適応力高いなぁ」
言葉を濁し、誤魔化すように笑う。だが、アルファの次の言葉は、彼の心をさらに揺さぶる。
「ルーファス。ありがとう」
ルーファスは眉をひそめる。彼女の声には、感謝を超えた何かが込められているように感じた。
「ん?」
アルファは、首に巻かれたチョーカーを指で軽く触れる。その黒い革に埋め込まれた小さな宝石が、燭台の光を冷たく反射する。彼女の瞳は、ルーファスを真っ直ぐに見つめる。その視線には、覚悟と、ほのかな脆弱さが混じる。
「私が生きる未来を選んでくれて。このチョーカー、わかる? これは私の命を握っていて、もしルーファスが1の案を選んだら、私は死んでいたの」
ルーファスの胸に、鋭い痛みが走る。彼女の言葉は、刃のように彼の心を切り裂く。アルファが生きていること。その事実が、ルーファスの選択によってもたらされたのだと、改めて突きつけられる。だが、同時に、彼女の命がチョーカーという「枷」に縛られている現実が、ルーファスの無力感を煽る。
「それは……なんというか。つらいな」
声が掠れる。英雄として讃えられる自分が、こんなにも無力に感じる瞬間は珍しい。アルファの命を救った選択は正しかったはずだ。だが、彼女の首に巻かれたチョーカーは、ルーファス自身の選択の重さを象徴している。
彼女は自由ではない。ミッドガル聖教皇国の駒であり、ルーファスの「守るべき対象」だ。その事実に、ルーファスの心は締め付けられる。アルファは、ルーファスの動揺を察したように、静かに続ける。
「神祖様は言っていたわ。『ルーファスは必ずアルファが生きる選択を選ぶ。だから信じてほしい』と」
ルーファスの目が見開く。神祖の先読みの深さに、改めて戦慄する。あの穏やかな微笑の裏で、全てが計算されていたのだ。ルーファスの選択も、アルファの教育も、神祖の手のひらの上で踊らされているかのようだ。だが、アルファの声には、そんな神祖への不信感は微塵もない。
彼女の瞳には、ルーファスへの純粋な信頼が宿っている。
「ルーファス。私は貴方に恩を感じているわ。今のことだけじゃない。セーファーに攫われた時も、貴方は助けに来てくれた」
「それは……仕事だから」
「だとしても、自らを犠牲にして護衛という仕事を全うしてくれた」
ルーファスは、過去の戦いを思い出す。あの時、セーファーの冷酷な刃がアルファを追い詰めていた。ルーファスは、己の命を顧みず、彼女を救った。その記憶は、英雄としての誇りを呼び起こすと同時に、彼女を「守るべき存在」として意識させる。
だが、その意識が、どこかで欲望と混じることに、ルーファスは苛立つ。
「ああ……」
短く答える。その声には、感謝を素直に受け取れない複雑な感情が滲む。アルファは、ルーファスのそんな葛藤を察したように、静かに、しかし力強く続ける。
「ありがとう。私は貴方の気高い精神に感謝しているの。恋愛感情かと言われれば、敬愛かもしれない。でも、もし私と男女の関係になりたいなら、言ってほしいわ。私はそれに応える覚悟がある」
ルーファスの心臓が、大きく跳ねる。アルファの言葉は、あまりにも率直で、あまりにも重い。彼女の青い瞳には、揺るぎない決意が宿っている。だが、その決意の裏には、チョーカーに象徴される「自由のなさ」が透けて見える。彼女は自分の命を、ルーファスに預けているのだ。
その覚悟が、ルーファスの胸を締め付ける。
「随分と重い覚悟だな……そう言ってくれて、男冥利に尽きるよ」
彼は笑みを浮かべるが、その笑みはどこかぎこちない。アルファの美貌と、彼女の言葉に秘められた覚悟が、ルーファスの欲望と責任感を同時に刺激する。英雄として、彼女を守りたい。だが、男として、彼女に惹かれる自分もいる。その二つの感情が、ルーファスの心の中で衝突する。
神祖の「ガス抜き」という言葉が、脳裏をよぎり、自己嫌悪が胸を締め付ける。ルーファスは、誤魔化すように手を差し出す。
「よろしく、アルファ」
アルファは、その手をしっかりと握り返す。彼女の手は、義手の冷たさとは裏腹に、温かみを帯びている。彼女の瞳には、希望と覚悟が混じる。
「こちらこそ、ルーファス」
二人の手が握り合う瞬間、ルーファスは感じる。世界には危険が溢れている。
ジェノバの脅威、セーファーの刃、そしてミッドガル聖教皇国の冷酷な理。だが、その中に、確かに希望がある。アルファの信頼と、彼女の生きる意志。それが、ルーファスの心に小さな光を灯す。
しかし、その光はあまりにも儚い。ルーファスは知っている。自分が選んだ道は、彼女を守る重責と、己の欲望との戦いを意味する。
英雄としての栄光と、若者としての未熟さ。その狭間で、ルーファスは歩み続けるしかない。
ルーファスの背後から付き添いながら、アルファは言う。
「神祖様は凡人って仰ってたけど、貴方は善あろうとしている。それが大切なのだと、私は思うわ」




