10話:研究所襲撃②
セーファーの刃が空気を切り裂き、雷鳴のような轟音を響かせながらティルフィングに迫る。炎を纏った一撃、氷の刃を孕んだ刺突、雷光を帯びた斬撃――それぞれが常人なら即座に絶命するほどの威力を秘めていた。
しかし、ティルフィングの神剣はまるでそれらを嘲笑うかのように、流れるような動きで全てを一刀両断にしていく。
剣の軌跡はあまりに鋭く、空間そのものが一瞬震えるように見えた。
「遅いな」
ティルフィングの声は静かだが、冷たく研ぎ澄まされた刃のようだった。彼の聖剣は、ただの金属の塊ではない。数百年にわたり、殺戮と研鑽の果てに神の使徒と共に高み領域にまで高められたその剣は、持ち主の肉体を超越的な領域へと引き上げる。
筋肉の一つ一つが鋼のように硬く、しかししなやかで、反応速度は人間の限界を遥かに超えていた。彼が剣を振るうたび、空気が悲鳴を上げ、地面がわずかに揺れる。
純粋な物理的スペックの高さが、セーファーの多彩な攻撃を無力化していく。セーファーは一瞬、目を細めた。
ティルフィングの動きには無駄がない。炎の斬撃を躱し、氷の槍を打ち砕き、雷の奔流を剣の一振りで散らす。
その全てが、まるで未来を読んでいるかのような正確さで為される。セーファーの攻撃はどれもが緻密で、計算し尽くされたものだったが、ティルフィングの戦闘技術はそれをも上回る。
経験と知識の結晶――数百年の殺戮の歴史が、彼の剣捌きに宿っていた。
「ならば、こうだ!」
セーファーの声が戦場に響き、彼の身体がブレる。次の瞬間、空間が歪み、セーファーの分身が一斉に現れる。十、二十、いやそれ以上の影がティルフィングを取り囲む。
それぞれが本物と見紛うほどの存在感を放ち、炎、雷、氷を操りながら一斉に襲い掛かる。数の暴力――単純な肉体強化と剣技だけで戦うティルフィングに対し、処理能力の限界を突く戦略だった。
「圧殺する、ティルフィング!」
分身たちの攻撃はまるで嵐のようだった。炎の刃が空を焼き、氷の槍が地面を穿ち、雷撃が空間を劈く。同時多発的な攻撃は、どんな達人でも対応しきれないはずだった。
しかし、ティルフィングの表情には動揺の色がない。彼は静かに剣を構え、聖剣が淡く光り始める。
「ならば、俺はこう返そう」
その瞬間、聖剣が閃いた。一振り。たった一振りで、世界が変貌する。剣の軌跡が空気を裂き、空間そのものを引きちぎるような轟音が響く。
巨大な斬撃の渦が戦場を覆い、セーファーの分身たちを次々と飲み込んでいく。炎は掻き消され、氷は粉々に砕け、雷は分散する。分身たちはまるで紙のように切り刻まれ、空間そのものが歪むほどの力で消滅していった。
その技は単なる斬撃ではなかった。ティルフィングの剣は、次元そのものを切り裂くほどの速度と精度で振るわれ、空間に一瞬の断層を生み出した。
世界の修復力がその歪みを埋めようとする反動が、敵を無慈悲に切り裂く。高度な技術と神剣の力が融合した、まさに神の領域の技だった。
「ただの斬撃で次元を切り裂くか……面白い」
セーファーの声には、苛立ちよりもむしろ興奮が滲んでいた。彼は獲物を見つけた猟犬のように笑みを浮かべ、ティルフィングへと突進する。
両者の刃が交錯するたびに、金属音が戦場に響き、火花が夜を照らす。セーファーの長刀は変幻自在で、炎や雷を纏いながら角度を変え、予測不能な軌道で襲い掛かる。
だが、ティルフィングの聖剣はそれら全てを受け流し、打ち払い、時にはカウンターでセーファーの身体を掠める。戦いは一進一退――いや、ティルフィングの剣技がわずかに優位を保っていた。
セーファーの攻撃はどれも致命的だったが、ティルフィングの反応速度と剣の冴えがそれを上回る。彼の動きは舞踏のようで、一切の無駄がない。剣を振るうたびに空気が裂け、地面に浅い亀裂が走る。
セーファーの長刀が放つ炎の奔流を、ティルフィングは一閃で両断し、その勢いのまま相手の懐に踏み込む。
「まだだ!」
セーファーが咆哮し、新たな分身を召喚する。だが、今度はティルフィングが待つまでもなく動いた。
聖剣が光を放ち、彼の身体が霞むほどの速度で戦場を駆ける。一瞬にして分身の一体を斬り裂き、次の瞬間には別の分身の喉元を貫く。
セーファーの本体が攻撃を仕掛ける隙を与えず、ティルフィングはまるで嵐の中心のように剣を振るい続ける。
「神の剣たる栄誉を頂いているからな。この程度、造作もない」
ティルフィングの言葉は静かだが、その背後には絶対の自信が宿っていた。彼の剣は単なる武器ではない。それは神の意志を体現し、数百年の戦いの歴史を刻み込んだ存在そのものだった。
だが、その時、戦場の空気が変わった。遠くから響く重厚な足音。聖騎士団が、テロリストを一掃し終え、セーファーを包囲する形で現れた。銀の鎧に身を包んだ騎士たちが、剣と盾を構え、じりじりと間合いを詰めてくる。
セーファーは言う。
「時間切れだ、残念だ」
「ふむ、続けても構わないが?」
「次こそ決着だ」
セーファーの片翼が空を裂き、黒い影となって遠ざかっていく。
白亜の塔は無残にもひび割れ、かつて無垢な輝きを放っていたその表面は、まるでルーファスの心の傷を映し出すかのように砕けていた。
巨大な四角い研究所からは赤黒い炎が立ち上り、煙が空を汚していた。騎士団はすでに敵勢力の掃討を終え、装備を補修用のものに持ち替え、黙々と復興作業に取り掛かっていた。
だが、その整然とした動きすら、ルーファスにはまるで自分の無力さを嘲笑うかのように見えた。彼は立ち尽くし、聖剣を握る手に力を込めた。内心では、深いため息が漏れそうだった。
(何もできなかった。聖騎士だと豪語しながら、このザマだ。研究所を守ると誓ったのに、セーファーに一方的に蹂躙され、ただ見ていることしかできなかった)
惨めだった。神の使徒として、民衆の前に立ち、雷を操り、敵を討つ英雄を演じてきた。だが、セーファーや神剣ティルフィングを前にした瞬間、その全てが虚飾に過ぎないことを突きつけられた。
自分の力は神祖から与えられた借り物であり、セーファーのような真の強者にはまるで及ばない。彼の剣は次元すら切り裂き、ルーファスの雷撃を子供の遊びのようにあしらった。
あの冷たい笑み、あの圧倒的な余裕——それは、ルーファスが決して持ち得ない「本物」の力だった。そこに、同じ神の使徒であるティルフィングが近づいてきた。彼は刀剣のように鋭い雰囲気を纏う無骨な男だったが、その声には意外なほどの温かみが込められていた。
「貴殿の性能ではやつに対抗できなくても仕方ない。それは俺のような殺すしか能のない者がやることだ。貴殿は聖騎士として国に貢献している。負けたことは気にしなくて良い」
「あ、ええ。ありがとうございます」
ルーファスの返答は、機械的で空虚だった。
「それを想定したからこそ戦闘用の俺を派遣したのだろうしな。だが、あのようなレベルの強さが水準となるのなら神の力の割譲を申請しても良いのかもしれん」
「そうですね……そうしたら少しは役に立てたかもしれません」
ルーファスの声には、僅かな自嘲が滲んだ。 ティルフィングは彼の肩を叩き、力強く言った。
「貴殿に戦闘の才能はない。派手に立ち回り、味方や敵の視線を集めることが役割だ。強者に勝つ必要はない。今のまま雑兵を蹴散らすことが、神に求められていることを忘れるな」
その言葉は、ルーファスの心に冷たく突き刺さった。ティルフィングの励ましは、彼の存在意義を限定する檻のように感じられた。
(戦闘の才能はない。広報だ。俺の役割は、ただの飾り物……)
彼は、理想の騎士の仮面を被り続け、微笑みを浮かべた。だが、内心では劣等感が黒い泥のように広がっていた。
ティルフィングの言葉は正しかった。
ルーファスは戦闘の天才ではない。神祖から与えられた力で派手な雷を操り、衆生の目を引きつけ、ミッドガルの威光を示す広告塔——それが彼の役割だ。だが、その役割は彼の心を満たさなかった。
(俺はただの道具だ。神の力を振りかざし、衆生を騙すアイドルに過ぎない。自分の意志も、努力も、何もない。女や権力に溺れ、甘い蜜に縋りながら、英雄を演じているだけだ)
惨めだった。民衆の称賛、騎士団の尊敬、街角で手渡されるパンや笑顔——それら全てが、彼の偽りの仮面に向けられたものだった。
彼の努力は見られず、ただ神の力による派手な戦いだけが讃えられる。その事実は、彼の心を蝕む毒だった。セーファーの冷たい笑みが脳裏に焼き付き、ルーファスは自分の無力さを嫌というほど思い知った。
あの男は、自分の力で戦い、自分の意志で動いていた。ルーファスにはそれがない。神祖の命令に従い、与えられた力を振り回すだけ。それが彼の全てだった。
「では、失礼する」
ティルフィングが去り、入れ替わるようにエリザが近づいてきた。
「どうかしたの?」
ルーファスは答えず、ただ彼女に促されるまま、治療カプセルの前へと連れられた。そこには、無傷のエルフの少女——被検体アルファ——が立っていた。彼女は涙を流しながら、柔らかな笑みを浮かべていた。
「ありがとう、騎士様。そんなボロボロな姿になっても守ってくれて」
少女は深々と頭を下げた。エリザもまた、ルーファスをそっと抱きしめた。
「貴方は強い騎士よ。ありがとう、守ってくれて」
その瞬間、ルーファスの胸に拒否感が突き上げた。
(やめてくれ。俺はそんな人間じゃない。戦いの最中、俺はただ早く逃げ出したかっただけだ。不老不死だから死ぬことはない、面倒臭い、ただ格好良い台詞を吐いて誤魔化しただけだ。俺は……薄汚い偽物なんだ)
少女の純粋な感謝も、エリザの温かな抱擁も、ルーファスの心を抉った。彼の頑張っていない部分、努力もせず神の力に頼り、ただ英雄を演じているだけの薄っぺらな自分を褒められることが、耐え難いほど不快だった。
彼女たちの賞賛は、ルーファスの本質を見抜けていない的外れなものだった。だが、それを表に出すわけにはいかなかった。理想の聖騎士を演じ続けることが、彼に課せられた役割なのだから。
「ありがとう、二人とも。凄く、救われる」
ルーファスの声は穏やかで、完璧な騎士の笑顔がそこにあった。だが、その裏で、彼の心は黒い泥に沈んでいた。自分の無力さ、偽りの栄光、努力の無意味さ——それらが絡み合い、彼の内面を侵食していた。
(俺は何だ? 神の道具か? 衆生を騙すアイドルか? 俺自身は何も持っていない。努力も、意志も、才能も。何もない。ただ神の力を振りかざし、称賛を浴するだけの……空っぽの殻だ)
少女の涙とエリザの抱擁は、ルーファスにとって救いではなく、むしろ彼の醜さを映す鏡だった。彼女たちの純粋な感謝は、彼の偽りの仮面を突き破り、心の奥底に隠した弱さを暴き出した。
セーファーの圧倒的な力、ティルフィングの冷徹な評価、そして民衆の盲目的な崇拝——それら全てが、ルーファスの存在を嘲笑っているかのようだった。
彼は聖剣を握りしめ、治療カプセルの光を見つめた。そこに映る少女の笑顔は、まるで彼の届かない希望そのものだった。
だが、ルーファスにはその希望に手を伸ばす資格がない。彼はただ、神の命令に従い、仮面を被り続けるしかないのだ。
(俺は……何のために戦っている?)
その問いは、答えのないまま、彼の心の奥で響き続けた。白い塔のひび割れた表面と、研究所の燃える煙が、ルーファスの内面の崩壊を静かに映し出していた。




