一話:全てをもらった
ルーファス・ブレイブはかつて、神に選ばれることこそが至高の幸福への道だと信じていた。少なくとも、庶民の暮らし——その単調で退屈な日々、汗と埃にまみれた労働の果てに得られる僅かな報酬と、その顔と体を使った小遣い稼ぎより比べものにならないほど、輝かしい人生が待っていると確信していた。
神の使徒として選ばれた者は、凡庸な存在から解き放たれ、栄光と充足に浴するのだと。
実際、最初の一年はその通りの日々だった。
「「聖剣よ、福音を鳴らせ。|草薙聖剣・雷霆墜ちる世界に邪悪なし《クサナギブレード・ケラウノス》」」
戦場では不老不死と無敵の雷霆を纏い、圧倒的な膂力で剣を振るう。テロリストや異形のモンスターを討ち滅ぼすたび、彼の名声は高まり、報酬は雪だるま式に膨れ上がった。
金は尽きることなく流れ込み、女たちは彼の周囲を蝶のように舞い、名誉は彼の名を不動のものとした。
神の力は彼の肉体を不変に代えて美丈夫を保ち、権力は彼の言葉に重みを加えた。
偉大なる神祖の命に応え、戦場で味方を鼓舞し、敵を殲滅する——その単純明快なサイクルは、ルーファスに約束されたサクセスストーリーを確かに実現しているように見えた。
彼の生活は、まるで精緻に設計された機械のように、滑らかで無駄なく上昇し続けた。誰もが彼を称賛し、羨望の眼差しを向けて、喝采する。
都市の広場では子供たちが彼の名を叫び、酒場では男たちが彼の武勇伝を語り合った。ルーファス・ブレイブは、神の加護を受けた英雄だった。
なのに。
どうして。
「俺はこんなにも惨めなんだ」
夜の帳が下り、喧騒が遠のいた自室で、ルーファスは独り呟いた。
胸の奥に巣食う空虚は、どんな酒でも、どんな女の腕でも埋めることができなかった。称賛の声は耳障りな雑音にしか聞こえず、羨望の視線は刺のように肌を刺した。
栄光の重さは、彼の肩を押し潰す鎖のように感じられた。
そして、彼は神祖に謁見した。
少年の姿をした、透き通るような肌と、底知れぬ深さの瞳を持つ存在。神祖は、ルーファスの心のひだを覗き込むように微笑んだ。
「そりゃあそうだよ。君が持っているものは全部、僕たちが与えたものだ。神の力を割譲してね。だから、君自身が頑張って積み上げたものがない。それを自覚しているから、周囲の称賛は上滑りして、妬みは面倒臭い事この上ない」
その言葉は、ルーファスの胸に冷たく突き刺さった。神祖の声は柔らかく、どこか同情的な響きを帯びていたが、その内容は容赦なかった。彼が手に入れた全て——金、女、名誉、力、権力——は、彼自身の努力や才能の結晶ではなく、ただ神の気まぐれな贈り物に過ぎなかったのだ。
「では、何故、私を神の使徒に? 無能な私にどうして力を割譲してくださったのです?」
ルーファスの声は震え、掠れていた。自分を縛る真実を直視しながら、それでもなお問いかけずにはいられなかった。 神祖は小さく笑い、まるで子供を諭すような口調で答えた。
「金や女といった俗なものでガス抜きできるのに、正しくありたい、自分の力で頑張りたいと思える部分かな。ようは向上心があるけど実行できない凡人なんだよ」
その言葉は、ルーファス・ブレイブに特別なことは何もないという、冷酷な証明だった。
彼は特別な才能を持たない。ただの凡人。それでも、向上心だけは持ち合わせていた。だが、その向上心すら、神祖にとっては都合の良い道具に過ぎなかった。
「向上心があり過ぎて野心となるほど強くなく、しかし腐るだけでは居心地が悪くて努力する。そういう中途半端な精神性が好ましい」
ルーファスは言葉を失った。神祖の声は穏やかだったが、その言葉は彼の存在の芯を抉る刃だった。中途半端。扱いやすい。神の道具として完璧な、凡庸な駒。それが彼の本質だと、神祖は平然と言い放った。
「この言葉を聞いて、堕落しても良いけど、もう無理だろう? 僕達からの仕事を全うしなければ全て反転して落伍者だ」
「……」
「だけど安心すると良い。君は逸材だよ。サクセスストーリーで民衆から支持を受け、支配者としては俗な褒賞でガス抜きできて扱いやすい。最高の人材だから丁寧に扱うさ」
ルーファス・ブレイブは、この日、初めて心が折れた。
神祖の言葉は、彼の全てを解体し、裸のまま放置した。彼が築いたと思っていたものは、ただの借り物の幻だった。
「大丈夫。みんな基本的できないし、やらないんだ。面倒臭い、怠い、明日やろう。そうやって日々を生きている。人間は基本的にできないことが普通なのさ。怠い、面倒だ、時間がないって言い訳して何もしない」
神祖の声は穏やかだが、どこか冷ややかだ。ルーファスは顔を上げず、床を見つめたまま動かない。神祖は微笑を浮かべ、ルーファスの反応を確かめるように一瞬黙る。そして、ゆっくりと玉座の周りを歩きながら続ける。
「黙ってコツコツ誠実に努力して、失敗したり、報われなくても、文句を言わずに改善点や原因を分析して次に繋げるのが正論で、最善だと理解はしているけど、普通に辛いだろ? 苦労はしたくないし、傷つきたくないのはみんな一緒さ」
ルーファスは唇を噛む。神祖の言葉は彼の胸に突き刺さる。
18年間の人生で、ルーファスは努力が報われない瞬間を何度も味わってきた。村での貧しい暮らし。神祖の言う通り、努力は辛く、傷つくことを避けたいという思いが彼の中にもある。
彼は反論できず、ただ黙ってうなずく。神祖は歩みを止め、ルーファスの前に立ち直る。両手を背中に組み、視線をルーファスに固定する。
「あるいは成功する方法でしか努力したくない、とかね。確かに効率良く成功するための情報集めは大切だけど、色々や経験をしながら、試行錯誤して、自分の頭で考えることも同じくらい大切なんだ。そして、それができるやつは何もしなくても成功する。だって、主体性を持って努力し続けて、挫けず、曲がらず、諦めない」
ルーファスは目を上げる。神祖の言葉は単純だが、核心を突いている。ルーファス自身、試行錯誤を繰り返す中で何度も失敗してきた。その失敗を振り返り、学ぶことの重要性は理解している。
神祖の言う「できるやつ」は、ルーファスが目指したい姿でありながら、自分には遠い存在だと感じる。神祖は再び玉座に腰を下ろす。背もたれに体を預け、ルーファスを見下ろす。
「でもそんなやつは少数派さ。できるやつは少ない。途中で歪んだり、折れたりすることも考えれば、できないやつが多数派になるのは当然だ。けど、そういうできないやつが支配者層になってしまうと、できない故に滅びる世界を作ってしまう」
ルーファスは神祖の言葉を反芻する。多数派の「できないやつ」が社会を動かすと、生産性が落ち、混乱が広がる。だが、少数派の「できるやつ」だけを優遇すれば、冷酷な優生思想が生まれ、弱者を切り捨てる社会になる。
ルーファスは自分の村で見た不平等な扱いや、貴族たちの傲慢さを思い出す。神祖の言葉は、その現実を的確に説明している。
神祖はルーファスに視線を向け、口元に薄い笑みを浮かべる。
「強い精神と行動力を持つトップ気質な人間が支配者になり、ボトム側の弱い人間を効率良く運用して、常にバランスを考えて舵取りをするのがベターとなる。で、君だ。大多数のボトムでありながら、トップ側の立場になっても負け犬メンタルを失わない。だから民衆に受けるし、貴族からは使いやすいと好まれる。僕としても命令に従順で、仕事を80点で達成してくれる安定感のある君は信頼できる」
ルーファスは息を呑む。神祖の言葉は彼の存在を完全に解剖している。ルーファスは平民出身で、特別な才能や力はない。だが、どんな困難にも耐え、与えられた役割を忠実にこなしてきた。
それが神祖に認められ、「神の使徒」という地位を与えられた理由だった。ルーファスは自分の平凡さを自覚していたが、同時にその平凡さが民衆に共感を生み、貴族に都合の良い駒として機能することを理解する。
神祖は立ち上がり、ルーファスに近づく。少年の外見からは想像できない威厳を放ちながら、ルーファスの肩を軽く叩く。
「君は特別ではない。無能であり弱者側の存在だ。更にそのメンタルは常に弱い側に立っている。神の使徒という強い側になっても、それは揺るがはない。だが、それが君の強さだ。僕が君を選んだのは、それが理由だ」
ルーファスは顔を上げる。神祖の目は真剣で、どこか温かみがある。ルーファスは自分の役割を改めて理解する。
彼は神の使徒として、神祖の意志を執行する存在だ。だが、同時に、彼は民衆の声を代弁し、貴族と神祖の間に立つ存在でもある。そのバランスを保つことが、彼に課された使命なのだ。
「だから今回のルーファスのミスは、神の使徒となったことで考えをやめたことになるね。神の使徒になったとしても、高い領域での努力研鑽は必要となる」
戦場での勝利も、称賛の声も、栄光の光も、全ては神祖の手の中で操られた舞台装置に過ぎなかった。
「でも、君はそういうの嫌なんだろう? 努力とか、不屈の精神とか、そういう熱量あるノリを好むタイプじゃない。だから、やらなくて良いよ。求めてないし。でもやりたいなら力は貸すよ」
「……」
「そんなところかな。あとは君の好きなようにしなさい。僕は弱い君を応援しているよ」
部屋に静寂が満ち、少年の姿をした神祖は音もなく消えた。
ルーファスはただ、暗闇の中で立ち尽くしていた。胸の奥で何かが砕け散る音を聞きながら、彼は初めて、自分が誰なのか——いや、誰でもないこと——を理解した。
自分はただ、理想的な騎士を演じる顔の良い人形なのだと。
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