対 -man to man- 【国枝浩隆生誕祭2024】
ころんころん、と店のドアに括りつけられた鈴が鳴る。
「あら、透さん」
比較的小ぢんまりとした洋菓子店の店内。生菓子の並んだショーケースの向こう側で、エプロン姿の店主が振り向き笑顔を見せる。『いらっしゃいませ』より先に届いた親し気なそれに苦笑しつつ、高遠透は右手を軽く挙げて答えた。
「久しぶり。こんな時間に来るなんて珍しいわね」
「ああ」
日に日に春の足音が近づくとある日曜の昼下がり。店の中はがらんとしており、短い会話がより際立って響く。探りを入れているつもりか、ニヤニヤと向けられる視線をかわしつつ、透は心得たようにショーケースの右手側にある焼き菓子の棚へと向かった。
しかし。
「ないのか」
いつもなら二段目の中ほどにあるはずの看板商品。浅い藤製のカゴの中に、お目当ての黄金色のマドレーヌはひとつも残っていなかった。
「ええ。今日は予約も入ってたうえに、思いのほか早く出てしまって」
言いながら、背後の作業台に置かれた赤い箱に目が向く。綺麗にリボンの巻かれたそれは、既に引き渡し先が決まっているものだろうから、さすがに手を出すわけにはいくまい。
「大好物が品切れでごめんなさい。フィナンシェならあるんだけど」
「なら、それを持ち帰り用に詰めてくれ」
「あら? おやつに香子さんと食べるんじゃないの?」
「違う」
多くを語らず追求を避ける素振りを見せると、彼女はふと悟ったような笑みを見せ、年代物のレジを手際よく叩いた。
「誰かのおもてなし、ってとこかしら?」
代金を受け渡しながらのそれに、情報ソースはきっと彼女と親交のある香子だなと思いつつ素知らぬ顔で答える。
「どうかな」
レシートを受け取り、箱詰め作業が終わるまでと窓際の椅子に腰を下ろした。
おもてなし、か。
そうしてひととき思い起こす。
事の起こりは、半月ほど前に愛娘が切り出してきた話だった。
『会ってほしい人がいるの』
所帯を持った息子に続き、娘にもいつかはそういう時が来ようと覚悟しつつ、けれどもなるべくなら先送りしたいものだと思っていた矢先。両親を前に顔を真っ赤にして――本人としては相当の覚悟を決めたのだろう――一言を口にした娘をあれこれ追求する気にもなれず、英一の親友で学生時代の先輩だと聞かされたあとは続報もさしてもたらされぬまま、対面を約束していた今日を迎えてしまった。
『心配いらないわよ、あの子なら。英一が静観してるのがいい証拠じゃない』
あの子が誰を指すものか、ともかくもしれっと息子に責任を被せたところからして、妻はそれなりに経緯と事情を把握していたらしい。
知らぬは父親ばかりなり、だな。
まるでお手本のような疎外感に、悔しさよりも先に、寂しさのようなもどかしさのような複雑な心情が湧き立って困惑を増長させる。人生初の試練を前に未だ腹も決まらず、こんな情けない有様を捕まえて、誰が『おもてなし』などと胸を張って言えようか。
さてどうしたものかと、いつになく陰鬱とした溜息をついたそのとき。
ころんころん。
店の扉につけられた鈴が再び鳴った。
「いらっしゃいませ」
「すみません、先日取り置きをお願いした者ですが」
入ってきたのは一人の青年。長身にスーツ姿の、薄い髪色の整った容貌の持ち主だった。
「マドレーヌの詰め合せですね、ご用意できてますよ」
「よかった。人気商品だから売り切れるんじゃないかと心配だったんです」
胸に手を当て心底ほっとしたように言う。見た目の近寄りがたさとは裏腹の、飾り気のない素朴そのものの反応が、透の目にふと好ましいものとして映った。
「どうぞ、幸せな時間の共有に」
「ありがとうございます」
代金を払って手提げ袋を受け取った後、居合わせたこちらに気づくと「お騒がせしました」と軽く会釈をして出ていく。その姿を見送りながら、珍しく見入ってしまった自分を自覚した。着こなしに物言い、付け焼き刃の品格などでないことがわかる所作。あそこまでしっかり身に付いた若者は昨今珍しいなと感心する。
「なにか大切な節目があるのかもね」
客商売ゆえの千里眼だろうか、自分にはない印象が店主からもたらされて首を傾げる。
「どうしてそう思うんだ」
だってねぇ、と冗談めかしこちらを向いたその手に、もう一つ赤色の袋が提げられている。
「お菓子はただそこにあるだけでも幸せを呼ぶけれど、大切な場に居合わせるお菓子ならきっとなおのこと格別だと思うわ」
たとえ本命ではなくともねと意味深に続いたそれを、椅子から立ち上がって受け取ると。
「頑張ってね、お父さん」
まさかの核心を突いたそれに、きり、と身も心も引き締められた。
*******
店は自宅から徒歩30分圏内。新興住宅地らしく綺麗にアスファルトの敷かれた緩やかな坂を、端目には散歩の風体で自宅へと向かう。
なんとなしに春の陽光に照らされる並木を追いながら、到着まであと10分ほどという距離まで近づいたところで、住宅街の交差点に立ち止まり辺りを見回している人影が目に入った。長身に薄い髪色、まさかなと思いつつ近づき声をかける。
「なにかお困りですか」
スマホを手にしていた彼、先ほど店に居合わせた青年が振り返った。一瞬警戒するような光を目に宿らせたが、こちらの顔を覚えていたのか、それもすぐに薄れていく。
「あ、その……このあたりのとあるお宅に行きたかったのですが、どうやら迷ってしまったみたいで」
「そうでしたか。この辺りの風景はいささか整然としすぎていましてね。似たような造りの建物も多くて、外から来る方は結構迷われるんですよ」
恥じらう様に丁寧なフォローをいれると、彼はどこかほっとした表情を見せた。なんとなしに親切心が湧いて問う。
「差し支えなければ、訪問先のお名前をお聞きしても?」
「『高遠』さんというお宅なのですが」
「えっ」
口にされたそれに大層驚く。
「あの、何か?」
「いや、失礼。その……良く知る方だったのでね」
そうして間を置き、しばし考えて。
「なんなら案内しましょうか」
「本当ですか」
ありがとうございますと下げられた頭が上がりきらないうちに、透はどうにも落ち着かなくなって、そそくさと先を歩き始めた。
まさかとは思ったが。
やはりこの青年がそうなのか、と背後から追ってくる気配にひととき気をやる。事前情報はほぼなく突合のしようもないが、十中八九間違いないだろう。訪問を受ける側が自ら案内を買って出ることになろうとはと、咄嗟の思いつきで申し出た自分を不思議に思う。だが当の彼は、こちらの複雑な心境を知ってか知らずか、早足で隣に並んで話しかけてきた。
「本当に助かりました」
「いやなに、ここからならもう10分も歩けば着くからね」
「よかった。間に合わないのではないかと焦っていたんです」
「なにか約束事でも?」
ええ、まぁ、と曖昧に答えるその顔にいささかの緊張が走る。こちらも引かれるように口元を引き締め、半ば探りを入れんと継いだ。
「あの家には確か子どもが二人いたと思うが」
「ええ。私は兄の方の友人で。彼をご存じなのですか」
「ああ、小さい頃からよく知っているとも。成人して官僚になったと聞いた時には、この国の将来は安泰だと思ったものだよ」
それは実際本心でもあった。親馬鹿に聞こえるかもしれないが、そのぐらいは愛情の範囲内だと許されたいほどには自慢の息子だ。そして。
「娘さんの方もよく知っているよ。芯の通った心優しく強いお嬢さんだ」
「……そうですね。僕も、心からそう思います」
世間話を装って話を振ったつもりだったのに、帰ってきた神妙さに、思わず彼を盗み見どきりとした。
「なにか大事な日のようだね」
だからだろうか、自然に紡がれた追求。先程聞いた店主の受け売りにも似た言葉に彼は驚いたようだが、戸惑いながらも「はい」と素直に認めた。
「今日は、僕が自ら拓く日にしたいと思ってここへ来ました」
「拓く、とは?」
「生来と未来を、でしょうか。この目で確かめて、この手で創造していく。許してもらえるのなら、今日という日をその起点にしたいと思っているんです」
歩調を合わせて進めながら答えるその横顔に、侵しがたい意志を察してひととき気圧される。言葉を継げずにいると、彼がはっと我に返った。
「すみません、初対面の方にこんな抽象的な話を」
「いや、構わんよ。年増には随分と懐かしい……眩しく羨ましい話だ」
年齢を重ねるうちに遠のいた何か、それを明明と抱く姿に少々の羨望を抱いて返すと、彼は照れ臭そうに頭に手をやった。
「ここだ」
そうしてたどり着いた一軒の家の前。立ち止まってしばし見つめた後で何か確信を得たらしく、こちらを向いて軽く頭を下げてくる。
「御親切にありがとうございました。お話できてよかったです」
「そうかね」
「はい。実を言うととても緊張していたもので。おかげさまで少し気持ちが楽になりました」
人の好さ、素直さが垣間見える表情に、こちらも小さな笑みを返す。
が、すぐに引き締めた。そうして門扉を開け、その先に続く数段の階段を上がってアプローチを進む。
「あの」
戸惑う声を意に介さず玄関扉の前まで至ると、腹を括る一息をついてからゆっくりと振り返った。
「高遠家に、大切な用があるんだろう?」
その言を受けて端正な面に現れた驚き。父の威厳を取り戻し、わざと挑戦的に放って反応をうかがう。
「話を聞こう。中に入りなさい」
「はい」
そうして返されたきっぱりした返事に、透は心をすく清々しさを覚えつつ、設えられた舞台へつながる扉を開いた。
聞かせてくれるか。
君とあの子に来たる、これからの話を。