〈3〉転生令嬢の覚醒
(2023/6/11)誤字を修正しました。
「……お、お嬢さま!」
「大丈夫でございますか!?」
「だ、誰か、ご主人さまを……! お嬢さまがお目覚めになられましたっ!」
ベッドサイドでメイドたちが騒々しく慌てふためいていた。
――何を大袈裟な。寝てるだけなんだから起床するのは当たりまえでしょ。半濁状態の頭でそんなことを考えながら、レイチェルはゆっくりと身を起こす。……そういえば、とてもお腹が空いている気がする。何か食べるものを準備してもらおう。
少しふらふらするが、座り姿勢になっても違和感はなかった。あ……寝ているうちに、髪の毛が絡まってしまっている。前世のショートヘアと違って見事に大胆華麗な巻き毛だから、そりゃあ日々のお手入れにも難儀するだろう。――誰か、櫛を持ってきてくれないかしら。それから手鏡も。そんなことを考えていたら、バタン――大胆に扉が開く音がした。
誰かが入室してきた気配につられてそちらを振り返ると、父親の心配顔と視線が重なった。
「レイチェル……!」
大の男が、涙ぐんでいる。
――そうだ、ヘルマン・ルビンアート侯爵はこの国の内政を与る重要な役職にありながら、涙もろいのが短所だった。よくもまあこんなので宰相が務まるものかと呆れ返るが、その手腕ゆえ国王陛下の覚えもめでたいというのだから不思議でたまらない。この国の王さまはドゲチで有名だから、下級貴族出身で倹約家の父親をそれなりに重宝しているだけなのかもしれない。――三十路女の思考が介入しているので、覚醒後のレイチェルは身内の評価にも容赦がなかった。
「ご心配をおかけして申しわけありません、お父さま。ですが、少し眩暈を起こしてしまっただけですから。こうやって休んでおりましたら、随分と気分もよくなりましたわ」
……こういうの、クィーンサイズっていうのかしら。
天蓋付きの、豪奢な寝台だ。
……いや、立派なのは枠組みだけで、ランタンは取り外されているし、ゴテゴテした飾り付けもない。夏用の薄手のカーテンだけはかろうじて残されているが、質素倹約を国是とするお国柄、装飾目的ではない。カーテンを引いておくだけで、羽虫が入ってこないのだ。厚手のものに取り換えれば冬は温かいから、寝台にカーテンはきわめて実用的なのである。
それにしたって、高橋萌子時代の殺伐としたシングルベッドと比べものにならないほどに贅沢だ。
とにかく、この大きさ――寝台からおりるのにも苦労しそう。だから、とりあえずはその場に座ったままの姿勢で、レイチェルは父親にそう告げた。
髪の毛が絡まっているから早く梳かしたいし、顔もベトベトしているからまずは洗顔したかったのだが、……いいや、それよりもまず何か食べたいというか咽喉が渇いたというか人間としての最低限の欲求を満たしたいというのが本心からの本音だったのだが、ひとり娘には大甘の侯爵をとりあえず安心させてあげるのが第一だと判断したのだ。
なのに。
「――ぬぬぬ」
レイチェルが無事に目覚めた様子を確認して、父親は言葉を詰まらせてしまう。
「はて……レイチェルは昔から知恵の回る子であったが、このように大人びた話しかたをしていただろうか……?」
――しまった。
自らのオマヌケを反省して、レイチェルは慌てて無邪気そうに取り繕ってみせる。
「ご、ごめんなさい。あ、だから、私、王宮でのガーデンパーティからまだ混乱してて……そ、そういえば、お腹、空いたかなーって……!」
「おお。――そうであろう、そうであろうなあ。本当に、心配したのだぞ、レイチェル。なにしろ、おまえは、三日三晩も眠っていたのだからな」
「ええっ!?」
――三日三晩?
そりゃあ、父親もメイドたちも驚くはずだ。レイチェルだって驚いた。つまり、推定七十二時間も高橋萌子なる人格と虚しい自問自答を繰り返していたことになる。
「……いや、しかし。こうやって元気そうに目覚めてくれて、安心したよ。うっ…………!」
とうとう父親が泣き出してしまった。それでも毅然とメイドたちに食事の準備を命じてから、寝台の端に腰掛ける。レイチェルの小さな身体を引き寄せて、ぎゅっと抱き締めてくれた。
「――なに、気にすることはないぞ、レイチェル。そりゃあ、誰かの頭から蝉が飛んできたのだから、おまえでなくても驚いて卒倒するだろう」
娘が無事に目覚めてくれたことへの感動も落ち着いてきたのか、父親の表情にもいつもの気安さが戻っていた。しかし、レイチェルのほうはそうもいかない。唐突に、倒れるまえの記憶が甦る。
「セミ……」
そういえば、蝉……あのあと、どうなったのだろう?
なにしろレイチェルは「婚約者」と聴いてパニック状態に陥ってしまったのだ。蝉のことはずーっと気になっていたが、怒涛のように押し寄せる前世の記憶――すなわち『ざまぁ』インパクトが凄まじすぎて、すっかり忘却の彼方だった。
……あの蝉は、あれからいったいどうなってしまったのだろう? ――当然ながら、まったく記憶にない。
――しかし。
父親のこの言いかた。
まるで、レイチェルが、蝉に驚いて気絶してしまったかのような口振りではないか――?
「レイチェル、よく聴くんだ」
レイチェルを解放して頭を撫でると、父親は、自分自身も何か決意するかのように居住まいを正した。
「心ないものたちがおまえに低俗な言葉を投げ付けるかもしれない。だが、気にしてはいけないぞ」
「はぇ?」
「みな、おまえが羨ましいのだ。だから、おまえに、わざとおかしな呼び名を付けて気を晴らしているのだ」
「ひぇ?」
「よく考えてみろ、公爵家ご令息さまのお髪に停まられていた由緒正しきお蝉さまだぞ? 悔しかったら、おまえたちの娘もお蝉さまに気に入られてみろというのだ」
「ふぇ?」
――「お」蝉「さま」…………?
「しかし、安心しろ。おかげで、ランドルト公爵家との縁組は絶対的事実として確立された。これ以上の既成事実はない。こうなったからには、公爵家も、おまえのことを無下に扱うことなど許されん」
「へぇ?」
――意味不明。
「なにしろ、王宮でのガーデンパーティという公式の場で、公爵家ご令息のお蝉さまにオシッコを引っ掛けられるなどという辱しめを受けたのだ、――それも、女の顔に、だ、ぞ。……これは、ぜひとも、公爵家に責任を取っていただかなくてはならん」
「ほぇぇぇ――っ――???」
は、ハズカシメ――?
……つ、つまり。
あのとき、レイチェルはすでに気絶していたので、自分の身に何が起こっているのかなどまったく認識していなかった。
い、いや……蝉が飛んできて、なんだか強烈な威圧を受けたような気がする。気はするが……それ以上のことを情報処理していられる余裕なんて、あのときのレイチェルにはなかった。
しかし、どうやら、あのとき、すっかり亡骸状態となっていたレイチェルの顔面に向かって、あの蝉が景気よく放尿していったらしい。
(わ、私……ええっ、セミにオシッコ引っ掛けられちゃったの……!?)
頭の中が、真っ白になった。
無限とも思える、果てしない空白のあと。
………………ガーン。
無意識の中で、頭上を巨大岩石が――いや、重厚な効果音を伴って、高密度の隕石が宇宙空間を切り裂いて直撃してきた。
蝉にオシッコ――しかも顔面とか、侯爵令嬢にあるまじき大失態である。……いや、思い出したばかりの前世の自分(ド庶民)でさえ、衆人環視の中そんな災厄に見舞われたとしたら、恥ずかしすぎてしばらくは家から出られないこと間違いない。
しかも、父親含む当日の来場者たちは、レイチェルが卒倒してしまったのは予期せず蝉にオシッコを引っ掛けられてしまうという不測の事態に見舞われたからだと信じ込んでいるらしい。
……まあ、そうなるか。
破滅フラグである「婚約者」というキーワードに反応したなど、この世界の住民に理解してもらおうとか土台無理な話なのだ。
いずれにせよ、レイチェルは、カライ王国における上位貴族社会というごくごく狭小なソサエティで、完全完璧にある種の「キズモノ」として認知されてしまった――ということになる。
(これって……すでに『ざまぁ』状態よね――?『ざまぁ』のまえに、前座で『ざまぁ』なんてあるのかしら……?)
――悲しすぎる。
しかし。
「……おお、レイチェル、空腹だといってもいきなり重たいものは食べられないだろう。まずは、好物のヨーグルトにオレンジを乗せて持ってきてもらったよ」
「――お父さま。それよりも、私、トイレに行かせてください」
ご覧いただきありがとうございます!
……本日はここでチカラ尽きました。明日も頑張ります。