〈2〉転生令嬢の記憶
(……あ。私、夢を見ているのね……)
幼いレイチェルといえど、それぐらいの自覚はあった。
――いや。
正確には、「私」と「レイチェル」はイコールではない。
――ふわふわと。
虚無かと錯覚しそうなほどに確実なものが感じられないこの空間で浮遊していても、すでに達観していた。
――正確には、まだ「レイチェル」ではない、「レイチェル」になる以前の人格。――それが「私」。
たしか、名前は、タカハシなんとかといって……。
(――ちょっと。しっかりしなさいよ、レイチェル・ルビンアート。あんた、このままじゃ『ざまぁ』されて一巻の終わりなのよ)
「ざまあみろ」なら、一般大衆が使うあまり上品とはいえない用語として心得ているが、『ざまぁ』という言葉は初めて聴いた。しかし、何故だか、意味はよくわかる。三文字目の「あ」が大文字の「ざまあ」なら単なるネット俗語だが、小文字の――すなわち捨て仮名の「ぁ」になると、少しニュアンスが違ってくる。乙女ゲームにありがちの断罪イベントのことを、受益者視点から『ざまぁ』と表現するのだ。
(――わかってるの? あんた、悪役令嬢に転生してるのよ?)
(……うん。今、わかった。業火のような赤毛、野獣のような金色の瞳……きっと、成長したら身長だって百七十センチぐらい超しちゃうんだよね……)
なにより、「侯爵令嬢」という稀有な身分……異世界転生物語における悪役令嬢以外の何者でもあり得ない。
オンラインゲームなのかネット小説なのか、出典も世界観もまったく思い出せない。――そもそもレイチェルとしての意識では「知らない」のだから、思い出せなくて当たりまえなのだが。
しかし、どうやら、この私――レイチェル・ルビンアートは正真正銘の「悪役令嬢」のようだ。おそらく、たぶん……間違いなく。
(――ねえ。そこのタカハシさん)
(高橋萌子よ)
混沌とした無秩序の中で蠢いていた思念が、イメージを伴って具現化された。
黒い髪、黒い瞳、神経質そうな細いフレームの眼鏡――地味で平凡な顔立ちの三十路女だった。右の頬に大きめの黒子がある。……そうだ、私、これ、ずっとコンプレックスだったんだ。本能的に嫌悪していた瑕疵まで律儀に思い出して、軽い自己嫌悪に陥ってしまった。
高橋萌子は人材コンサルティング会社の営業を担当していて、日々、顧客やスタッフからの不条理な要望に悩まされていた。上司はあてにならないし、会社は隠れブラックだし、同僚は次々と転職していくし、後輩は居付かないし――だから、あなた、そんなやつれた顔しているの……?
(……あんた、それ、やってて不毛にならない?)
(うん。ちょっと)
(じゃあ、現実を受け容れることね。私たちの会話――これ、自問自答よ?)
――はい。そのとおりです。
おそらくは前世の自分(高橋萌子)が、現世の自分(レイチェル・ルビンアート)の中に降りてきた。いや、前世の記憶を思い出した……といったほうが正確か。夢の中でのささやかな現実逃避から脱却して、レイチェルは努めて客観的に考える。
(高橋萌子……前世の私、疲れすぎて荒んでいたわね。人間が、文明社会の歯車になっていたわ)
猛烈に頑張っていたころの記憶ならつらつらと思い浮かんでくるが、それ以上の――高橋萌子四十代、五十代、六十代、さらには余生といった発展形がまるで見えてこない。
その理由も、レイチェルにはわかっていた。
だって、高橋萌子は、若くして命を落としてしまったのだから。
――それも、突然。
たまたま訪問していたオフィスビルの火災で。
(――あーっ! せっかく転生したんだから、今度こそ長くて楽しい人生を謳歌したいわ!)
(せっかく転生しても、悪役令嬢だったらさらに悲劇でしょ)
(少なくとも、前世の私よりいい暮らししてるわよ、あんた。腐っても侯爵令嬢なんだから)
(……前世のあなた、婚約者どころか、恋愛経験も枯れてたものねえ)
高橋萌子とレイチェル・ルビンアートが葛藤する。どちらがどちらの発言なのか、レイチェル自身、すでにカオス。
(ああ、でも、前世の私……高橋萌子は、今の私に不幸になってほしくないから、こうやって忠告にきてくれたのよね)
――高橋萌子の強い意志。
とにかく、せっかく生まれ変わったのだから、今度こそ幸福に――いや、無難に、平穏に、ただただ無事に、あるべき天寿を全うしたい。
(私……何ていう物語の世界に転生しちゃったのかしら――?)
思い出したばかりの、高橋萌子の記憶をフル指定して検索する。
しかし、やはり、ヒットしない。
「レイチェル・ルビンアート」なる悪役令嬢が登場する物語を、少なくとも前世の自分は読んだり遊んだり(あるいは書いたり)したことはないのだ。
(でも、私……『婚約者』って聴いて倒れちゃったのよね……)
まさに、精神世界におけるアナフィラキシーショック。
――当然だ。悪役令嬢なのだから。どういう理屈かはわからないが、レイチェル・ルビンアートはそういう星のもとに生まれ出でてしまったのだ。――何故だか確信できた。
(私、大人になったら『ざまぁ』されるんだ……!)
今さらながら、そんな妄想が、巨大岩石となって頭上に落下してくる。
不思議なもので、昏倒するまではたしかに九歳の女子児童だったはずなのに、すでにレイチェルの内面は成人女性の思考回路を形成していた。そのため、「大人になったら」という仮定には、少しばかりの抵抗を感じてしまった。
(この婚約、なかったことにしてもらえれば理想的なのだけど……)
『ざまぁ』されるまえにその原因を排除してしまえれば、こんな簡単なことはない。しかし、それが出来れるぐらいなら古今東西の悪役令嬢は苦労しないわけで。乙女ゲームだってネット小説だってコミカライズだって、あんなに繁盛しないわけで。――『ざまぁ』を回避しようとか、考えるだけ虚しいのである。
(『ざまぁ』されることを前提に……なるべく悲惨な目に遭わないような対策を練らないと)
しかし、「物語補正」とか「強制力」なる天下無双のお約束があるので(と、高橋萌子なる人格が告げる)、悪役令嬢の懸命な努力も実ることはないらしい。――それはないだろうと思うが、そういう運命のもとに生まれてしまったのだから、そういう運命だと割り切るしか仕方がない。悟りの境地といいたいが、深いところでは表現が重複するほどに混乱している。せめて、具体的な破滅フラグがわかれば対処のしようもあるのだが、ここがどこの世界なのかさえ判明していないのだから、前世の知識といったってあてにはならない。だからといって、座して『ざまぁ』を待つとか絶対にあり得ないし……本当に、いっそ、前世の記憶とか戻らなければよかったのに。……ほんの一瞬だけそうも考えたが、秒で否定した。何も知らずに『ざまぁ』されるとか、それこそ絶対に報われない。
夢の中で、無限ループのような試行錯誤が繰り返されたが、レム睡眠の出口が見えてくるころには、レイチェルの心もなんとなく決まっていた。
まず、レイチェルは、自らの人生――つまり、この乙女ゲームに題名を付けることを思い付いた。
――『転生悪役令嬢レイチェルの素晴らしきかな人生』。
……そうだ。『ざまぁ』されるしかないにしても、おばあちゃんになったときにハッピーであればそれでいい。『ざまぁ』を避けられないのなら、『ざまぁ』されてもダメージが小さい方法を考えよう。
そこで、辿り着いた結論が――レイチェルの場合はふたつ。
ひとつ、味方を増やすこと。
ふたつ、外国語をマスターすること。
たとえ断罪されても、レイチェルを庇ってくれる友人とか仲間とかそれなりに多ければ、最悪でも死罪にはならないだろう。弁護してくれたりとか、同情してくれたりとか、ひょっとしたら匿ってくれるかもしれない。それから、国外追放になった場合を考慮して、外国語を習っておこう。――そうだ、隣国移住計画だ! カライ語はこの国でしか通用しないが、お隣りの大国――エディオール語を学んでおけば、本家エディオール王国はもとより、河州全域で不自由しないはず。
――微睡みの中でそう結論付けて、レイチェルはゆっくりと目蓋を開いた。