〈1〉転生令嬢のガーデンパーティ
あれは、忘れもしない九歳のときだった。
両親であるルビンアート侯爵夫妻に連れられて、王宮のガーデンパーティに参加した。
今年七歳になるカライ王国第三王女――ケイトリン姫のご友人(いや、むしろ遊び相手か)を選抜するための催しで、レイチェルだけでなく似たような年齢の子どもたちが、多数……といっても、身分縛りがあるため運動会を開けるほどというわけにはいかなかったが、それでも十数人程度が呼び集められていた。
王女殿下の遊び相手ともなれば、城下を走り回っているような一般市民というわけにはいかない。貴族階級でもまだ足りない。王宮の中庭に造成された風景式庭園に招集されているのは、伯爵位以上の上位貴族と、そのご子息ご息女たちにほかならなかった。ほどよき年頃の子女を持たぬ貴族たちの中には、遥か遠縁の野育ちを飾り立てて連行しているものもいた。
なにしろ、「ご友人」というお布令ではあったが、上手く立ち回れば「婚約者」に大抜擢される可能性だってあるのだ。そりゃあ、見合う年齢の男児を持つ貴族たちに至っては、一世一代の大勝負といって過言でなかっただろう。
夏用の涼しげなワンピースを着せてもらって、頭にも大きなリボンを付けてもらって、レイチェルはとてもご機嫌だった。だって、王宮に連れてきてもらうのなんて初めてだったから。
侯爵家のお庭も素晴らしかったが、王宮の庭園は、色とりどりの薔薇が見事に咲き誇り、それはそれは華やかで……と言いたいところではあったが、実のところ、幼いレイチェルには庭園の良し悪しなどまるでわからなかった。
本音をいえば、「うちのお庭とどう違うのかしら?」という疑問のほうが大きかった。もっと正直にいうと、「噴水はちょろちょろとしかお水を出していないし、野外用のテーブルもベンチも少し古くさい感じがするし、うちのお庭のほうがきれいだし手入れが行き届いているように思うのだけど」という素朴な所感が脳裏を過った。
しかし、そのような不都合な真実を追及してはいけない。
ルビンアート侯爵家は絶対王権たるカライ王家に仕える忠実な臣であり、質素倹約という国家方針に異を唱えるなどあってはならない暴挙なのだ。侯爵家は慎ましくお庭を維持しているだけなのだが、王家のほうは、さらに寂しい……いや、経済性最優先が徹底されているのだから、つまり比較の問題なのである。現在のアシュラン・ムール・カライ国王陛下がたいへんな吝嗇家であり、今日のガーデンパーティだって、「内輪の催しゆえドレスではなくワンピースを着せてこい」と通達が走ったことを、幼いレイチェルは知る由もなかった。
そのような大人の事情はさておき、王宮デビューの日、少しばかり緊張しながらも、幼いレイチェルは、ロイヤルファミリーとご対面して、本日のご招待のお礼を述べることに成功した。「可憐」に見えるよう何度も何度も練習したカーテシーを、ようやく披露することが出来た。
御年四十七歳だというアシュラン国王陛下は、ガンダ神殿の神官たちのように禿げあがった頭をしていたが、日々鍛えているのかほどよく締まった体格をしており、漠然と想像していたのよりも若く感じられた。そのうえ、呼び集められた貴族たちよりもラフな服装で、上衣は襟がなくて開放的だし、なんと足元はサンダル履きである。とても涼しそう……とは思ったが、だからといって、親しみやすいというか、気安さというようなものは感じられなかった。
むしろ、近寄りがたい。
――何故だか全身が萎縮してしまう。目付きが鋭いから、ちょっと怖い感じもする。それが、絶対君主のみが持つ威圧感であるとレイチェルが気付くのは、かなりあと――長じてからのことになる。
エリザベート王妃殿下は、夏らしく明るい色のワンピースで、光沢のある金髪をきっちりとシニオンにまとめていた。おさすがというべきか――ワンピースなのに、隙がない。髪型もシンプルすぎて、王妃殿下というよりは家庭教師の先生といった印象である。涼しそうなはずの服装なのに、妙に堅苦しく感じられた。
本日の主役であるケイトリン王女殿下は、これがまたこんな一癖も二癖もありそうな夫婦から生まれてきたのが奇蹟かと驚きたくなるぐらいの、とても愛らしく無防備な姫君だった。太陽のようにやわらかい色彩の金髪をポニーテールにまとめているのだが、さすが王族――とても上品だ。「なかよくしてくださいましね」――と、舌っ足らずながらも、健気に微笑んでお言葉を掛けてくれた。大勢の大人に囲まれて張り詰めているのか、ちょっとぎこちない感じがしたが、……レイチェルよりも年下の、まだ七歳。きっと、レイチェルと同じで、こんな賑やかなイベントに臨むのは初めてなのだろう。
(……うん、きっと、いいお友だちになれそう)
そう結論付けることが出来て、レイチェルはなんだかとても嬉しくなった。
……ああ、これで、やっと今夜は普通に眠れるわ。
だって、ここしばらくは、ドキドキしすぎて深夜でも目が冴えっぱなしだったのだ。
記念すべきイベントデビューを無難に乗り切って、レイチェルは心から安堵した。
――いや、ガーデンパーティ自体はまだまだ続くのであるが、国王一家へのご挨拶さえ済ませてしまえば、あとはもう消化試合のようなものだ。にこにこと無難に笑っていれば、父親がそれなりに対処してくれるだろう。十五歳になって、貴族学園に入学すればすぐに社交界デビューが待っているが……それはまだ六年もさきのことだ。とりあえず、今日の主目的である第三王女とのお顔合わせも、好感触であったと自負している。
――ここまではよかった、ここまでは。
国王陛下へのご挨拶は順番待ちで、家格順に後ろが詰まっている。さっさとこの場を次に譲らなければ、進行が滞るしこっちも落ち着けない。ルビンアート侯爵家に準備されたテーブル席へと案内するため、会場係が父親のまえに進み出た。
しかし、にっこりと丁寧に固辞してから、父親は、近くで異彩を放っている華やかなテーブルへと、愛娘と夫人を誘う。
幼いレイチェルの目から見ても、明らかに格式高い――あたりを支配している雰囲気からして普通ではない、荘厳な清涼感すら漂わせる一家だった。とにかく、目立つ――キラキラする。下手すると、国王一家よりも高貴に感じられてしまう。なにしろ、時代遅れのガーデンテーブルさえ、この一家に取り囲まれているとオシャレで瀟洒に見えてしまうのだ。レイチェルのルビンアート侯爵家よりも格上であることは確実だろう。
父親同士が会話を交わしていると、ガーデンチェアに腰掛けていた美少年が姿勢よく立ち上がった。
(うっわー……眩しい……!)
年齢のころは、レイチェルより少しばかり年長に見える。珍しい菫色の頭髪と、濃いビリジアンの瞳が特徴的で、この年齢の男子がやんちゃっぽさ全開に放任されているのとは対照的に、とても大人びた――礼儀正しく、賢そうな印象を受けた。
ガーデンパーティゆえの軽装なのに、まるで礼服のように格調高く感じられる。シャツブラウスはシンプルながら少しだけ若草色っぽい色彩に染めあげられているし、膝丈のズボンだって裾のあたりに刺繍を施してあったりして上品だ。気品を演出するかのように引っ掛けただけのベストがこれまた粋で……ここのスタイリストは優秀だと確信できる。
――にもかかわらず。
強烈な違和感を放つ特異点が――ひとつ。
(な、なんで……)
――――セミ!?
美少年の、ほどよく短めの頭髪の――左の耳のやや上のあたりに。
蝉が、一匹、停まっている。
いや、ひょっとしたら、よく出来た髪飾りか――? しかし、女子ならともかく男子に髪飾りもないだろう。――いやいや、女子だって、揚羽蝶とか紋白蝶とか百歩譲って七星天道なら髪飾りにしてもよいかもしれないが、………………蝉はない。
何故だかわからないが、レイチェルは、ボーっと……蝉に見入ってしまった。
意識ごと吸い寄せられてしまって、蝉から視線を逸らすことが出来ない。
――なんていう種類のセミなのかしら? ――そのうち、ミーンミーンとかツクツクボーシとか鳴き出すのかしら――? 美少年の菫色のお髪を、苔むした木肌と間違えているのかしら――? そんなことを次々と連想してしまって、蝉から目を離すことが出来ないのだ。ついつい、じーっと、凝視してしまう。なんで誰も蝉のことを指摘しないのだろう――? 事勿れ主義の貴族階級というのは、こんなわかりやすい違和感にも知らんぷりをするものなのだろうか――?
しかし、レイチェルが正気を保っていられるのもそこまでだった。
「レイチェル、おまえの婚約者だよ」
満面の笑顔で、父親が告げたからだ。
そりゃあまあ、貴族家の令嬢に生まれたなら、政略結婚ぐらい――。
いつもならそれぐらいの理性は働くのに、そのときばかりは違っていた。
父親の言い放った「婚約者」という単語に過剰に反応して、レイチェルの人格の奥深くに沈んで淀んで封じ込められていた得体のしれない何かが、突然弾けて暴走を始めたのだ。
そのまま、一挙に、大量に、怒涛の如く――九歳の未熟な脳内になだれ込んでくる。
それが前世の記憶であるとレイチェルが認識するのと、処理能力オーバーでレイチェルの意識が遠のくのと、ほぼ同時の出来事だった。
――しかも、間の悪いことに。
美少年の頭部で翅を休めていたはずの蝉が。
足元から崩れ落ちるレイチェルの動きに触発されたのか、急に飛び立った。
レイチェルの炎のような赤毛に、わずかなお小水を放ちながら。
(な、なんで、こんなことに………………?)
そこまでは、スローモーション。
そして、それ以上は無理だった。
――バタンと、侯爵令嬢らしからぬ、優雅とは程遠い倒れかたをしてしまったような気がする。仕方ないだろう……ご挨拶のカーテシーは何度も何度も反復練習したが、卒倒するときの練習なんて、さすがの侯爵家においても履修項目として採用されてはいなかったのだから。
――そして。
それ以来、レイチェル・ルビンアートは、「セミにオシッコ引っ掛けられたご令嬢」として、王都中に名を馳せることになる。