氷村組の不運な面々
永石市の北部地区には、氷村組の事務所がある。事務所と言っても、昔ながらのヤクザのそれとは根本的に違うものだ。
二十代にして氷村組の組長となった小坂惣一は……ほんの二年前までは、末端の構成員でしかなかった。当時、解散も時間の問題といわれていた弱小ヤクザ組織の氷村組。その下っ端組員であった小坂は、頭の回転は早く商売のセンスもあるが、古いしきたりや上下関係のせいで才能を発揮できずにいた。実のところ、彼はヤクザから足を洗おうとさえ考えていたのだ。
ところが、ほんの偶然から南条慎吾と出会ってしまう。すると、彼の運命は一変した。それから一年もしないうちに、小坂は組長となっていた。強力な後ろ盾を得て、底辺を這い回っていたチンピラの生活は百八十度変わってしまったのである。
組長となった小坂は、ヤクザの古くからのしきたりを廃し、氷村組の体制を一新し一般企業に近いものへと変えていった。無論、古参の幹部からの反発はあったものの、南条からの援助を受けている小坂に逆らうことなど出来ない。反感を抱きながらも、従うよりほかなかった。
結果、氷村組は見事に再生した。今や、永石市を縄張りとする裏稼業の中では、もっとも勢いのある組織と目されている。
そんな氷村組の事務所を、奇妙な青年が訪れていた。
「おい、何なんだよてめえは?」
若い組員は、低い声で凄む。だが、それも当然だろう。彼の目の前にいる青年は、なんと上半身裸であった。まだ暑さの残る時期であるため、寒くはないだろうが……かといってアメリカの西海岸のように、上半身裸の青年を許容するような地域でもないのだ。
事務所にいた数人の組員は、全員が十代から二十代の若者である。この闖入者をどうしたものか……と考えつつ、周りを取り囲んでいた。
いかついヤクザに囲まれている青年だったが、彼に怯む様子はない。裸の上半身は、分厚い筋肉に覆われている。腕は太く、ボールでも埋め込んだかのように筋肉がうねっている。彼は、ゆっくりと男たちを見回しつつ、落ち着いた様子で口を開いた。
「俺は、黒田賢一って者だ。あんたら、こないだレストランで仁龍会の幹部を襲ったよな。確か、坂口とかいう男だ。その坂口を殺したヒットマンは、今どこにいる? 教えれば、痛くないように一瞬で殺してやるよ」
賢一の言葉に、組員たちは顔を見合わせた。
実のところ、彼らは目の前の青年から不気味なものを感じ取っている。単純な体の大きさや筋肉の量ではない。生き物としての本能が、組員たちに異変を告げていた。
もし、これが路上にて一対一で対峙しているという状態なら、ヤクザといえども慎重に動いていただろう。だが、ここは彼らの事務所である。しかも、周囲には仲間がいる。仲間の目がある以上、ナメられるような真似は出来ない。
「はあ? てめえ、頭大丈夫か? 悪いことは言わねえ。ケガしないうちにさっさと頭の病院に帰って、薬飲んで寝た方がいいんじゃねえのか」
いかにも余裕たっぷりの口調で、ひとりの組員が言った。
さらに、別の組員も呆れた表情を作る。お前など恐れていない、という態度を見せつけていた。
「お前、格闘技か何かやってるみたいだな。いい体なのは認めるよ。さぞかし喧嘩も強いんだろう。だがな、俺たちのはガキの遊びとは違うんだ。プロの喧嘩なんだよ。ヤクザからかうと、シャレになんねえぜ」
「シャレにならない、か」
そう言うと、賢一は事務所の中を見回した。落ち着いた雰囲気であり、並べられた机の上にはパソコンが置かれている。余計な調度品などは一切置かれていない。映画やドラマなどで描かれているヤクザの事務所とは、完全に真逆である。組事務所というよりは、オフィスと呼んだ方がしっくりくるであろう。
「とりあえずよう、ヤクザやってんならヤクザらしくしろよ。ここは、組事務所っぽくないぜ。らしさが足りねえよ。模様替えが必要だな。今から、極道の事務所にふさわしいデザインに変えてやる。俺の芸術的センスを大爆発させてやんよ」
言った直後、賢一は鋭い牙を剥き出しニヤリと笑った。
直後、彼の肉体が変化を始める──
「う、嘘だろ……」
組員たちは、その場で硬直した。先ほどまでの勇ましい態度は、完全に消え失せている。
それも当然だろう。彼らの目の前で、理解しがたい現象が起きていたのだ。賢一の上半身の筋肉が、瞬時に肥大化していた。風船に空気を送り込むように、見る見るうちに膨れ上がっていく。さらに、獣のごとき白い獣毛に覆われていた。
同時に、腕の形状にも変化が生じていた。五本の指を持つ筋肉質の人の腕……それが今では、猛獣の前足へと変わっているのだ。女性のウエストほどはありそうな太さと、体に不釣り合いな異様な長さ、そして鋭い鉤爪を持つ前足へと──
「な、なんだこいつ」
賢一の目の前にいた組員が、呟くように言った。
それが、彼の最期の言葉となる。賢一が腕を振るった途端、組員は軽々と飛ばされた。数メートルほど吹っ飛び、壁に叩きつけられた。
直後、ぐちゃりという音と共に無残な死体となる。もはや、人間としての原型をとどめていない。潰れた昆虫のように、壁にへばり付いている。
愕然となる組員たちに、賢一はにっこり微笑んだ。
「さて、模様替えの始まりだ。俺の中の芸術を、思いきり爆発させてやる。見る者の心を打つデザインにしてやるよ」
言った直後、賢一の目に狂気の光が宿る。だが、ヤクザたちは未だに状況が把握できていない。蛇に睨まれた蛙のように、全身の筋肉が硬直し動けずにいた。
だからといって、賢一に容赦する気はない。凄まじい勢いで襲いかかった──
獣と化した賢一は、衝動のまま牙を剥き出し笑った。
直後、手近な場所にいた組員に獣の腕を振るう。標的となった男は、玩具のように軽々と飛ばされた。ダンプカーに跳ねられたような勢いで飛んでいき、天井へと叩きつけられる。直後、べちゃりと潰れた。死体は、天井に張り付いたまま落ちて来ない。
賢一は、さらに動き続ける。残る組員めがけ、突進していった──
彼が獣の前足を振るうたび、組員が潰れたミンチへと変わっていく。相手の返り血や肉片を浴びる度に、獣の本能が喜びに震えた。
殺戮の時間は、ほんの数秒で終わった。
掃除が行き届いており、ゴミひとつ落ちていなかった事務所。だが今は、血と肉と臓物が撒き散らされた修羅場と化している
人肉処理場と化した事務所の中で、ひとりの若い組員が震えたまま立ちすくんでいた。無論、彼に戦う気などない。恐怖のあまり動けないのだ。
そんな組員に、賢一は落ち着いた口調で語りかける。
「なあ、あんた。ヒットマンの居場所はどこだ? 知らないなら、悪いが死んでもらう」
「い、言います! だから、命だけは助けて──」
「どこだ?」
命乞いの言葉を遮り、冷たい口調で尋ねる。
「み、南地区の氷文町にいます!」
「氷文町のどこだよ? 俺に、しらみ潰しに捜せってのか?」
賢一の目が吊り上がった。同時に、獣の手を振り上げる。組員は、慌てて言い添えた。
「お、沖田工業所とかいう潰れかけた工場にいるはずです! ああ、だから俺は嫌だったんだ……あんなわけのわからない外人を使うなんて──」
「お前、ちょっと黙れ」
組員の言葉を遮り、賢一はじろりと睨みつけた。途端に、相手は悲鳴を上げる。
賢一は手を伸ばし、組員の頭に触れた。
「一応、約束したからな。命だけは助けてやる。その代わり、ヤクザなんか今日限り辞めるんだ」
「は、はい、わかりました」
組員は、震えながら答える。賢一は、うんうんと頷いた。
「そうか。真面目に生きろよ。ところで、ちょっと頼みたいことかある。この事務所に、現金はあるか?」
「えっ? あ、はい」
「どこにあるか教えろ」
全身に付着した返り血を綺麗に拭った後、事務所からあるだけの金と体に合いそうな服を奪い、外に出て行った。まだ日は高く、周囲には人の往来が絶えていない。事務所で起きたことには、誰も気づいていないようだ。ただひとり生き延びた組員はというと、死人のような顔で事務所を飛び出して行った。今ごろは、故郷に帰る準備をしているだろう。
そんな中、賢一は目立たないようさりげなく歩いていた。頭の中には、様々な思いが駆け巡っている。
これからどうしたものか。
ヒットマンを殺した後は、何をすればいいのだろう。
やがて、二人が待っている車へと戻った。車内では、真理絵と優愛が何やら楽しそうに会話をしている。実に微笑ましい光景であった。
思わず笑みを浮かべながら、賢一はサイドウインドウをこんこんと叩いた。すると、二人ともニコニコしながらドアを開ける。
「なあ、飯食べにいかないか?」
賢一の言葉に、母と娘は嬉しそうに頷いた。
北地区と南地区のちょうど境目に、商店街がある。昭和の場末の雰囲気が漂っており、お洒落な若者は近寄ることすらないだろう。大半の店はシャッターが閉まったままになっているが、営業している店もある。
その営業している店の中に、古ぼけた外装の大衆食堂があった。そこに三人は入っていく。店はお世辞にも綺麗とは言えないが、どこか懐かしい雰囲気が漂っている。年老いた夫婦らしき男女が、店の中で働いていた。
真理絵と優愛は普通の定食を頼んだが、賢一は目に付いたものを片っ端から注文し、瞬時に平らげていく……その食べっぷりに、母娘は目を丸くしていた。
「賢一は、いっぱい食べるんだね!」
優愛が驚きの表情を浮かべながら言うと、真理絵がたしなめる。
「優愛、ダメでしょ。賢一さんて呼びなさい」
「いいよ、賢一で」
賢一のその言葉に、優愛は嬉しそうに笑った。真理絵も、笑みを浮かべた。
だが、その表情が一変する。
(次のニュースです。真幌市に住む天道富雄さんが、自宅にて遺体となって発見されました。遺体は死後数日が経過しており、妻の真理絵さんと娘の優愛ちゃんは行方不明となっております。警察は、この二人が何らかの事情を知っているものと見て、行方を追っています)
テレビから流れる音声に、真理絵は青い顔で耳を傾けていた。その体は、小刻みに震えている。
彼女は今、改めて理解したのだ……自分が富雄の命を奪った殺人犯であり、警察に指名手配されているということを。
今までのような穏やかで優しき日々は、もう二度と戻って来ないという事実を。
真理絵は今、己の未来に待ち受けている運命に打ちのめされていた。恐ろしい現実を前に、ただただ震えるばかりだった。
その時、予想だにしなかったことが起きる。賢一が手を伸ばし、彼女の手を握りしめたのだ。
「だ、大丈夫だよ。俺が付いてるから。な、何があろうと、俺がそばにいるから……」
ぎこちない言葉と行動は、反射的に出ていたものだった。
同時に彼は、自分の言動に矛盾を感じていた。何人もの人間を、ためらうことなく殺してきた。この母娘にしても、初めのうちはどうでも良かったはず。
だが今は、真理絵と優愛の仲睦まじい姿を見ていたかった。二人の存在が、たまらなく愛しい。
人殺しが大好きな、血に飢えた獣の自分が。
賢一は、じっと真理絵の手を見つめた。同時に、自分の手も。
先ほどは、相手の流した血で真っ赤に染まっていた己の手。今は、汚れひとつ無いようには見える。だが、血の穢れだけは……どんなに洗っても、落とすことは出来ない。
その時、不意に真理絵が口を開いた。
「ありがとう、賢一」
彼女の言葉に、賢一は顔を上げる。
真理絵と優愛が、真っ直ぐこちらを見ていた。その瞳には、深い感謝と親愛の情がある。それは、とても暖かく心地よいものであった……。
様々な感情が胸に湧き上がってくるのを感じ、賢一はそっぽをむいた。
「は、早く食べろよ」
食べ終えた三人は、車へと戻って行った。
「それで、次はどこに行くの?」
運転席の真理絵が聞いてきた。彼女は、先ほどのやり取りで腹を括ったらしい。昨日までの弱々しい雰囲気が消え失せていた。代わりに、強い意思が感じられる。賢一は圧倒されるようなものを感じ、思わず目を逸らした。
「さ、さあな。まだわからない」
彼の口から出たのは、そんな頼りない言葉であった。まさか、真理絵がここまで変わるとは思っていなかった。
それだけではない。この親子を、自分の復讐に付き合わせていいのか……という思いもある。無論、二人を守ってやりたいという気持ちは変わっていなかった。しかし、自分は人間ではない。
今の賢一は、化け物でしかないのだ。果たして、二人のそばにいていいのだろうか。
その時、頭をこつんと叩かれた。言うまでもなく真理絵だ。
「ちょっと、しっかりしなさいよ。もし悩みがあるなら、お姉さんが聞いてあげるから」
「お、お姉さん?」
うろたえる賢一を、真理絵は怖い顔で睨んだ。
「何よ……お姉さんじゃなくておばさんだ、とでも言いたいの?」
「い、いや、違う」