親子の休息
賢一の目の前には、一台の車が停まっている。中では、真理絵と優愛が身を寄せ合い眠っていた。先ほど停めた場所から、全く動いていない。逃げようと思えば、いつでも逃げられたはずなのに、動いた気配すらない。
なんで逃げないんだ?
思わず首を捻る。彼は、この母娘を解放するつもりでいた。自分たちを襲った銃撃事件……そのあらましは、真理絵のスマホで調べてもらった。さらに、田川の居場所も知ることが出来た。
もう、彼女たちに用はない。これ以上、自分の復讐に付き合わせるのも気の毒だ。だからこそ、いつでも逃げられるよう、少年たちから奪った金も全て渡しておいた。実際、既に消えているだろうと思っていたのだ。いったい何を考えているのだろうか。
ただ、二人の姿を見て、暖かいものを感じたのも確かだった。
複雑な想いを胸に秘めながら、賢一はサイドウインドウを軽く叩いてみた。コツコツと音がする。だが、母娘は反応しない。しばらく待ってみたが、起きる気配はなかった。
仕方ないので、車体を軽く揺すってみる。すると、車は大きく揺れた。
賢一にとっては軽く揺すったつもりだったが、中にいる母娘にとっては地震のごときものに感じられたらしい。二人とも、慌てて飛び起きた。
だが、こちらを見て安堵の表情を浮かた。心の底から、ほっとしたような表情だ。
賢一の胸に、形容の出来ない想いが込み上げてくる。この母親と娘は、自分のような人殺しの化け物を見て安堵しているのだ。
考えてみれば、この母娘には賢一以外に味方がいない。なんと哀れな存在なのだろうか。
「ちょっとドアを開けてくれ」
湧き上がる気持ちを押し殺し、ぶっきらぼうな口調で言った。すると、後ろのドアが開く。賢一は、大きな体を縮めるようにして入った。
と同時に、賢一は口を開く。
「あんた、なんで逃げなかったんだ?」
どうしても聞かずにはいられなかった。だが、真理絵はクスリと笑う。自嘲の笑みだ。
「どこに逃げろって言うの? あたしたちには、安住できる場所なんてないんだよ」
冷めた口調で答える。その顔には、暗い陰があった。
確かに、彼女には安住の場所などない。いずれ、自宅の死体が発見される。そうなれば、警察に追われることとなる。逮捕されるにせよ、永石市で逃げ続けるにせよ、まともな生活とは無縁の人生を送ることになるのだ。
賢一は胸が潰れそうになり、優愛に視線を移す。こちらは、好奇心に満ちた目で彼を見ていた。さらに、尊敬の念も感じられる。子供の目から見れば、賢一は強い上に空も飛べるヒーローなのかもしれない。
ついさっき、大勢の人間の命を奪ってきた康介に、純粋で汚れなき視線を向けてくる優愛。いたたまれなくなり、目を逸らした。
「とにかく、今から何か食べに行こう。金なら、幾らでもあるから」
ぶっきらぼうな口調で言いながら、袋から札束を取り出す。途端に、真理絵の目が丸くなった。
「ちょっと!? こんなお金、どうしたの!?」
「あんたは、知らない方がいい」
国道沿いのファミリーレストランで、優愛はお子さまランチを美味しそうに食べている。その隣で、真理絵は微笑みながら娘の食べる姿を見ていた。
そんな二人を、賢一は向かいあった席で眺めている。もう十時を過ぎていた。普通の家庭なら、子供は寝ていなくてはならない時間帯だろう。
だが、この二人は……もう普通の親子ではない。
その時、幼い頃に両親と行ったレストランでのことを思い出した。誕生日プレゼントに弟か妹が欲しい、と無茶なおねだりをした賢一をなだめるため、レストランで好きなものをいっぱい食べた記憶がある。
後に、賢一は知ったのだ……父と母が、不妊治療を受けていたことを。
もちろん、父と母から直接聞いたわけではない。夜中、二人きりでこっそり話しているのを聞いてしまったのだ。もともと、子供の授かりにくい体であった晋三と静江。夫婦で不妊治療を受け、様々な辛い思いをして、ようやく授かったのが賢一だった。
リビングで、しみじみ語っていた二人の話を盗み聞いていた賢一。罪悪感を覚え、すぐに部屋に戻った。ベッドの上で、ひとり涙を流したのだった。
そんな両親に報いることが出来ず、目の前で死なせてしまった──
(あの世界で、母さんと父さんは一生懸命に生きてたんだよ! 頑張って必死でもがいて、やっと掴んだ幸せだったんだ!)
冥界で、神を名乗る老人に向かって吐いた言葉が蘇る。
そう、両親はごく普通の人間だった。特筆すべき才能などないサラリーマンと主婦だ。そんな二人は、平凡な幸せを得るために一生懸命に生きた。辛い不妊治療に挑み、頑張って必死でもがいて、やっと掴んだ幸せ……この言葉は、大袈裟なものではない。にもかかわらず、見も知らぬヤクザどもの抗争に巻き込まれ死んでしまった。
なんと理不尽な話なのだろうか。それが神の御業だというなら、そんな神など絶対に認めない。
そんなことを思いながら、目の前にいる親子に視線を移す。この二人も、ろくでもない神の為せる業により、永遠に普通の人生を歩めなくなってしまったのだ。
ひとすじの涙が、彼の頬に流れた。
「どうしたの?」
不意に、真理絵が話しかけてきた。心配そうな顔つきで、こちらをまっすぐ見つめている。
賢一は思わずうろたえ、下を向いた。いつの間にか、彼女の口調が砕けたものになっている。もっとも、気にはならない。むしろ、それが心地よかった。
「いや、何でもない。昔を思い出しただけだよ」
・・・
「んだと? 田川が死んだあ?」
すっとんきょうな声を出すキリーに、南条は苦笑しながら頷いた。
「ああ。ひどい有り様だったらしいよ。田川は、頭と両手首がちぎられた死体で発見された。しかも奴の家では、組員たちが無惨な屍と化していたらしい。十人近くいた武闘派の組員が、抵抗すら出来ずに殺されたという話だ」
「なんだそりゃ。おっかねえ話だな」
大袈裟な両手の動きとともに、キリーは言葉を返す。クールな態度の南条とは、完全に真逆のタイプだ。
「それだけじゃない。死体になっていた組員は、全員が素手で撲殺されていたらしいんだよ」
「素手ぇ!? それマジかよ!?」
「ああ、マジだよ。さっき金村から連絡がきたのだがな、検死官の見立てによれば……傷痕や体の損傷の具合からして、田川以外の組員は、人間の拳や平手による打撃で殺された可能性が高いらしい」
金村とは、南条の息のかかった刑事だ。南条に弱みを握られており、彼の言うがままに動く手駒である。
その金村から連絡がきたのは、ついさっきだった。警察は全力をあげて捜査しているが、犯人の目星はついていないという。
「素手で殺されたってのかよ? んなことありえないぜ。仁龍会の組員ってのは、小学生の集まりか? よっぽどひ弱な連中ばかりなのか? バカなのか? アホなのか?」
支離滅裂な単語を交えつつ、矢継ぎ早に質問するキリー。南条は対照的に、眉間に皺を寄せつつ静かな口調で答える。
「キリー、落ち着け。屋敷にいたのは、仮にも広域指定暴力団の会長を守るガードだったからな。それなりの人間を揃えていたはずだ。しかも、現場には拳銃もあったらしい。近所の住民も、発砲音を聴いている」
「なのに、全員が撲殺されたってのか? ありえないだろ。もしかして、ブルース・リーがゾンビになって復活して、中で暴れたのかね」
冗談めいた口調でキリーが言ったが、南条はにこりともしないで言葉を続ける。
「しかもだ、さっきも言った通り、会長の田川は首と両手とをちぎられている。これは、猛獣の牙で食いちぎられたような傷痕だったらしい。こんな真似は、ブルース・リーのゾンビでも難しいだろう。ひょっとしたら、シベリアトラかグリズリーが動物園から逃げ出し、田川の家に入り込んで暴れたのかも知れんな」
真顔でそんな言葉を吐いた南条に、キリーは呆れた表情で応じる。
「おいおい、バカ言うな。そんなことがあったら、今ごろあっちこっちのSNSで大騒ぎだろうが。面白そうな話ではあるけどよう、気にしなくてもいいんじゃんよ。これで、手間も省けたわけだしな。もしここに来やがったら、俺が始末してやる」
先ほどまでの騒ぎが嘘のように、冷めた口調で言葉を返した。この件に対し、興味をなくしたらしい。そう、このキリーという男は感情のアップダウンが異常に激しい性格なのだ。さっきまで大声で騒いでいたかと思うと、数秒後にピタリと収まっていたりする。熱しやすく冷めやすい、という一言では片付けられない。恐らくは、心に抱えた闇の為せる業なのだろう。
「確かに、手間は省けたが……」
対照的に、南条はまだ興味を失っていないらしい。考え込むような表情で、じっと天井を見つめた。
南条とキリーは、永石市にある高級マンションの一室にいた。キリーはソファーに腰掛けており、時おりスナック菓子をボリボリ食べていた。南条は立ったままだ。時おり、スマホに目を落とす。彼ら二人は、ジェニー島田と共に、この部屋に寝泊まりしていた。
一見すると、仲のいい者同士のシェアハウスのようであるが、そんな単純なものではない。実のところ、ジェニーは想像を絶する変人であり、まともな神経の持ち主では一緒に暮らすことなど出来ない。
また、ジェニーは生活能力が幼児と大して変わらないレベルなのだ。掃除や洗濯などの家事は全く出来ない。それどころか、黙っていれば食事すら摂ることを忘れる。ひとりで放っておかれれば、数日で餓死してしまうだろう。現に、彼女は何度か部屋で死にかけている。
したがって、南条とキリーはジェニーと同居し、彼女の面倒を見ているのだ。ある意味、彼ら三人の絆は恋人や家族のそれより強固なものがあった。
「キリー、まさかとは思うがな……お前の仕業じゃないよな? やったのなら、正直に言ってくれ」
呟くように言った南条に、キリーは笑いながら答える。
「バカ野郎、お前の指示もないのに、そんなことしねえよ。だいたいな、今いる手下の中に十人の組員を素手で撲殺出来るようなハードパンチャーはいないぜ。人の首を食いちぎれるようなゴジラもいないじゃんよ」
「まあ、それもそうだな」
クールな表情で、南条は答える。だが内心では、予想外の事態を前に困惑していた。仁龍会の会長である田川の死は、敵対関係にあった南条にとっては、ありがたい話ではある。しかし、大きな違和感が残っていた。
どう考えてもおかしい。仁龍会の会長宅に乗り込み、銃で武装していたであろう十人近い組員を素手で撲殺した挙げ句、会長の両手首と頭を猛獣の牙で食いちぎった──
いったい、どこの何者だろうか。
その時、ドアが開く。
無言のまま入ってきたのは、ジェニー島田であった。何をしていたのか、一糸まとわぬ姿である。よろよろとした足取りで、室内に入って来たのだ。南条とキリーは、思わず顔を見合わせた。
「ジェニー、どうした?」
南条が聞いたが、ジェニーは無言のまま床に倒れ込む。すると、キリーがさっと毛布をかけた。
「おいおい、目のやり場に困っちまうじゃんよう。俺、理性を失っちまうぜ。せめてバスタオルくらい巻いて来いよ」
軽い口調で言ったが、ジェニーの方は真剣そのものだ。自身が全裸であることすら、全く意に介していない。
ある種の狂気すら感じられる表情で、口を開いた。
「地獄から甦った者が、あなたたちを探している。悪魔の力を持つ男よ」
仮に、この言葉が町の占い師から放たれたものであるなら、南条は笑いながら殴り殺していただろう。
だが、ジェニーは占い師ではない。本物の予知能力を持っているのだ。南条が短期間で裏社会の大物になれた理由のひとつに、ジェニーの助けもあった。
そのジェニーが悪魔の力と言っている以上、これは無視できない。
「悪魔の力、か。どういう意味だろうな。もしや、田川はそいつに殺されたのか?」
尋ねたが、ジェニーは答えない。荒い息遣いで、床を凝視している。
その時、キリーがけらけら笑った。
「悪魔の力だあ? 上等じゃねえか。だったら、俺は三バカトリオを日本に呼ぶぜ。あいつらなら、悪魔でも殺せる。ただし、下手したら永石市の半分くらいを廃墟に変えちまうかもしれねえがな。どうするよ?」
「構わん。むしろ、望むところだ」
答えると、キリーは軽やかなステップで踊り出す。
「たーのしいね! だったら、久しぶりに一暴れするか!」
言いながら、テーブルの上にあるリモコンを手に取りスイッチを入れる。すると、大音量で奇怪な音楽が流れ出した。その音楽に合わせ、キリーは踊り出す。手足をデタラメに動かし、ひとりで奇怪なダンスを始めた。
そんな彼を横目で見つつ、南条も口を開く。
「ならば、俺もギャリソンたちを呼ぶとしよう。久しぶりに、奴らの戦いぶりも見たいしな」
そう言うと、歪んだ笑みを浮かべる。
「面白いことになりそうだな」