田川の災難
田川博之は、非常に苛立っていた。
「おいコラ! てめえら何をやってんだよ! さっさと氷村組と連絡をとれ! でねえと、指十本飛ばしても済まさねえぞ!」
受話器に向かい、田川は怒鳴り散らす。頬にたっぷりと脂肪の付いた顔は、怒りのあまり真っ赤になっている。もっとも、その足はガクガク震えていた。
この田川は、日本でも屈指の勢力を誇る広域指定暴力団・仁龍会の会長である。普段の彼は、怒鳴り散らしたり足をガクガク震わせたりなどしない。傲慢だが余裕のある態度で、内外の者に接している。
そんな田川だが、一月ほど前より環境が一変する。氷村組という暴力団が、突如として戦争を仕掛けてきたのだ。
氷村組という組織は、歴史そのものは仁龍会よりも古い。かつては、国内でも屈指の暴力団であった。しかし暴力団対策法により、徐々に力を削がれていく。さらに日本を襲った不況の波により、もはや壊滅寸前の状態であった。時代の変化に上手く対応し、さらに勢力を拡大させていった仁龍会とは、完全に真逆である。業界内では、解散は時間の問題とまで囁かれていた。
ところが去年あたりから、突如として勢いを盛り返してきたのだ。特に永石市においては、縄張りを急激に拡げてきた。結果、仁龍会ともぶつかるようになる。
最初は、雑魚同士の小競り合いだった。くだらない理由での、数人の末端組員たちによる乱闘が相次ぐ。ただし、仁龍会側は気にも留めていなかった。こんなものは、よくあることだ。上の人間による話し合いだけで、決着がつくはずだった。
ところが、事態はとんでもない方向に進んでいく。仁龍会の準構成員たちが、氷村組の幹部を襲ったのだ。金属バットや木刀などを持った若者たちが、数人がかりで食事中の幹部を不意討ちし、袋だたきにして病院送りにしてしまう。それを機に、両組織は本格的な戦争状態へと突入する。
もっとも田川は、すぐに向こうから詫びを入れて来るだろうと高をくくっていた。向こうは、一度潰れかけ、かろうじて首の皮一枚で生きながらえていた弱小組織の氷村組だ。一方、仁龍会は日本でもトップクラスの大組織である。人数も縄張りの大木さも、雲泥の差がある。最初から勝負にすらなっていない、はずだった。
そんな折、またしても予想外のことが起きる。先日、タカ派幹部の筆頭格である坂口が、高級レストランでの食事中に襲撃されたのだ。
しかも、そのやり方は普通ではない。家族もろとも自動小銃で射殺された挙げ句、レストランは爆破されてしまったのだ。残された死体は原型を留めておらず、検分には非常に時間がかかったという。
さらに、その二日後……若頭の外川も殺された。大勢の人が行き来している昼間の繁華街で、車に仕掛けられた爆弾により命を奪われたのだ。
当然ながら、警察はすぐさま動いた。氷村組の事務所を徹底的に捜索したが、爆弾はおろか果物ナイフすら見つからなかったという有様だった。
今の時代に、こんな無茶苦茶をやる連中がいたとは、さすがの田川も考えていなかった。配下の幹部連中は、完全に怯えている。商売の方も、暗礁に乗り上げた形だ。末端の組員たちにいたっては、次々に行方をくらましている。今、まともに動ける組員が何人いるのか……それすら把握できていない。
田川は、かなり薄くなっている髪の毛を掻きむしった。首の皮一枚で、かろうじて生きながらえていたはずの弱小組織に、こんな無茶をやる度胸があるとは思えない。金と力を兼ね備えた何者かが、氷村組に力を貸しているのではないか。では、それは何者だ?
いや、そんなことはどうでもいい。このままだと、次は自分の番だ。こうなっては、氷村組に頭を下げ手打ちに持ち込むしかない。
その時、田川は違和感を覚えた。広い屋敷の中は、しんと静まり返っている。物音ひとつしない。
戦争が始まってから、屋敷には常に十人近くの武闘派組員を常駐させている。いつもなら、組員たちの立てる何かしらの音が聞こえてくるはずだった。
しかし、今は何も聞こえない。
「おいコラ! 誰かいねえのか! 返事しろ返事を!」
田川は、天井に向かい怒鳴りつけた。普段なら、ガードに住まわせている組員が飛んで来るはずだ。
しかし、誰も来ないのだ。広い家の中は、相変わらず静まりかえっている。
そんなはずは、ないのに──
田川の全身を、得体の知れない感覚が支配する。この家で、何かが起きている。想定外の事態が、自分の身に降りかかっている──
ひょっとして、氷村組の仕業か?
もう、うちにまで来やがったのか?
「おい! 誰かいねえのかよ! 返事しろ返事を!いい加減にしねえと殺すぞ!」
不安にかられ、田川は半狂乱で喚き散らした。すると、とぼけた声が聞こえてくる。
「うるせえ奴だな。おめえもヤクザの親分なら、今さらギャアギャア騒ぐなよ」
言いながら、田川の書斎に入ってきた者がいた。身長は高く、がっちりした体つきだ。上半身は裸で、分厚い筋肉に覆われているのが一目でわかる。髪は肩まで伸びており、野獣のごとき風貌の青年だ。
青年は、リラックスした様子で立ち止まった。鋭い目で、こちらをじっと見つめている。
「て、てめえ誰だ!?」
言いながら、田川は素早く机の引き出しを開けた。中から黒光りする拳銃を取り出し、震える手で構える。
青年の方は、何も答えない。拳銃を前にしているのに、全く恐れていないようだ。
「だ、誰だと聞いてんだよ! さっさと答えろ!」
「俺の名は、黒田賢一だ。てめえらヤクザの抗争に巻き込まれて死んだけどな、地獄から甦ったぜ。ついでに言っとくと、ボディーガードの組員は全員殺したよ。何か文句があるか?」
・・・
鋭い牙を剥き出し、賢一はニヤリと笑う。
真理絵がスマホで調べた情報によれば、レストランで殺されたのは、賢一ら黒田家の人間と従業員の他は……坂口という男と、その家族であった。その坂口は、広域指定暴力団・仁龍会の幹部である。
間違いない。父と母は、暴力団同士の抗争に巻き込まれ命を落としたのだ。ならば、まずは仁龍会に乗り込む。会長の口から、誰と揉めているのか教えてもらおう。
ついでに、いただけるものはしっかりいただく。金と、場合によっては命も。
田川の方は、かつてないほどの恐怖を感じていた。
仁龍会は、正式な組員と準構成員とを合わせれば約八千人だ。つまり田川は、八千人のヤクザの頂点に立つ男である。これまでの人生で、数々の修羅場もくぐっていた。
だが今、目の前にいるのは、ヤクザなど比較にならない存在だ……彼の勘は、そう告げていた。いや、勘というより生物の本能が告げている。足の震えが、さらに激しくなった。背中からは、冷たい汗が大量に吹き出る。
非常に残念なことに、田川は切った張ったの現場から長いこと遠ざかっていた。それゆえ、危険に対する判断は恐ろしく鈍っている。彼の本能は、賢一が恐ろしい怪物であると伝えていたのだ。拳銃程度で、殺せる相手ではないと告げていた。
ところが、田川は愚かだった。自身の本能を、信用できなかった。危機を伝えるシグナルに、身を委ねることが出来なかったのである。
田川は震えながらも、拳銃のトリガーを引いた。立て続けに、五発ぶっ放す。室内にて、銃声が響き渡った。その行動は怒りよりも、むしろ恐怖ゆえである。
銃声音とともに放たれた弾丸は、狙い違わず賢一の体を貫く。両者の距離は五メートルもない。素人が撃っても当たる距離だ。五発の弾丸は、全て命中する。目の前の大男は、大量の血を吹き出し倒れているはずだった。
だが、賢一の体は揺らぎもしない。平然とした表情で立っている。
田川は、唖然とした表情のまま後ずさる。確かに、銃弾は当たっていた。賢一の体に、五つの弾痕がはっきりと付いている。その弾痕からは、血も流れている。
銃から発射された弾丸が人体に命中すれば、鉛の塊がマッハの速さで体内を駆け巡る。結果、骨を砕き内臓を破壊するのだ。砕けた骨が、心臓など重要な臓器を傷つけることもある。そうなれば、当然ながら生きてはいられない。格闘技の世界チャンピオンでも、銃に勝つことは出来ないのだ。
では、この男が倒れないのはなぜだ?
困惑し、唖然となる田川。一方、賢一の方は平然とした表情で彼を見ている。痛みすら感じていないらしい。
「アホか、お前」
呆れたような声が聞こえた。直後、賢一の体から何かが押し出されてくる。
やがて田川の目の前で、からんという音が鳴る。押し出されてきた何かが、床に転がり落ちたのだ。
それは弾丸であった。賢一の体に撃ち込まれた弾丸が、ひとりでに肉体からこぼれ落ちていく。
奇跡は、それだけでは終わらなかった。弾丸を受け傷ついたはずの肉体が、ひとりでに修復されていったのだ。血が止まったかと思うと、傷痕を肉がふさぎ皮膚が覆っていく。早送りの映像でも見ているかのようだった。僅か数秒で、弾痕が完治してしまったのだ。
「じゃあ、次はこっちのターンだな。いいか、俺の攻撃はとっても痛いぞ。歯を食いしばるんだ」
そう言うと、賢一は右手を伸ばした。次の瞬間、その右手が変化する──
あっという間に、彼の前腕が膨れ上がっていった。太く、巨大なものへと変化する。さらに、白い獣毛が巨大な前腕を覆っていく。
だが、変化はそれだけでは止まらない。その巨大した腕は、粘土のようなものになったのだ。ぐにゃぐにゃの形状であり、腕だけが別の生き物のようにうごめいている。
直後、白く丸い何かが腕より出現した。その丸い何かは、見る見るうちに変化していく。凶暴な、肉食獣の顔へと──
賢一の右手は、大型の猛獣の顔へと変わっていた。白い毛に覆われた、巨大な虎の顔だ。人間の頭より二回りほど大きい頭が、右手から生えていた。その目は、田川を睨んでいる。
恐怖のあまり、凍りつく田川。目の前で起きた現象は、彼の理解を超えている。虎の目に見つめられ、蛇に睨まれた蛙のように硬直していた。両手は、未だ拳銃を握ったまま前に突き出されている。
その時、虎が口を開けた。鋭い牙が剥きだしになる。
直後、襲いかかった──
「ぎゃあああ!」
ワンテンポ遅れて、悲鳴を上げる田川。彼の両手は、拳銃ごと噛み砕かれていたのだ。両手首から先は完全に消失しており、ちぎられた傷口からは、大量の血が吹き出している……。
「おい、お前らの幹部を殺した奴は誰だ? 正直に言えば、病院に連れて行ってやるぞ」
楽しそうな声が聞こえてきた。が、田川はそれどころではない。彼の両手は手首のあたりから食いちぎられ、骨も剥き出しになっているのだから。
しかも、傷口からは大量の血が流れ続けている。そのせいで、意識も薄れてきていた。
だが、賢一はお構い無しである。
「おい、まだ死ぬんじゃねえ。教えてくれないかな。お前ら仁龍会は、どこのバカと揉めてたんだ? 言わねえと、両足も食っちまうぞ」
「ひ、氷村組だ……頼む、病院に連れて行ってくれ。まだ死にたくない……」
弱々しい声で、田川は訴えた。だが、賢一は首を傾げた。
「待て、ひむらぐみ、で間違いないんだな?」
「間違いない……頼む、病院に連れて行ってくれ。何でもするから……」
言いながら、ちぎれた腕を伸ばし懇願する。その途端、賢一の顔に血がかかった。 たちまち、憮然とした表情になる。
「汚ねえじゃねえか、バカ」
言うと同時に、賢一は右腕を振るう。次の瞬間、虎が口を開けた──
田川は頭を噛みちぎられ、瞬時に絶命した。もっとも、地獄のごとき痛みと苦しみからは解放されたが。
田川の家にあった金庫を強引にこじ開けると、あるだけの現金を奪い袋に詰めていく。家の中にはたくさんの死体が転がっており、床は血の海と化している。全て、仁龍会の組員だ。天井や壁には、大量の血や肉片や内臓がこびりついていた。ホラー映画のような有様である。
賢一は、何も感じていなかった。このヤクザたちが抗争など始めなければ、父も母も死なずにすんだのである。
「てめえらもヤクザなら、この死に様も覚悟の上だろうが。地獄で、自分の生き方を悔やむんだな」
低い声で呟くと、何事もなかったかのように田川の家を出ていった。
外に出ると同時に、金の詰まった袋を担ぎ上げる。既に夜はふけており、闇に覆われている。人通りはない。
人目がないのを確かめると、強靭な脚力で高く跳躍する。直後、彼の背中に翼が出現した──
巨大な翼を広げ、大空を舞う。次に行くべき場所を探しながら、悠々と空を飛んでいく。
しかし、途中で意外なものを見つける。
「何をやってるんだよ……」
驚愕の表情を浮かべ、上空から一気に急行下した。