超獣の心
真理絵の話を聞き終えた賢一は、ふうと息を吐いた。
聞いていて愉快な気分になるような身の上話ではない。両親を失った賢一ですら、思わず同情してしまう。
なんとツイていない女なのだろうか……などと思いつつ、己の半生を語り終えた彼女の横顔を見つめた。美しい顔立ちではある。が、とても暗い目をしていた。今までの辛い人生が、容貌に陰を落としていた。
その視線に気づいたのか、真理絵がこちらを向いた。なぜかドキリとし、すぐに目を逸らす。
「あ、あんたは、つくづく運の悪い女なんだな」
うろたえ気味に言いながら、後ろで寝ている優愛に視線を移した。普通でない出来事をいくつも体験し、本当に疲れてしまったのだろう。幼い少女は、今もぐっすりと眠っていた。
「そうですよね。あたしは、本当に運が悪いんですよ」
言いながら、真理絵は自嘲の笑みを浮かべる。
賢一は、複雑な思いで娘の優愛を見ていた。すやすや眠っている。無邪気なものだ。父親が母親に暴力を振るう様を、どのような思いで見ていたのだろうか。
先ほど真理絵は、つくづく運の悪い女……と言っていた。だが、運が悪いという一言では済ませられない。クズ男と結婚したばかりに、DVに苦しめられることとなった。娘を守るためとはいえ夫を殺してしまい、罪人として親子で逃亡生活をする羽目になる。挙げ句にチンピラに絡まれ、賢一という化け物と出会ってしまったのだ。
もっとも、賢一も突然に家族を皆殺しにされてしまったのだ。運の悪さでは負けていないだろう。
ふと、あの世で出会った神を思い出した。何もかも知り尽くしたような、妙な訳知り顔をしていた。あんなふざけた奴が、人間の運命をコントロールしていたのだろうか。そう思うと、腹が立ってきた。
「あんたは、これからどうする気だ? このまま逃げ続ける続ける気なのか?」
賢一の問いに、真理絵は力なく笑った。
「そんなこと、考えてもいませんでした。無我夢中で、気がついたら車を走らせて永石市に来てました。ここなら、警察に捕まらない気がして……それから二日間、ずっと車内暮らしでしたよ。これから、どうしましょうかねえ」
投げやりな口調で答える。
賢一は、またしてもため息を吐いた。この親子の身の上は、とても気の毒だ。あまり巻き込みたくはない。しかし、今からすることには、彼女の協力が必要だ。
「やることがないなら、ちょっとだけ俺を手伝ってくれ」
「えっ? 手伝い?」
きょとんとした顔の真理絵に、賢一は鋭い犬歯を剥き出して笑った。
「ああ、ちょっとだけでいい。その代わり、手伝ってくれてる間は、俺があんたらを守るから。さっきみたいなチンピラには手出しさせないし、警察に逮捕なんかさせない」
その言葉に、真理絵恐る恐る聞いてきた。
「あ、あの、何をすればいいんです?」
聞かれた賢一は、歪んだ笑みを浮かべる。
「復讐の手伝いさ。悪い奴らを殺したいんだよ」
そう前置きしてから、これまでのいきさつを語り出した。
「……だから俺は、レストランを襲撃した事件の詳細が知りたい。そのため、あんたに協力してもらいたいんだ。その代わり、俺があんたたちを守る。さっきも言った通り、手伝ってもらってる間は、誰にも手出しはさせない。はっきり言うが、人間で俺に勝てる奴なんかいないよ」
長々と語った後、この言葉で話を締めくくった。だが、真理絵はポカンとしている。賢一の話を、完全には理解できていないのだろう。
まあ、それも仕方ない。もし、自分の前に「俺はUFOにさらわれ、改造手術を受け超人になったんだ!」などと主張する人物が現れたら「ヤクのやり過ぎなんだよ、クソ野郎。さっさと病院行ってヤク抜いて来い」と返すだろう。少なくとも、かつての自分ならそうしていたはずだ。
今の賢一の話は、それと同レベルである。レストランにいたら、いきなり自動小銃で家族ともども撃ち殺された。直後、あの世で魔王と称する者と取り引きして現世に蘇る……UFOにさらわれるよりも、ありえない話だ。
「信じられないのはわかるよ。だがな、これは本当の話なんだよ。あんただって、さっきの俺の力を見たろうが。普通の人間に、あんなことが出来るか? 出来ないだろう」
その問いに、真理絵は無言で頷いた。
「わかってくれたなら、話は早い。ところで、スマホは持ってるか?」
「えっ? 一応、持ってますけど」
「だったら、使い方は知ってるよな? 事件のこととか調べられるだろ?」
「は、はい」
訝しげな表情で、真理絵は頷いた。
「悪いけどな、このスマホで事件のこと調べてくれ」
言いながら、賢一は数台のスマホを差し出した。先ほど、不良少年たちから奪った戦利品の一部だ。
すると、真理絵の表情が変わった。きょとんとした顔で、スマホと賢一の顔とを交互に見ている。
ややあって、おずおずと口を開いた。
「ひょっとして、スマホ使ったことないんですか?」
「えっ? いや、あの、その……」
賢一はうろたえ、口ごもった。実のところ、スマホは持っていないし使ったこともない。
学校内では、同級生のほとんどがスマホを持っていた。が、彼は興味がなかった。そもそも、生活に必要だとは思えなかったのだ。
今までは、それが当たり前だと思っていた。自身が少数派だという認識すらなかったのだ。しかし今、真理絵に指摘され、なぜか気恥ずかしさを感じていた。
その時、彼女がクスリと笑った。途端に、賢一の頬は真っ赤に染まる。
「あ、ああ、そうだよ! スマホなんか触ったこともねえよ! いけねえのか!」
恥ずかしさをごまかすため、反射的に怒鳴りつけた。が、すぐに言葉を止める。
真理絵が両腕で顔を覆い、がたがた震えていたのだ──
「お、お願い……顔はぶたないで」
蚊の鳴くような声を聞いた瞬間、賢一はハッとなった。この女は、今までずっと理不尽な暴力に苦しめられて来たのだ。その記憶を、今の言葉が蘇らせてしまったのかもしれない。
「ご、ごめん。俺は暴力は振るわない。約束する」
気がつくと、そんな言葉が出ていた。もっとも、説得力など欠片ほどもないだろう。何せ、彼女の目の前で数人の少年たちを死体に変えているのだ。そもそも、利用するだけなら、圧倒的な腕力をちらつかせて脅した方が手っ取り早いし確実だ。
それでも、賢一は暴力を用いたくはなかった。真理絵の身の上を知らなければ、手荒い言葉や腕力で脅すことにためらいはなかっただろう。しかし、彼女の話を聞いてしまった今となっては、触れることすら出来そうになかった。
不意に、父の言葉が蘇る。
(喧嘩をするなら、弱い者を守るためにやってくれ)
その時、真理絵は恐る恐る顔を上げた。上目遣いに、こちらを見ている。賢一は、出来るだけ優しそうな表情を作った。
「事件の詳細さえ調べてくれれば、後はあんたらの自由だ。どこに行こうが何をしようが止めない。ただ、俺はスマホもパソコンも使ったことがないんだ。だから、スマホで事件を調べてくれ」
言いながら、傍らにあった金を掴み取る。これまた、少年たちから奪った金だ。全部で三万ほどある。大金とはとても言えない額だが、今はこれしかない。
「この金も、あんたにやる。金は、いくらあっても困らないだろう。少なくて悪いが、これで頼む。俺は、何としても母さんと父さんを殺した奴を見つけたいんだ」
言った後、真理絵に頭を下げる。その時、後ろで動く気配を察知した。
振り向くと、優愛が目をこすっている。二人の話す声で、目が覚めてしまったらしい。
「ゆ、優愛! あ、あの、寝てていいのよ!」
焦った様子で、真理絵が声をかける。だが、優愛の目は母を見ていない。賢一の顔をじっと見つめていた。
見つめられている賢一の方は、出来るだけ優しい表情を作り微笑みかける。もっとも、内心では戸惑っていた。この幼い少女は、自分が怖くないのだろうか。まっすぐな目で見つめている。
ややあって、優愛は身を乗り出してきた。
「て、みていいの?」
恐る恐る聞いてくる。ちょっと怖い、でも興味が湧いて仕方ない……という様子だ。それにしても、て、とは何のことだろう。
「て? これのことか?」
言いながら、己の手のひらを示した。すると、優愛はうんうんと頷く。賢一は、困惑しつつも言われた通りにした。手のひらを突き出す。
優愛は、まじまじと見つめた。透視でもしているかのように、真剣な表情だ。賢一はわけがわからず、手を突き出したまま固まっていた。横にいる真理絵も、唖然となっている。
しばらくして、優愛は首を傾げた。
「さっきは、猫さんの手みたいだったのに……」
残念そうな口調だ。
「ね、ねこさん? 猫のことか?」
思わず聞き返すと、優愛は頷く。恐ろしい超獣である賢一のことを、気に入ってしまったのだろうか。
思わず笑みがこぼれた。
「猫さんの手って、これか?」
そう言って、右手に意識を集中させた。すると、前腕が変化していく。白い獣毛に覆われた、太くて力強い虎の前足へと変わったのだ。
途端に、優愛の目が丸くなる。
「すごい! 猫さんの手だ!」
叫び、手を伸ばし触れようとした。が、すぐに引っ込める。おずおずとした態度で、賢一を見つめた。
「あの、その手、さわっていいの?」
「ああ、いいよ」
苦笑しながら、賢一は答えた。その途端、目を輝かせて前足に触れる。
「おおお、猫さんの手なの。もふもふしてるの。すごいの」
感嘆の声を上げながら、優愛は獣毛に覆われた前足を撫で回した。さらに、肉球の部分にも触れる。
「おおお、肉球もあるの。ごつごつしてるの。面白いの」
不思議そうに、賢一の肉球を撫でたり揉んだりしていた。賢一は困った顔をしつつも、されるがままになっている。少しくすぐったいだけで、特に不快だというわけではない。
その時、ぷぷぷ……という声が聞こえてきた。横を見ると、真理絵が下を向き口を押さえている。笑いを堪えようとしているのだろう。もっとも、全く堪えられていない。肩は小刻みに震え、ふさいだ手から声は漏れていた。笑っているのはバレバレである。
そんな彼女を見ても、腹は立たなかった。それどころか、賢一は久しぶりに暖かいものを感じていた。