彼女の事情
賢一は、女の車に乗り込んだ。助手席に座り、中を見回す。
決して広くない車内には、様々なキャンプ用品が積まれている。さらには、毛布や枕まで入ってていた。親子で、ちょっとドライブに出ていた……という雰囲気でもなさそうだ。そもそも、こんな時間に幼い娘と何をしていたのだろうか。
どう考えてもおかしい。ここは永石市、日本でもトップクラスのスラムなのだ。幼い娘を連れた母親が、夜中に出歩けるような場所ではない。まともな母親なら、絶対にこんな馬鹿なことはしないはずだ。
では、この母親は?
「ど、どこに行くんですか?」
運転席の女が、ためらいがちにに聞いてきた。
その言葉で、賢一は我に返る。こんな親子の素性など、どうでもいい。まずは、母と父を殺した連中を探さなくては……だが、どうやって探せばいいのだろうか。
どこに行けばいいのか? と聞かれたが、それはこっちが聞きたいくらいである。
「なあ、あんた。俺は人を探したいんだけどさ、どうしたらいいと思う?」
思わず、そんなことを聞いていた。特に、答えに期待していたわけではない。ただ、何となく思っていたことが口に出てしまっただけだ。
女は訝しげな表情を浮かべつつも、一応は答える、
「あ、あのう……警察か探偵に頼むか、ネットを使って探します」
「警察だあ? あのな、それが出来れば苦労しねえんだよ。だいたいな──」
言いかけたが、その言葉を途中で飲み込んだ。考えてみれば、高級レストランの中で自動小銃を乱射し、大勢の人間が死んだのである。これは、マスコミにて大々的に報道される事件だ。警察も、大勢の人員を投入して捜査しているはず。
そんな事件をやらかした目的は、いったい何なのだろう。
誰かを殺すため、だよ──
そう、連中は誰かを殺すために来たはずだ。
あの二人は、頭のおかしくなった通り魔ではない。殺される直前、ほんの一瞬だが、自動小銃を出すのを見た。あんな武器は、普通の人間には絶対に用意できないはず。賢一は銃には詳しくないが、あんな武器が銃規制の厳しい日本で簡単に手に入らないことくらいはわかる。誰かに雇われて、あのレストランにいた誰かを殺しに来た……そう考えるのが自然だ。
では、誰を殺すためだろう。
父の晋三は、大手物流会社に勤めるサラリーマンである。母の静江は、ごく普通の主婦だ。わざわざ殺し屋を雇い命を奪うメリットはない。誰かに恨まれているという可能性もなくはないが、それ以前にあんな派手な殺し方をする必要はないだろう。
となると、目的は他にある。
賢一は、当時の状況をもう一度思い出してみた。確か、自分たちの他に四人家族がいたはず。いかにも金持ちのセレブといった雰囲気だった。
金持ちともなれば、敵も多いであろう。あの家族を殺すのが目的で、自分たちはそれに巻き込まれただけなのか。
だとしたら、あまりに理不尽だ。
「クソがぁ……」
思わず毒づいていた。と同時に、右手が膨れ上がる。見る見るうちに肥大化し、白い獣毛に覆われていく。先ほど不良少年たちを屠った、獣の前足へと変わろうとしていた──
それを見た女は、ビクリと反応した。目の前で、人間の腕が変化したのだ。奇怪な事態を目の当たりにした恐怖は、計り知れないものがあるだろう。顔を歪めて、少しでも遠ざかろうと身をよじる。恐怖のあまり、ガクガク震え出していた。
女の震えは、賢一にも伝わってきた。チッと舌打ちし、右手を元の形状に戻す。この女には、もう少し協力してもらわなくてはならないのだ。あまり怖がらせて、使いものにならないのも困る。
「あんた、名前は?」
出来るだけ、優しい口調で聞いてみた。もっとも、この男の顔は怖い。普通にしていても、子供を泣かせるくらいの威力はある。
案の定、女の顔は強張っている。それでも、どうにか口を開いた。
「て、天道真理絵です」
恐る恐る、といった感じで答えた。未だに、賢一に対する恐怖心は消えていないらしい。
それも仕方ないではある。賢一は、にこやかな表情を作って語り出した。
「てんどう? カッコイイ苗字だね。ちなみに、俺の名は黒田賢一。よく老けてるって言われるけどな、まだ十六歳だぜ。あっ、でも俺は一回死んでるんだよ。だから今、何歳なのか正確にはわからねえやな。ひょっとしたらゼロ歳なのかもしれねえ」
そう言って笑ってみせた。つられるように、女も笑った。だが、顔の半分は引き攣ったままだが。いきなり一度死んでるから、などと言われても、付いていけないだろう。
「ところでさ、あんたら、こんな物騒な所で何やってたんだ?」
その問いに、真理絵は顔を歪める。が、少しずつ語り始めた。
彼女は、娘の優愛と二人で永石市内のアパートに住んでいた。つい先日までは、親子二人で平和に暮らしていたのだ。
ところが事情が変わり、アパートに居られなくなったのだという。今は母娘で、車で暮らしているとのことだ。先ほどの少年たちとは、運転している時に因縁を付けられたのだという。
「なるほど、車で暮らしてるのか」
聞き終えた賢一は、呟くように言った。だが、この話に納得したわけではない。首を捻りながら、車内を見回してみた。
幼い娘と二人で、車の中で暮らしている……その設定自体は、何ら不自然ではない。この不景気なご時世、ホームレスも増えている。車で暮らす親子がいてもおかしくはない。実際、永石市にはそういう人間が多いとも聞いている。
問題なのは、母親の態度だ。超獣の勘は告げていた……この女、何かを隠している。
「いいか、ひとつ大事なことを言っておく。俺に嘘はつくなよ。本当のことだけを言え。でないと、確実に後悔することになるぞ」
その言葉に、真理絵の表情は凍りつく。やはり、嘘をついていたのだ。賢一は彼女を睨みつけ、喋り続けた。
「俺に嘘をついたり、俺を裏切ったりしたら……お前の娘が不幸になる」
言いながら、眠っている娘に視線を移した。途端に、彼女の表情が一変する。
「やめて! 娘には手を出さないで──」
叫ぼうとした真理絵の口を、賢一の手のひらがふさぐ。同時に、後部席を指差した。
そこでは、優愛が寝息を立てて熟睡している。よほど疲れていたのだろう。
「せっかく、いい気持ちで寝てるんだ。起こしたら可哀想だろう。いいか、あんたが本当のことさえ言えば、俺は何もしない。すぐに解放してやるよ。だがな、ベラベラ嘘を吐いたら、あんたの娘は確実に不幸になる。生まれて来たことを後悔することになるよ。わかるな?」
手のひらで、彼女の口をふさいだまま尋ねた。
少しの間を置き、真理絵は頷く。そこで、ようやく手のひらを離した。
「まず、お前らはどういう事情でこんな生活をしてるんだ? 何か理由があるんだろ? その本当の理由を教えろ」
その言葉に、真理絵はためらうような素振りをした。だが賢一は、無言で彼女を凝視する。
やがて、超獣の無言の圧力に屈したらしい。真理絵は、優愛の方をちらりと見た。
眠っているのを確かめると、静かに口を開く。
「人を、殺しました」
「んだと?」
賢一は、真理絵の顔をじっと見つめる。だが、彼女の目には嘘はない。代わりに、暗く深い闇があった。
「そう、あたしも人殺しなんですよ」
・・・
真理絵は、永石市の隣の白土市で生まれた。決して裕福ではない家庭に育ち、高校を卒業後すぐに就職する。本当は進学したかったが、そんな余裕はなかったのだ。
二十歳の時、五歳年上の天道富雄と出会う。富雄は、一見するとワイルドな風貌の男だ。近寄りがたい雰囲気もある。ところが話してみると礼儀正しく、また優しいところもある。二人は付き合うようになり、やがて結婚した。すぐに優愛が生まれ、傍目には順風満帆に人生を送っているように見えたことだろう。
状況が変わったのは、二年ほど前のことだった。ある日、夫は職場で上司と揉めた挙げ句、仕事を辞めてしまう。もともと喧嘩早い性格であり、結婚後もその部分は変わらない。やがて、天道家は生活保護をもらうようになった。
それを境に、富雄は変わってしまった。昼間から酒を飲むようになり、就職活動もおざなりなものになってしまった。
特に変わったのは、家族に対する態度だ。妻の真理絵に対し、ちょっとしたことで怒鳴りつけ、さらには暴力を振るうようになる。しばらくすると、今度は嘘のように涙を流しながら謝った。
真理絵は、そんな生活にどうにか耐えていたが……ある晩、悲劇が起きてしまった。
その日、富雄は久しぶりに就職のための面接に行った。だが、帰って来るなり真理絵を罵り出した。どうやら、面接先の会社で不快なことを言われたらしい。しかも、その帰りに酒を飲んできたようなのだ。
そのことを指摘した途端、夫の瞳に凶暴な光が宿る。
直後、真理絵を殴りつけた──
彼女は必死で耐えた。だが、富雄の暴力は止まらない。真理絵の腹や背中に、執拗な暴力を加える。
やがて、夫の手が止まった。
ようやく終わったか、と思い、恐る恐る顔を上げる。途端に、その表情が凍りつく。いつのまにか、優愛がすぐそばに来ていたのだ。母を殴る父を、暗い目で見つめている。
それを見た途端、富雄はギリリと奥歯を噛み締める。彼の怒りの矛先は、娘へと向いた。
「何だ、その目は! 俺をバカにしてるのか!」
喚くと同時に、夫は優愛を蹴飛ばした。すると、サッカーボールのように床の上を転がっていく。腹を押さえ、うずくまっていた。
このままでは、娘が殺されるかもしれない……その瞬間、真理絵の中で何かが弾け飛んだ。
「やめて!」
無我夢中だった。娘を守りたいという気持ち、理不尽な暴力を振るう夫への怒り……それらが入り混じり、とっさにテーブルの上にあるものを掴む。それが何であるか、確認すらしなかった。
振り上げ、後頭部に叩きつけた。
直後、富雄はあっさりと崩れ落ちた。もっとも、彼女は彼の姿など見ていなかった。優愛を抱きしめ、寝室へと駆け込み扉を閉める。
押し入れの中に娘を入れ戸を閉め、その前に座り込んだ。
娘を守るため、ここは絶対に死守する。彼女は、震えながらも夫を待ち受けた。
どのくらいの時間が経ったのか。
しばらくして、真理絵は違和感を覚える。外はしんと静まり返っていて、何も聞こえて来ないのだ。動くものの気配が感じられない。もちろん、夫が侵入して来る気配もない。
どういうことだろう……立ち上がり、そっと寝室の扉を開けた見た。だが、何の反応もない。
恐る恐る、リビングへと向かう。その時になって、ようやく何が起きたのかを理解した。
その部屋は、もはやリビングとは呼べなかった。
どす黒い血液が、床に大きな水溜まりを作っていた。いや、血溜まりと言った方が正確か。
言うまでもなく、その血液は夫の体から流れ出たものだ。彼はうつぶせに倒れており、ピクリとも動かない。後頭部はパックリ裂けており、血がべっとりと付いている。
その横には、重く硬いガラス製の灰皿が転がっていた──
気がつくと、財布や通帳やカードといったものをかき集めていた。それらをバッグに入れ、優愛を抱き上げる。
目をつぶっているように言った後、娘と共に家を飛び出した。二人で車に乗りこむ。
猛スピードで車を走らせた。行くあてなどない。ただただ、遠くに行きたかった。あの家から、少しでも離れた場所に行きたかった──