短いお別れ
「お世話になりました」
真理絵は、深々と頭を下げた。
門の横に立っている女性は、険しい表情で彼女を見つめた。紺色の制服姿で、腰のベルトには警棒を吊している。
そう、この女は刑務所の看守である。
「あんたは、あたしの見てきた中でも一番まじめにやっていた。あんたなら、やり直せる。もう二度と、こんなところに戻って来るんじゃないよ。今度また来たら、いびり倒してやるから。二度と、悪さが出来ないようにね」
がっちりした体格の女性看守は、鋭い目で睨みつけながら、静かな口調で言い放つ。言葉そのものは冷酷である。だが、その奥には優しさが感じられた。
真理絵は、こくんと頷いた。
気がついた時、真理絵は病院のベッドにいた。大病院の入口に寝かされていたのだという。すぐに緊急手術を行い、一命を取りとめた。あと数分、処置が遅れていたら命を落としていただろう……医者に、そう言われた。
その後、入院中に警察の取り調べを受けた。やがて体が回復し退院すると同時に、裁判が始まる。弁護士は、故意でなく過失であること、普段からDVの被害に遭っていたこと、娘を守るためであったことなどを主張する。
検察側は、死なせた直後に現場から逃亡したことや、逃亡中の生活に関しての供述が曖昧であることを理由に厳重なる処罰を訴える。結果、懲役五年の刑となった。
真理絵は、女子刑務所で四年間まじめに受刑生活を送った。そして今日、ようやく仮出所の日を迎えたのである。
真理絵はひとり、とぼとぼと道路を歩いていく。出迎えてくれる者など、誰もいない。したがって、ひとりで歩くしかない。
何とも奇妙な気分だった。刑務所の中では、ひとりで通路を歩くことなどない。常に、看守がそばにいた。鋭い目で、真理絵の行動に目を光らせている。最初のうちは、看守の存在自体がストレスだった。しかし今では、看守なしで歩くことに違和感を覚えている。
今、真理絵が歩いているのは何もない田舎道だ。道路の周囲には、荒れ地や林が広がっている。人の気配はなく、車すら見かけない。看守の話では、刑務所から道なりに十五分ほど歩くと、バス停があるらしい。そのバスに乗れば、二時間ほどで駅に着くとのことだ。
あの子は今、どうしているのだろう。
ふと、優愛のことを思った。これまで、一度だけ手紙が来た。娘の直筆のもだが、写真は入っていなかった。
現在、優愛が暮らしている施設の職員たちは、前科者である真理絵のことを快く思っていないのだ。きちんと自立した生活が出来るまで、娘との生活は認めないと言われた。それどころか、会わせることすら許可できない……と、職員からの手紙に書かれていたのだ。もっとも、それも仕方ないことである。
当然、優愛は刑務所への面会には来ていない。ひとりで来られるような場所でもないので、仕方ないことではあった。
今さらながら、前科者に対する世間の厳しさを知らされた。
賢一は、完全に姿を消していた。南条の隠れ家で、言葉を交わしたのは覚えている。だが、それきりだった。
(叔父さんとは、あれから一度も会っていない)
優愛からの手紙には、そう書かれていた。叔父さんなる人物に心当たりはない。恐らく、賢一のことだろう。彼女も、会えていないというのか。
賢一……どこに行ったの?
優愛を、守ってくれるんじゃなかったの?
刑務所の中で、思ったことがある。ひょっとして、全ては夢だったのではないだろうか。自分は、車で逃げている途中で事故に遭い、昏睡状態のまま運ばれたのではないか。
賢一との出会い。さらに、その後に起きた出来事は……意識を失っている間に見ていた夢だったのではないだろうか、とさえ考えるようになっていた。
そんなことを思いながら、とぼとぼ歩いていた時だ。突然、奇妙な音が響き渡る。バサッバサッという音だ。さらに、強い風を感じ思わず目を閉じる。
直後、上空より大きな何かが舞い降りた──
「あ、あんたは………」
真理絵は、呆然とした表情で呟いた。
彼女の目の前には、大柄な男が立っている。黒い髪は肩まで伸びており、肩幅は広くがっちりした体格だ。胸板も厚く、野獣のように精悍な顔立ちである。上半身裸で、たくましい肉体が剥きだしになっていた。もっとも。左の前腕があるはずの箇所には何もない。
間違いない、賢一だ。しかし、真理絵は彼のことは見ていなかった。その太い右腕に抱えられているものを、唖然とした表情で見つめている。
それは、幼い少女だった。活発そうな雰囲気を醸し出しており、顔も可愛らしい。どこか、幼い頃の自分に似ている気がする。
ずいぶんと大きくなったものだ。子供とは、こんなに早く成長するのか──
「ゆ、優愛……」
真理絵は、ようやく言葉を搾り出した。すると、賢一は優愛を降ろす。
その途端、優愛は顔をくしゃくしゃに歪めて走ってくる。真理絵に、抱き着いていった──
「ママ……会いたかったよ……」
胸に頬を埋め泣きじゃくる娘を、真理絵はぼんやりとした表情で受け止めている。数年ぶりにシャバに出たら、想定外の出来事が次々と彼女を襲ったのだ。夢幻かと思っていた賢一が、いきなり上空から現れ、優愛と会わせてくれた。真理絵自身が、今の事態を受け止めきれずにいた。
そんな中、賢一はくるりと背中を向けた。その瞬間、真理絵はハッとなる。ようやく、今の状況が飲み込めてきたのだ。
「け、賢一……」
声を聴いた瞬間、賢一はビクリと反応し立ち止まる。だが、こちらを見ようともしていない。
「二人とも、久しぶりだな。会えてよかったよ。じゃあな」
そっけない言葉だった。真理恵は、思わず叫ぶ。
「待ってよ!」
だが、賢一は彼女を無視して進んでいく。
次の瞬間、真理絵は走った。優愛を抱きしめたまま走り、賢一に追いすがる。その肩に触れ、怒鳴りつけた。
「やっと会えたのに、また居なくなる気なの!? 約束したでしょ! 優愛を守るって!」
すると、賢一は振り向いた。その顔には、何の表情も浮かんでいない。
「前にも言ったがな、俺は人間じゃない。悪魔の力で転生した怪物なんだよ。本来なら、この世界にいてはいけない存在なんだ。それに、お前らにも迷惑をかけちまった。もう、一緒には暮らせない」
冷めきった口調だった。言った直後、すぐに目を逸らせる。その態度に、真理絵は感情を爆発させる。
「そんなの関係ない! 賢一はあたしたちの家族だよ──」
「駄目だ。俺とお前たちとは違うんだよ。俺がいたら、また迷惑をかけることになる。もう一度言うぞ。俺は、人間を食らう化け物なんだ」
震える声で言った後、賢一は再び歩き出す。すると今度は、優愛が彼のそばに走っていく。
賢一の腕を掴み、叫んだ。
「待ってよ! また、居なくなる気なの! やっと……やっと会えたのに!」
少女の訴えに、賢一は顔をしかめる。それは怒りではない。己の裡からこみあげてくる何かを、必死でこらえようとしていた。
「ああ、居なくなる気だ。もう、昔みたいに一緒に遊ぶこともないだろう」
「ふざけないで! ちゃんとママのことを見てあげなよ!」
叫びながら、賢一の腕を引っ張る。その目には、涙が溢れていた。
だが、賢一は彼女を見ようともしていない。静かな口調で、言葉を返す。
「だったら、その目で見るんだ。俺の、真の姿を」
直後、賢一の体が変化した──
全身の筋肉が一瞬にして、異常なサイズまで肥大化する。次の瞬間、獣毛に覆われていった。手足の形状も、猫科の猛獣のそれへと変わっていく。さらに背中には、巨大な翼が生えて来た。
思わず後ずさる優愛。真理絵も、恐怖のあまり顔を歪める。だが、変化はそれだけに止まらなかった。左肩から、猛禽の頭が出現したのだ。大空を舞い、地を這う生き物を食らう鷹の頭である。
さらに右肩には、巨大な白虎の頭が現れ出た。獰猛な肉食獣の顔が、優愛を睨みつける。
あまりの恐ろしさに、優愛はへたり込んだ。腰を抜かし、がたがた震え出す。彼女の本能が告げていた……目の前にいるのは、他の生き物とは完全に違う存在なのだ。本来なら、この世界にいないはずのもの。魔界を住みかとし、人間の悪夢の中にのみ登場する怪物。その事実を、理屈ではなく生き物の本能で理解したのだ。
「わかったな。俺は、化け物なんだよ。消えた方がいいんだ」
込み上げてくるものを必死で堪え、賢一は冷たく言い放った。だが、優愛を見つめている動物たちの目には、どこか悲しげな色がある。
呆然となっていた優愛だったが、その時ようやく理解できた。賢一もまた、身を切られるようなつらさに耐えている。二人の前では、絶対に見せたくなかった姿。超獣の姿を、あえて晒しているのだ。
二人の見ている前で、超獣の姿をした賢一は歩き出す。だが、すぐに足を止めた。
「でも、俺の助けが必要な時には、いつでも来る」
それだけ言い残すと、超獣は高く跳躍する。直後、背中から翼が出現した。
巨大な翼を広げ、空の彼方に飛び去っていった──