賢一の選択(1)
気がつくと、賢一は仰向けに倒れていた。
慌てて上体を起こし、周囲を見回す。こんな異様な場所は見たことがない。
「なんだ、ここは?」
誰かに、というより自分自身に尋ねていた。あたり一面は真っ白に塗りつぶされている。視界の届く範囲には、白以外のものがない。さらに、奥行きというものが感じられないのだ。例えて言うなら、真っ白い画用紙に周囲を覆われているようである。不思議な空間であった。
俺は、どこにいるんだ?
いや、その前に……俺は、何をしていた?
頭の中に、次々と疑問が浮かんで来る。何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
顔をしかめながら、どうにか立ち上がった。周囲を慎重に見回し、少しずつ歩いてみる。一応、地面は硬い。靴を通して、コンクリートのような硬い感触が伝わってくる。
さらに歩いてみた。だが、どこまでも同じ風景が続いている。視界に入って来るのは白い空間だけだ。他には何もない。
どう考えても、今の状況は異様である。いったい何事が起きたのか。賢一は立ち止まり、必死で頭を働かせる。ここに来る直前に何があったか、記憶を蘇らせようとした。
その時──
「黒田賢一だな。すまないが、私の話を聞いてくれないかな?」
不意に、後ろから声が聞こえてきた。老人のもののようだが、不思議な力強さが感じられる。賢一は、慌てて振り返った。
そこに立っていたのは、木の杖を持った老人だった。真っ白い衣を着て、白く長い髭を生やしている。髪の毛も真っ白だ。アニメに登場する神のような風貌である。
その老人は、静かな口調で語り出した。
「申し訳ないが、お前を間違えて死なせてしまった。恥ずかしい話だが、我々の手違いによるものだ。お詫びに、今からお前を異世界へと転生させてあげよう。最強の魔力を持った、無敵の超人としてな」
その言葉に、賢一はポカンとなった。口をあんぐりと開けたまま、老人を見つめる。
このジジイ、何を言っているんだ?
「ちょっと待てよ。お前は何を言っているんだ? 俺が死んだって? 何を馬鹿なことを……」
言いかけた時、ようやく思い出した。
己の身に、何があったのかを。
あの日、賢一は家族と一緒にレストランにいた。そこで食事を始めようとした時、二人の男がいきなり入って来たのだ。
清掃作業員のような格好をした、外国人の二人組。彼らは、肩から袋をぶら下げている。その袋から、何かを取り出した。奇妙な物だ。黒光りする金属製の何か。いや、自動小銃だ。
その自動小銃が、いきなり火を吹いた──
けたたましい音に続き、飛び散る血と肉片。ほんの僅かな時間にもかかわらず、目の前で人間が次々と死んでいったのだ。
賢一の体にも、容赦なく銃弾が炸裂し貫いていった。痛みを感じる間もない。一瞬の内に、彼は一生を終えた。
薄れゆく意識の中、最後に賢一が見たものは……自分を守ろうと覆い被さっていた、父と母の死に顔であった。
「俺、死んだのか。あいつらに殺されたのか」
呆然となりながら呟く賢一に、老人は頷いた。
「そう、ここは冥界だ。お前は死んでしまった。だが調べてみたところ、本当ならば助かるはずだった。どうやら、こちらの手違いで死なせてしまったらしい。そのお詫びとして、君を異世界に転生させてあげよう」
「異世界に、転生……」
言葉を繰り返す賢一の表情は、能面のように虚ろなものであった。声にも、生気が感じられない。しかし、老人は構わず語り続ける。
「そうだ。お前は人生をやり直せる。今までのような、平凡でつまらない人生ではない。神にも等しい存在として、思うがままの人生を送れる──」
「いらねえよ」
老人の言葉を遮り、ぼそりと呟いた。
「ん? 今、何と言ったのだ?」
聞き返した老人を、賢一は凄まじい形相で睨みつける。
「聞こえなかったのか。なら、もう一度言ってやる。いらねえっつったんだよ! そんなもんでごまかすんじゃねえ! んなもんいるかあぁぁ!」
吠えながら、老人の襟首を掴む。その目には、涙が溢れていた──
「そんなチート人生なんかいらねえんだよ! クソ食らえだ! 母さんも父さんも生きてたんだ! あの世界で、母さんと父さんは一生懸命に生きてたんだよ! 精一杯がんばって必死でもがいて、やっと掴んだ幸せだったんだぞ! それを、てめえらの都合で簡単に奪うんじゃねえ! 命を返せ! 母さんと父さんの人生を返せえぇ!」
「それは無理だ。お前の父と母の死は決まっていた。これは、避けようのない運命だったのだ。前世からの因縁でもある」
「前世だと!? ふざけるな! そんなものが現世で必死で生きていた命と、何の関係があるんだよ!? 関係ねえだろうが!?」
吠える賢一だったが、老人は平然としている。どこ吹く風、といった風情だ。
「お前は今回、死ぬはずではなかった。情けない話だが、我らの手違いである。だからこそ、超人として転生させてやるのだ。お前はこの先、神にも等しい存在になれる。最強の王として、人間たちを支配するのも良し。凡人には一生味わうことの出来ない、究極の快楽を貪るのも良し。思うがままの人生を送れるのだぞ」
知ったことではないとでもいった様子である。淡々とした口調で、老人は言葉を返す。その態度が、賢一の怒りをさらに増幅させた。
「クソがぁ! んな紛い物の人生なんかいるかあぁ! だったら俺を戻せ! 元の世界に戻せ! 母さんと父さんを殺した奴らを、この手でぶっ殺してやる!」
わめきながら、老人を思いきり殴り付ける。だが賢一の拳が当たった瞬間、老人の体は煙のように消え去った。
直後、上から声が聞こえてきた。
「それも無理だ。お前の肉体は、既に焼かれてしまっている。器となる肉体がなくては、あの世界に蘇ることは出来ん。少し頭を冷やして考えろ。異世界に転生するのが嫌なら、お前は死ぬしかないのだ。気が変わったら、後ろの扉を開けるがいい」
賢一が振り返ると、そこには扉が出現していた。彼の数メートル後ろに、巨大な木製の扉があるのだ。ほんの数分前までは、無かったはずなのに。
不思議な光景ではある。だが、そんな奇跡ですら賢一の心には何ももたらさなかった。
彼の脳裏に、かつての記憶が甦る。
・・・
「この度は、本当に申し訳ありませんでした」
教師らが並ぶ中、深々と頭をさげる晋三。続いて、静江も頭を下げた。
「本当に、申し訳ありません」
その二人の横で、賢一は唇を噛み締めていた──
帰り道、賢一はやるせない気持ちを抱え歩いていた。両親に、いろいろ言いたいことがある。謝りたい気持ちもある。だが、言い出せない。
その時、ポンと肩を叩かれた。
「賢一、喧嘩もほどほどにな」
晋三の口調は、穏やかなものだった。責めるような声色ではない。むしろ、優しさに満ちている。
その態度は、殴られるより辛いものだった。途端に、賢一の押さえていた感情が溢れ出す──
「何で父さんが頭下げんだよ! 悪いのは俺だろうが! なのに、俺なんかのために!」
喚いた賢一。すると、父の表情が変わる。
「お前、本気でそう思ってるのか?」
「えっ?」
困惑する賢一に向かい、晋三は厳しい表情を浮かべていた。
「お前は、本気で自分が悪いと思っているのか? 違うだろうが。いじめられている子を助けるために、いじめっ子を殴った……そうなんだろ?」
その言葉に、賢一はこくんと頷く。
あれは、本当に酷かった。同級生の集団が、ひとりの少年を罰ゲームと称してバケツの水をかけていたのだ。しかも、その様子をスマホで撮影していたのだ。以前から、いじめを繰り返していたグループである。今までは、賢一も我関せずの態度を取っていた。
だが、その光景を間近で見ていて我慢できなくなくなった。へらへら笑いながら、水をぶっかける者たち……いじめられている少年がかわいそうというより、いじめている連中の醜さが、彼の逆鱗に触れてしまったのだ。
賢一は立ち上がると、その場でリーダー格の襟首を掴む。いきなりのことに、相手は何も出来ない。怯えた表情で、彼を見上げる。
だが、賢一は容赦しない。力任せに振り回した後で、数発殴った。リーダー格は、涙と鼻血を流しながら謝った。
結果、晋三と静江が呼び出され、相手の少年とその両親に謝罪させられたのだ。もっとも、いじめに遭っていた生徒は、何があったかをきちんと証言したため謝罪のみで済んだ。
「いいか、日本の法律では、人を殴るのは罪だ。罪を犯せば、罰を受ける」
神妙な顔で下を向く賢一に、晋三は語り続けた。
「これからは、つまらない喧嘩はするな。ただし、今回は別だ。父さんは、嬉しかったぞ。弱い者を助けるために、その拳を振るってくれたことをな……俺は、お前のしたことを誇りに思う。俺の頭を下げて向こうの気が済むなら、いくらでも下げてやる」
「と、父さん」
言葉につまり、俯いた。まさか、そんなことを言われるとは……。
その時、横にいた静江が微笑んだ。
「あのね、父さんだって凄く喧嘩っ早かったのよ。賢一くらいの歳には、喧嘩ばかりしてたんだから」
「そ、そうだったの?」
さすがに驚きを隠せない。晋三は、体格こそ大柄ではあるが、温厚な人物である。実際、生まれてから父に殴られた記憶はない。
「ああ、そうだよ。昔は、本当につまらんことで喧嘩ばかりしてた。そのたびに、お爺ちゃんとお婆ちゃんが謝りに行ってたよ。けどな、お前にはつまらん喧嘩はして欲しくない。喧嘩をするなら、弱い者を守るためにやってくれ」
「そうよ、賢一。弱い子を守るための喧嘩なら、母さんも応援するから」
以来、賢一の喧嘩の回数は激減する。街で他校の不良生徒と出くわしても、無視するようになっていた。
自分のために、父と母が頭を下げる……そんな姿を、見たくなかったから。
・・・
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
賢一は、ずっと座り込んだままだった。異世界に超人として転生するか、あるいは死ぬか。この二択、普通なら考えるまでもないだろう。
しかし、彼は神などという存在に屈したくはなかった。訳も分からず両親ともども殺され、挙げ句に異世界に転生などと……そんな理不尽な話を、受け入れられるはずがない。
そう、断じて受け入れてはいけないのだ。目の前で最後の力を振り絞り、自分を守ろうと覆い被さってきた父と母の顔は、生涯忘れることが出来ないだろう。
神のやったことを認めてしまったら、父と母の理不尽な死を認めることになるのだ。それだけは承服できない。
その時だった。
「ねえ賢一くん、君に話があるんだ」
不意に、後ろから声が聞こえた。先ほどの神のそれとは違い、若々しいものだ。
賢一がそちらを向くと、奇妙な青年が立っていた──