最悪の事態
「ねえ! ここ入りたい!」
優愛が、母親の手を引っ張る。だが、真理絵は顔を引き攣らせている。
「えっ……ママは、いいよ」
口元を歪めつつ、首を横に振った。
それも当然だろう。親子の目の前には、おどろおどろしい絵が描かれた建物がある。真理絵は、こういう類いのものは好きではないらしい。
だが、優愛は好みが違っていた。
「えええっ!? なんで!? 面白そうじゃん! 入ろうよ!」
口をとがらせ抗議する少女に、賢一は微笑みながら頭を撫でた。
「じゃあ、俺が一緒に入るよ。それとも、俺じゃ駄目か?」
その言葉に、優愛は渋い表情になった。もっとも、その表情が本心からのものでないのは明らかだった。
「ほんとは、ママと入りたかったのになあ……しょうがないから、賢一で我慢してあげる」
不満そうな顔ではあるが、賢一の手をしっかりと握ってきた。賢一は苦笑し、真理絵の方を向く。
「俺で我慢してくれるそうだ。だから、あんたはここで座って待っててくれ」
そう言って、ベンチを指差す。すると、真理絵は何を思ったか首を横に振った。
「その前に、ちょっと言いたいことがあるんだけど」
言いながら、賢一を睨む。
「あたしには、真理絵って名前があるんだけど……知ってるよね?」
「えっ? う、うん、もちろん知ってる」
賢一はわけがわからず、困ったような表情で頷いた。何が言いたいのか、さっぱりわからないが、どうやら怒っているらしい。
一方の真理絵は、腕を組んで近づいてくる。賢一を睨みながら口を開いた。
「賢一は、あたしのこと名前で呼んでくれたことないよね。いっつも、あんた呼ばわりしてだけど。優愛のことは名前で呼ぶくせに、何であたしのことは名前で呼んでくれないの?」
「えっ? いや、あの、それは……」
たちまち、しどろもどろになる賢一。まさか、そんなことを言われるとは考えもしていなかったのだ。
確かに、真理絵のことは「あんた」と呼んでいる。名前を呼んだ記憶はない。そもそも、同級生の女すら名前で呼んだことはないのだ。
「ねえ、どういうこと?」
顔を近づけてくる真理絵に、賢一は後ずさりながら口を開く。
「じゃ、じゃあ……ま、真理絵、さん、はそこのベンチにいてくれ」
目を逸らし、どうにか言葉を搾り出す。真理絵は苦笑しつつも、こくんと頷いた。
賢一はホッとした表情で、優愛の方を向いた。
「じゃあ、お化け屋敷に行くか」
「うん!」
三人は今、永石市内の遊園地に来ている。
平日の昼間だというのに、人はかなり入っていた。そもそも、この遊園地『永石園』がオープンしたのは三十年以上前だ。有名なアトラクションがあるわけでもないし、目玉になるものもない。施設は古く、昭和の匂いがぷんぷんしている。実のところ、数年前までは閉園が噂されていたくらいだ。
ところが、永石市を取り巻く状況の変化に伴い、永石園も変わった。今では、全国でも屈指の売り上げを誇る遊戯施設と化している。
発端となったのは、有名なユーチューバーが動画で取り上げたことだ。派手なリアクションとともに、施設のアトラクションのひとつひとつを面白おかしく紹介していった。
「このユルさ最高! みんなも来てみて!」
そう、この永石園はユルかった。園内に設置されているデビルニャン(園のマスコットキャラらしい)の人形はボロボロで、あちこち塗装の落ちた姿はホラー映画のモンスターにしか見えない。アトラクションも古いものばかりだし、どこかのアニメキャラをそのままパクったような乗り物で移動アトラクションもある。
園内では、調子外れのBGMが終始流れており、設置されている自動販売機にはマイナーなメーカーのジュースばかりが入っていた。まるで、昭和の時代にタイムスリップしたかのようである。
ところが、すぐ近くに広がる無法地帯のごとき町と、真逆のユルい空気が漂う遊園地とのギャップが観光客の心を掴んだらしい。今では、南地区のスリルある世紀末的雰囲気を味わった後、永石園のユルい空気を楽しむ……これが、永石市の観光パターンになっている。
賢一と優愛は、二人して遊園地のお化け屋敷に入る。その間、真理絵はベンチに座り待っている……ことになっていた。
言うまでもなく、お化け屋敷の中もユルいものばかりだ。妙なタイミングで飛び出す某猫型ロボットに似た人形、とぼけた音楽、おかしな扮装で客を脅かす……気はさらさらなく、奇怪な振り付けのダンスを披露し消えていくアルバイト。もはや、怖がらせるというよりクスリとさせるシュールさに力を入れているらしい。優愛は怖がるより先にゲラゲラ笑い、賢一も苦笑しつつ中を通っていた。
やがて二人は、お化け屋敷から出て来た。
「たのしかったね!」
はしゃぐ優愛を見て、賢一は頭を掻いた。このお化け屋敷のユルさを楽しめるとは……なんとも末恐ろしい少女である。
だが、笑っていられるのもそこまでであった。二人の笑顔は、絶望へと変わる──
賢一は優愛を連れ、待ち合わせ場所のベンチへと歩いて来た。しかし、待っているはずの真理絵はいない。
二人は、顔を見合わせた。
「どういうことだ?」
首を捻りながら、賢一は周囲を見回す。彼女の姿は、どこにも見えない。代わりに、書き置きらしきものがあった。紙が二枚、ベンチの上に置かれている。片方には文字が書かれており、もう片方には地図らしきものが書かれていた。ご丁寧にも、重し代わりに真理絵のハンドバッグまで置かれている。
賢一は、字が書かれている方の紙を手に取った。その途端、表情が歪む。
(彼女は預かったよ。返して欲しいなら、地図に書かれている場所に来て欲しいな。僕が誰かは分かるよね。まあ、どうするかは君の自由だけど)
誰か、とは考えるまでもない。南条真吾だ。賢一はギリリと奥歯を噛みしめた。
「南条の野郎……」
迂闊だった、と言わざるを得ない。遊園地ならば、人目がある。そんな場所で、仕掛けて来るはずがないと高を括っていたのだ。
まさか、真理絵に狙いをつけるとは思っていなかった。
「賢一、ママはどこに行ったの?」
不安そうに尋ねる優愛に、賢一は言葉が出なかった。何と答えればいいのか。
「ねえ、ママはどこ!?」
なおも聞いてくる優愛。これは、もはやごまかせない。険しい表情で答える。
「ママは、悪い奴らにさらわれた。俺が、必ず助けだすから」
言った後、賢一は周りを見回した。人が多すぎる。そのせいで、危険な匂いを感じ取れないのだ。これでは、仮に後をつけられていたとしても、気づかない恐れがある。万が一、優愛までターゲットにされてはまずい。
かといって、これから向かう場所に連れていくわけにもいかないのだ。彼は、殺し合いをしなくてはならないのだから。
こうなった以上、打つ手はひとつしかない。
賢一は、ひとまず遊園地を出た。優愛の手を握り、町中を歩いていく。少女の顔色は青く、体は震えている。
しばらく歩くと、駅前で立ち止まった。
「いいか、あのお巡りさんの所に行くんだ。名前を言った後は、何も喋るなよ。何か聞かれても、知らないと言い張るんだ。分かったな?」
賢一の言葉に、優愛は真っ青な顔で頷いた。二人の十メートルほど先には、交番がある。
「お母さんを助け出したら、必ずお前も連れて行くから。その時は、また三人で一緒に暮らそう」
そう言うと、賢一は彼女の背中を押した。優愛は震えながらも、交番へ向かい歩いていく……。
少女が無事に警官に保護されたのを見届けると、賢一は背中を向け歩いていく。
己の甘さが、この事態を招いてしまった。もし、さっさと南条を殺していれば、こんなことにならなかったのに。
思えば、自分は復讐するために蘇ったのである。なのに、真理絵や優愛と出会い、愚かな夢を見てしまった。
人間でない自分が、家族を持ち……夫に、父親になれるなどと考えていたのだ。
俺は、バカだったよ。
もう、甘い夢は見ない。
奴らを、皆殺しにする。