優愛のお願い
永石市は、豊かな自然が特徴的な場所である。周辺を山に囲まれており、道路を少し離れると、木々の生い茂る森の中に入り込むことが可能だ。
賢一たちもまた、森に潜んでいる。獣道を車で通り、森の中へと入って来ていた。昨日のような、怪しげな連中の目を逃れるためだ。人目につくような場所では、下手に出歩くことも出来ない。万が一、真理絵と優愛が奴らの目に止まったら……。
かといって、ホテルの中に一日中こもっている訳にもいかない。そこで賢一は、森の中を探索した。この母娘が住むのに適した場所はないだろうか、と。結果、見つけたのが山の中に建てられた旅館の跡地である。既に廃墟となっており水道も電気も通っていないが、なんとか生活は可能だ。
三人は、その旅館跡地へと引っ越してきたのである。親子で暮らすには、いい場所とは言えない。いずれは、もっとマシな場所に移りたいものだ。
もっとも、優愛はそんな事情などお構いなしだ。特に森の中は、幼い子供にとって格好の遊び場である。
「ねえ賢一、飛んで!」
優愛は、無邪気な顔で賢一の手を引きながら、そんなことを言ってきたのだ。さすがの賢一も、思わず聞き返していた。
「と、飛ぶ!?」
「うん。飛んで!」
そう言うと、賢一に抱き着いてきた。彼は少し戸惑いながらも、優愛の言葉に従う。少女を、そっと抱えた。お姫さま抱っこの体勢だ。
そのまま、すっとしゃがみ込んだ。直後に、超獣の脚力を解き放った。思い切り跳躍する。
次の瞬間、賢一は飛んだ。その高さは、十メートルを超えただろう。
二人は一瞬ではあるが、宙に浮いていた。が、すぐに落下していく。
賢一は、優愛を抱えたまま着地した。何事もなかったかのような表情である。
だが、優愛の方はそうではなかった。
「うわあ! すごい!」
目を輝かせて叫んだ。怖がる様子はない。絶叫マシンにでも乗っているような気分なのだろうか。
楽しそうな彼女の反応に、賢一も気をよくした。
「もう一度、飛んでみるか?」
「うん!」
元気よく答える優愛。賢一も微笑み、もう一度跳ぼうとした。
だが、そこに乱入してきた者がいる。真理絵だ。思い切り顔を引きつらせ、ずかずかと近づき賢一の腕を掴んだ。
「ちょっと賢一! いい加減にして! 優愛は、あんたみたいに頑丈じゃないんだから!」
凄まじい剣幕である。さすがの賢一も、たじたじとなっていた。
「ご、ごめん」
賢一は、ペコペコ頭を下げる。いつの間にか、力関係が完全に逆転してしまっていた。出会った頃は、賢一の態度や言葉に怯えきっていた真理絵。だが今では、むしろ賢一の方が怯んでいる。
「優愛に何かあったら、許さないからね!」
恐ろしい形相の真理絵に怒鳴られ、賢一は厳つい体を縮こませた。すると、優愛が母親の手を掴む。
「ママ、あたしが悪いの。あたしが、お願いしたから……賢一を怒らないであげて」
上目使いで懇願する優愛に、真理絵は渋い表情だ。ふうと溜息を吐き、娘の頭を撫でた。賢一は、どうにか助かったことを理解し、そっと胸を撫で下ろす。
血の繋がりのない三人だったが、その場には家族の醸し出すような和やかな空気が漂っていた。
「ねえ、奥にいってみようよ!」
真理絵の機嫌が収まったと見るや、優愛が訴えてきた。その手は、賢一の腕をしっかりと握っている。
賢一は、ちらりと真理絵を見た。いいのか、とでも言いたげな表情を浮かべつつ、彼女に視線を送る。途端に、じろりと睨まれた。思わず目を逸らす。
真理絵は、次に優愛を見た。少女は、つぶらな瞳で母を見つめる。お願い、とでもいいたげだ。
さすがの真理絵も、表情が緩む。直後、しょうがないな……という顔つきで口を開く。
「いいよ。ただし、あんまり遠くに行かないこと。それと賢一、あんまり危ないことはさせないで」
「あ、ああ、わかった」
答えたと同時に、優愛は賢一の腕を引いた。
「行こ!」
こうして賢一と優愛は、手を繋いで森の中を歩いていった。
「賢一は、ママのこと好きでしょ?」
突然、優愛が聞いてきた。賢一は、うろたえ口ごもる。
「えっ、いや、それはだな──」
そこで口を閉じた。遠くから、おかしな音が聴こえてきたのだ。さらに、匂いもする。
この先に、動物がいる。それも、か弱い……いや、それどころではない。今にも死にそうな声だ。
「ど、どうしたの?」
優愛は、不思議そうに賢一の顔を見上げた。賢一は無言で、口に人差し指を当てた。そのまま、静かに歩いていく。
さらに匂いが濃くなってきた。これは猫だ。それも、生まれたてである。親らしき猫の匂いはない。どうやら、親からはぐれてしまったらしい。さて、どうしたものか。
「猫だな。どうするか」
思わず呟いていた。その言葉を聞いた瞬間、優愛の目が輝く。
「ね、猫さんいるの?」
「ああ、いるみたいだ。優愛は、猫が好きなのか?」
「うん! 好き! 大好き!」
笑顔で答える少女に、賢一は苦笑した。
「そうか。じゃあ、ちょっと行ってみるか?」
「うん!」
二人は、匂いのする方向へと進んで行った。
森の中を歩いていくと、ひときわ大きな木の生えている場所に来た。その下に、小さな猫を発見する。白い毛並みの、生まれたての仔猫だ。予想通り、親猫とはぐれてしまったらしい。怯えた様子で、賢一たちを見上げている。
「猫さんだ!」
優愛が叫んだ。すると、仔猫はビクりとなる。下手に近づくと、怯えて逃げてしまうだろう。
「おいおい、あんまり大声だすな。猫が怖がるだろう」
そう言うと、賢一はゆっくりと仔猫に近づいていく。対する仔猫は、少しずつ後ずさっていった。今にも逃げ出しそうな雰囲気だ。大柄な人間が、怖く見えるのだろう。
ならば、これでどうだ。賢一はそっとしゃがみ込むと、手を差し出した。さらに、出した手の形状を変化させる……みるみるうちに、白い虎の前足へと変わった。
すると、仔猫の態度が変わった。不思議な現象を見て、興味を持ったのだろうか。あるいは、猫科の動物の毛を見て親近感を抱いたのかも知れない。おっかなびっくりしながらも、少しずつ近づいて来る。
賢一の頭に、かつての記憶が蘇る。自宅に、猫のシェリーが来た時のことを思い出していた。シェリーも、初めはこんなふうに怯えていたのだ。
「ほら、おいで」
優しく声をかけると、仔猫は彼の前足に顔をくっつけてきた。くんくん匂いを嗅いでいる。続いて、頬を擦り寄せてきた。どうやら、お気に召してくれたらしい。
賢一は、思わず微笑んだ。手を伸ばし、そっと仔猫を抱き上げる。仔猫は抵抗もせず、されるがままになっていた。
「賢一、あたしも猫さん抱っこしたい。抱っこしていい?」
黙って見ていた優愛が、恐る恐る聞いてきた。
「いいよ。ただし、優しくしろよ。猫だって、痛いのは嫌なんだからな。あと、あまり大きな声を出すな」
賢一は、仔猫をそっと手渡した。
「可愛いな。猫さん、本当に可愛い」
言いながら、優愛は仔猫を撫でる。仔猫の方も、不快ではないらしい。やがて、喉をゴロゴロ鳴らし出した。なんとも人懐こい猫である。見ている賢一の顔も、思わずほころぶ。
その時だった。彼の鼻は、別の匂いを探知する。これは、野生の獣だ。それも数匹いる。恐らく野犬だ。森の奥から、こちらに向かって来ている。仔猫、あるいは優愛の匂いに引き寄せられているのか。
いずれにせよ、この場を早く離れた方がいい。
「優愛、もう帰るぞ」
賢一が声をかける。だが、優愛は渋い顔だ。
「ええっ! なんで!」
「そろそろ戻らないと、ママが心配する。さあ、帰ろう」
言いながら、さりげなく周囲を見回した。野犬は、すぐ近くまで来ている。逃げるのは、もう間に合わない。
無論、賢一は野犬など怖くない。何匹いようが、数秒で皆殺しに出来る自信はある。だが、優愛には血を見せたくないのだ。
仕方ない。血を見ない程度に痛め付け、追い払うとしよう。
「優愛、俺の後ろに隠れろ」
やがて、茂みの中から野犬が姿を現した。それも三匹。皆、雑種の中型犬だ。うううと唸りながら、賢一たちを睨んでいる。こちらと、仲良くしようという気持ちは感じられない。
どうやら、戦いは避けられないらしい。
「優愛、目を閉じてろ」
言いながら、一歩前に踏み出した。野犬たちは唸りながら、低い姿勢で構えている。
が、その態度が一変した。賢一の強さに、ようやく気づいたのだ。野犬たちは、少しずつ後ずさっていく。ピンと立っていた耳が垂れ、尻尾もだらりと下がっている。怯えている証拠だ。
賢一は、さらに一歩前に出る。さらに、ドンと足を踏み鳴らした。と、野犬たちは向きを変える。直後、一斉に逃げ出した。
「もう、目を開けていいぞ」
言われた優愛は、そっと目を開ける。すると、先ほどまでいたはずの野犬は、完全に消え失せていた。
「やっぱり、賢一は強いんだね!」
感嘆の声を上げる優愛の頭を、優しく撫でる賢一。
「また、あんなのが出ても困るからな。そろそろ戻ろう」
「うん!」
答えると、優愛はニコニコしながら歩いていく。その腕は、仔猫を抱いたままだ。
「お、おい、その仔猫を連れていくのか?」
「そうだよ。だってさ、こんな危ないとこにおいてけないじゃん。さっきの犬に食べられちゃうよ」
当然だ、とでも言わんばかりの表情の優愛。賢一は、思わず頭を掻いた。
「いや、あの、それは──」
「だめなの?」
「俺はいいけど、ママがどう言うかな」
そう言った途端、優愛の表情が曇る。下を向き、じっと仔猫を見つめた。
だが、すぐに顔を上げた。
「だったら、賢一も一緒にお願いして」
「えええ……」
渋い表情になる賢一を、優愛は上目遣いで見つめる。
「駄目なの?」
いたいけな少女にそんな風に言われては、駄目だとも言えない。
「しょうがないなあ。じゃあ、一緒に頼んでやるよ」
「ありがとう!」