森林の戦い
「なんで賢一は、あたしたちと違う部屋にいるの? どうして?」
不意に、優愛が聞いてきた。
「えっ? な、何を言っているんだ?」
困惑する賢一に、優愛は無邪気な表情で話し続ける。
「だから、なんで別の部屋にいるの? 呼びに行くの、スッゴく面倒だよ。一緒の部屋にいれば、ずっとお話できるよ。遊びに行くのも、すぐなのに」
「そ、それはだな……お、大きくなった男の人と女の人は、一緒の部屋にいちゃいけないんだよ。そういう決まりなんだ」
苦し紛れの言葉だったが、少女を納得させることは出来なかった。
「えええ!? なんで!? そんなのおかしいよ!」
不満そうな顔で、口を尖せ抗議してくる。賢一は、慌てて真理絵の方を見た。助けてくれ、という意味の視線を送った……つもりだったが、彼女は素知らぬ表情だ。手を伸ばし、娘の頭を撫でる。
「それはね、部屋が狭いからだよ。賢一は大きいから、私たちの部屋にいたら、窮屈でしょ」
「だったら、もっと大きいうちにいこうよ!」
優愛の言葉に、真理絵は微笑む。
「そうだね。優愛は、賢一が大好きだもんね」
「うん!」
三人は、街中をのんびり散歩していた。
ここは日本のはずなのだが、通りには外国人の設置した露店があちこちに並んでいる。白人、黒人、アジア系などなど……多種多様な者たちが徘徊していた。無国籍な雰囲気が、色濃く漂っている。
それだけではない。化粧の濃い女が白昼堂々と客引きをしたり、どう見ても堅気ではない男たちがジャージ姿で闊歩したりしている。まだ昼過ぎだというのに、闇の世界の住人たちがうろうろしているのだ。子供を連れ歩くのに適しているとはいえない。
だが、優愛はお構い無しだ。母の手を握り、とことこ歩いて行く。初めは外出を嫌がっていた真理絵も、今は楽しそうに娘と歩いている。
母娘から少し離れて後を付いている賢一だが、二人の姿を見ていると心が和んだ。自然と笑みが浮かぶ。
そんな時、優愛が振り返った。
「ねえ、賢一も手をつないでよ」
言いながら、手をブンブン振って手招きする。賢一は、仕方なく優愛の手を握った。二人の大人に手を引かれる少女。昔、怪しげな本で小さな宇宙人を連行した二人組の写真が載っていたが、そっくりな状況だ……などとバカなことを考える。
だが、優愛はお構いなしだ。嬉しそうに歩いている。その姿はあまりにも可愛らしく、賢一も微笑みながら歩いていた。
すると、真理絵がクスクス笑う。
「賢一、あんたの笑顔ちょっと怖いよ」
「えっ? いや、その、これはだな……」
慌てる賢一。だが、その表情が一変した。
何者かが、こちらに近づいて来ている。一応は人間ではあるが、普通の人間ではない。超獣の嗅覚が、はっきりと伝えてくれている。
賢一は、あたりを見回した。まさか、こんな人目のある中で仕掛けて来るとは思えないが……相手は常人ではない。無関係の人もろとも殺すつもりだったら?
もう一度、周囲を見回した。その時、匂いの元が判明した──
男は、この永石市には不似合いな風貌であった。髪の毛は真っ白であり、綺麗に整えられた口ひげも白い。背筋はピンとしており、体に余分な脂肪が付いていないことは服の上からでも窺える。洒落たデザインのスーツ姿であり、どこかの名家の執事といった雰囲気だ。
そんな紳士が、賢一をじっと見つめている。にこりと笑った後、背を向けて歩き去って行った。付いて来い、とでも言わんばかりだ。
賢一は、真理絵の耳元に顔を近づけた。
「面倒なことになりそうだ。優愛を連れて、車の中にいろ。万が一、おかしな奴が来たらすぐに逃げるんだぞ」
囁いた直後、男の後を追おうとした。が、腕を掴まれる。
「ちょっと待って。大丈夫なの?」
真理亜が心配そうに声をかけてきた。賢一は、余裕を見せるためにニヤリと笑ってみせる。
「大丈夫だ。すぐに戻るから、車で待ってろ」
言った直後、賢一は男に視線を戻す。その瞬間、愕然となった。
男の姿がない。視界から、完全に消えているのだ。
「クソが……あの野郎、どこに行きやがった!?」
僅かに残る匂いを追って、賢一は走り出す。奴には、真理絵や優愛と一緒にいるところを見られている。いなくなったからといって、放っておくわけにもいかない。
もっとも、理由はそれだけではなかった。賢一の体に流れる獣の血が、戦いを求めていたのだ。
獣の血は今も、奴を殺せとせき立てている──
やがて、賢一は森の中へとやって来た。
五感をフルに研ぎ澄ませ、男の行方を探す。空はまだ明るいが、周囲は樹木が鬱蒼と生い茂立り、虫や小動物の蠢く気配がしていた。
そんな中、ようやく探し物を見つけた。森の中、三人の男女が、賢一をまっすぐ見つめ佇んでいる。うちひとりは、先ほどの執事風の男だ。
見れば見るほど、奇妙な者たちだった。
ひとりは、和服を着た中年男である。髪は短めであり、白いものが目立つ。目つきは鋭く額には傷痕があり、眉毛は太く濃い。昭和の劇画にでも登場しそうな顔立ちである。身長は百七十前後であり、大きくもないが小さくもない。ただし、肩幅は広く胸板も厚く、がっちりした体格だ。着物から剥きだしになった前腕は異常に太く、手も大きい。
その厳つい手には、抜き身の日本刀が握られていた。
「そこのオッサン、今どき日本刀かよ。あんた、頭おかしいんじゃねえのか? いい歳して厨二病じゃあ、シャレになんねえぜ」
賢一は、着物姿の男に軽口を叩いた。もっとも、彼の獣の血は告げている。この男が何者かは不明だが、先日殺したトニーやマイクよりも格段に手ごわいのは間違いない。数々の修羅場を潜った匂いがする。
「はじめまして、私はギャリソン山岡と申します。あなたですな、ぼっちゃまに仇なす者とは」
口を開いたのは、中年の紳士だった。賢一をここまでおびき出した男である。こちらを恐れているわけでも、侮っているわけでもない。自然体で立っている。
しかし、ぼっちゃまなる人物に心当たりはない。
「ぼっちゃま? 誰のことだよ?」
賢一の言葉に、山岡は口元を歪めた。
「南条真吾さまです。私はずっと、ぼっちゃまにお仕えしております。あなたは、ぼっちゃまの会社を目茶苦茶にしてくれたそうですね」
「はあ? 会社だあ?」
賢一は首を捻る。何のことだろうか……会社を目茶苦茶にした、とは。
思い当たることと言えば、ヤクザの事務所を潰したことくらいだ。
「ひょっとして、ヤクザのことか?」
「そうです。氷村組は、ぼっちゃまの所有する会社でした。しかし、あなたのせいで活動に支障をきたしているのですよ」
「会社だあ? よく言うぜ、ただのヤクザじゃねえかよ。で、そのぼっちゃまの使いが、俺に何の用だ?」
尋ねる賢一に向かい、日本刀を持った中年男が口を開く。
「言うまでもなかろう。南条さまに仇なす者を、生かしておくわけにはいかん。我らの手で死んでもらおう」
直後、ゆっくりと近づいて来る。その体からは、尋常ではない殺気が立ち上っていた。並の人間ならば、この殺気だけで怯んでしまうだろう。
だが、賢一は余裕の表情だ。突っ立ったまま、相手の出方を窺う。この男が、日本刀でどんな攻撃をしかけて来るのか……考えただけで血が騒いだ。あの日本刀が、自分にどのような痛みを与えるのか。
逆に自分は、あの男をどうやって痛めつけてやろうか──
やがて、中年男は立ち止まる。賢一との距離は、およそ七メートルから八メートルほどだろうか。
賢一を睨みつけ、ゆっくりと口を開く。
「我が名は、権藤以蔵。武想館剣心道の師範代だ。いざ、真剣にて勝負!」
直後、正眼で構える──
「あのなぁ、あんた何時の時代の人間だよ。江戸時代からタイムスリップしてきたのか? まあいいや。いつでも来な」
呆れた表情で言いながら、賢一は残るひとりを一瞥する。こちらは、年老いた女である。和服を着ており髪の毛は真っ白で、顔も皺が目立つ。ただし、その表情は鋭い。見る者に、強い意思を感じさせた。背筋もピンと伸びており、しっかりと立っている。見た感じ、武器らしきものは持っていない。背中に三味線を背負っているだけだ。
見れば見るほど、おかしな三人組である。しかし油断は出来ない。賢一の獣の嗅覚が、彼らはただ者ではないと言っている。
と同時に、体は異様な感覚に包まれていた。こんな奇怪な連中と、本能のままに殺し合える……超獣の血は、歓喜にうち震えていた。
賢一が老婆に視線を移したのは、時間にして一秒にも満たない僅かな間である。だが、権藤はその隙を見逃さなかった。視線が離れた瞬間に、一気に動き出した──
弾丸のような勢いで、瞬時に間合いを詰めていく。その足さばきは、氷上を舞うスケーターのようであった。滑るように動き、一瞬にして賢一へと迫る。
次の瞬間、刀の切っ先が襲う。
しかし、賢一は避けようともしなかった。微動だにせず、権藤の刀を正面から受け止める。
刃は、狙い違わず賢一の腹に突き刺さった──
その瞬間、権藤は勝利を確信する。あとは、刃を動かし内臓ごと切り裂くだけだ。内臓を切り裂けば、何者であろうと生きてはいられない。確実に死ぬはずだ。
しかし、ここで想像だにしなかったことが起きる。権藤の腕に伝わってきた感触は、これまで味わったことのないものだった。
「ば、馬鹿な!」
権藤は目を見開き、呆然となっていた。彼の刀の切っ先は、確かに賢一の腹に刺さっている。
しかし、そこから先が動かないのだ。権藤はかつて、北海道にて体長ニメートルを超す羆と遭遇した。凄まじい戦いの末、首を切り落としてケリをつけたのだ。この刀なら、特殊合金ですら一刀両断できる自信がある。
そんな彼が、いくら力をこめて動かそうとしても、賢一の肉体を貫くことが出来ないのだ……。
「そんなナマクラ刀じゃあ、俺の腹筋を貫き通すことは出来ないぜ。残念だなぁ、もう少し楽しめるかと思ったんだけどよ」
腹を刺されているにもかかわらず、賢一は楽しそうな表情を浮かべている。権藤は必死で刀を抜こうとするが、押しても引いても動かない。筋肉に覆われた腹に、刃がしっかりとくわえ込まれているのだ──
「さて、次はこっちの番だ。人の腹を刀で刺したんだからな、殺されても文句言うなよ」
言うと同時に、賢一は腕をブンと振った。
あまりにも無造作な動きだった。傍目には、軽く手を振っただけのように見えるだろう。にもかかわらず、権藤の体は吹き飛んだ──
その一撃は、トラックに跳ねられたかのごとき衝撃であった。二百キロのゴリラにでも、致命傷を負わせるであろう打撃だ。
しかし、権藤は戦意を失っていなかった。数メートル吹っ飛び、地面に叩きつけられながらも、すかさず受け身をとり立ち上がる。賢一の手が当たる瞬間、刀から手を離して自ら後方に飛んだため、ダメージは最小限で済んでいたのだ。
一方、賢一は余裕の表情で、腹に刺さったままの日本刀を引き抜く。
素手で刀身を握ったかと思うと、一瞬でへし折った。
二つに折れた刀を、ポイッと放り投げる──
「どうしたサムライ、もう終わりか? じゃあ、次もまた俺のターンだな。実につまらん戦いだ」
賢一は、つまらなさそうに言った。すると、権藤の顔が歪む。ぎりりと奥歯を噛み締める。
「つまらない、だと? 貴様……」
低い声で唸り、賢一を睨みつける。
その時だった。どこからともなく、異様な音が聴こえてくる。非常に耳障りな音だ。音は賢一の聴覚を刺激し、脳へと直接伝わってくる。まるで、頭蓋骨を電動ドリルで削られているようだ。あまりの苦痛に耐え切れず、両手で頭を押さえた──
「ク、クソがぁ!」
吠えると同時に、音を発している元凶を睨む。
それは、老婆の鳴らす三味線から発せられていた。普通の人間の耳には、下手くそな三味線の演奏にしか聴こえないであろう。
だが獣の聴覚を持つ賢一にとって、この三味線の音色は特別なものだった。老婆の鳴らす三味線は、賢一に超音波のような刺激をもたらしている。その超音波は、彼の脳や神経に直接ダメージを与えてくるのだ。
このままでは戦えない。
まず、あいつから殺す──
瞬時にそう判断した賢一は、両手で耳をふさいだ。しかし、音は容赦なく彼の聴覚をえぐる。激痛をこらえ、ヨロヨロとした足取りで老婆へと近づいて行った。接近さえしてしまえば、片手で潰せるはずだ。
だが、それは叶わなかった。突然、右足首に妙な違和感を覚えた。それが鎖だと気づいた時には、もう遅かった。
直後、鎖により引っ張られる。凄まじい速度で、賢一は引きずられていく──
「なんだこれは!?」
引きずられながらも、賢一は巻き付いた鎖を掴む。同時に、満身の力を込め思いきり引いた。
何かが外れる音、さらに鎖と共に賢一へと飛んできた大きな金属片。半ば反射的に、飛んできた物を素手ではたき落とす。
よく見れば、車のバンパーだった。彼の足に巻き付いていた鎖は、バンパーに繋がれていたのだ。
「ふざけた真似しやがって……」
唸ると同時に、賢一はシャツを脱ぎ捨て跳躍する──
背中の巨大な翼を広げ、賢一は宙を飛んだ。上空より、三人組を探すために。
だが、途中で別のものを発見する。彼は、すぐさま降下した。
道路の真ん中にて、車がひっくり返っている。しかも、後部のバンパーが外れている。どうやら、この車が賢一を引きずっていたらしい。だが、人の匂いはない。最初から無人だったのか、それとも逃げ去ったのか。
念のため、賢一は車に近づいてみる。やはり誰も乗っていない。あたりを見回してみても、人の気配も匂いも感じられなかった。山岡ら三人組は、別方向に逃げ去ってしまったらしい。この車は、単なる囮だったのだ。
「あいつら、何者だ?」
思わず呟く。その時、頭に閃くものがあった──
「まさか、あいつらは?」
三人組の目的に、ようやく思い当たる。奴らは賢一を殺すためでなく、その力を試すために来たのではないのか。一瞬のうちに賢一の強さや力の源を見極め、勝ち目が薄いと見るや、老婆が三味線を鳴らして場を混乱させる。
その隙に山岡が鎖を投げつけ、賢一の足を無人の車と繋げる。と同時に、その車を走らせ賢一を引き離し、自分たちは離脱した。
ほんの僅かな時間で、そこまで判断し行動できるとは……大した連中だ。
とはいえ、もう一度殺り合えば、確実に仕留められる自信はある。連中も、そのことはわかったはずだ。
それに、奴らが諦めるとも思えない。いずれ、リターンマッチを仕掛けてくるだろう。その時は、必ず殺す。
殺して、奴らの肉を食らってやる──
あの三人との再戦を想像しただけで、賢一の獣の血が疼く。彼の本能は、戦いを強く望んでいた。