賢一の休息
賢一は、目を開けた。
ベッドから上体を起こし、ゆっくりと左右を見る。狭い部屋だ。室内には、洗面所とトイレとシャワーがあるだけだ。ゲームやテレビやパソコンといった娯楽品の類いは何もなかった。もっとも、居心地は悪くない。久しぶりに、ぐっすりと眠れた。
さて、これからどうしよう。
彼は今、永石市の南地区にあるビジネスホテルに泊まっていた。一応、金はある。それも、大金といっていい額だ。したがって、もっといいホテルに泊まることも可能なのだ。
しかし、あまり目立つわけにもいかない。なにせ、真理絵は人を殺して逃げている身なのだから……高級ホテルに泊まって、万が一通報されたりしては困る。
そこで、場末のビジネスホテルに泊まることにしたのだ。受付は、やる気のなさそうな中年男である。客も、訳ありのような雰囲気の者ばかりだ。サングラスにキャップにマスクという三点セットで顔を隠している真理絵だが、この永石市では通行人のひとりでしかない。
賢一と母娘は、別々の部屋に泊まった。
体を起こし、壁に掛けてある時計を見た。午前十時だ。
ふと、真理絵と優愛のことを思った。あの二人は、大丈夫だろうか。特に幼い優愛は、こんな部屋で退屈しているかもしれない……などと考えていた時、人の気配を感じた。扉の前に、誰かいる。もっとも、敵意は感じられない。仮に敵意を抱く者が来ていたら、接近する前に賢一の鼻が感知しているだろう。
やがて、ドアを叩く音がした。続いて、可愛らしい声が響く。
「賢一、遊ぼ!」
確かめるまでもなく、優愛の声であるのはわかる。賢一は思わず微笑んだ。やはり、部屋の退屈さに耐えられなかったらしい。
ドアを開けた途端、優愛は満面の笑みを浮かべた。直後、いきなり飛びついて来る。賢一は、彼女を軽々と抱き上げた。
「朝ご飯は食べたのか?」
「うん! もう食べたよ!」
優愛は元気に答える。今が楽しくて仕方ない、といった様子だ。逃亡中という環境すら、この少女にとっては楽しむ要素なのかもしれない。自分が幼子だった時、人生をこんなに楽しんでいられただろうか……などと思いつつ、賢一もニッコリ微笑んだ。
「じゃあ、今から外で遊ぶか」
「うん!」
とても嬉しそうな声だ。賢一は優愛を床に降ろし、その手を握る。
だが、そこで疑問が浮かんだ。
「おい、ママはどうしてるんだ? 今、どこにいる?」
その言葉に、優愛の表情が曇る。
「あのね、ママは行きたくないんだって……」
「そうか。体の具合でも悪いのか?」
その問いに、少女はかぶりを振った。真理絵は、外出し通報されるのを警戒しているのだろう。優愛もまた、子供なりにそういった事情を察しているのだ。
しかし、ずっと室内に閉じこもっているわけにもいかない。その方が、かえって警戒されることもある。賢一は優愛を連れ、真理絵のいる部屋へと向かった。
ドアの前に立ち、トントンとノックする。
ややあって、ドア越しに声が聞こえてきた。
「だ、誰?」
怯えきった声だ。
「賢一だよ。優愛も一緒だ」
答えると、少しの間を置きドアが開く。中から、真理絵が顔を出した。不安げな様子で、外をちらりと見る。
そんな真理絵を元気づけようと、賢一は出来るだけ明るい声を出した。
「なあ、優愛と一緒に外に出ないか? ずっと閉じこもってたら、気が滅入って来るだろ」
「む、無理だよ。あたしは……」
そこで、真理絵は言い淀んだ。娘の前で、警察に追われているという話はしたくないのだろうか。
優愛の表情が、一瞬暗くなった。だが次の瞬間、意を決した様子で母の手を握った。強引に引いて行こうとする。
「ママ、いこ!」
「で、でも……」
「大丈夫! 賢一が守ってくれるから!」
言いながら、優愛は母の手を引く。さらに、賢一も頷いた。
「何があろうと、俺がついているよ。頼りにしてくれ」
言いながら、おどけた表情でボディビルダーのようなポーズをして見せる。途端に、真理絵は吹き出した。
「あのさあ、それ恥ずかしいからやめて」
言いながら、賢一の頭をはたいた。その横では、優愛もニコニコしている。傍から見れば、若い三人家族のように映っただろう。
三人は、ホテルの外に出た。
世紀末シティなどと呼ばれている永石市だが、こうして見る限りでは普通の町に見える。モヒカンの男たちが暴れているわけでもなく、銃声が聞こえてくるわけでもない。
それでも、注意深く観察してみれば……道端には、吸い殻や空き缶に混じり注射器が転がっていた。また、道ゆく人たちの身なりや顔つきは、明らかに堅気の者とは違う。全員、年齢も服装もバラバラだ。人種も異なる。にもかかわらず、共通する点がひとつある。皆、特有の危険な空気を放っていた。
そんな彼らも、賢一が通るとすぐに道を空ける。裏の世界の住人であるからこそ、この男の裡に潜む人間離れした強烈な野性と凄まじい暴力性を察知し、争いを避ける選択をさせたのだ。
泊まっているホテルから五分ほど歩くと、小さな公園があった。ブランコや巨大な滑り台、木製のベンチなどが設置されている。しかし、数人の怪しげな男たちがたむろしていた。明らかに、良からぬ相談をしている雰囲気だ。
「ちょっと、ここで待ってろ」
二人に声をかけると、賢一はずかずか踏み込んで行った。男たちに近づいていき、じろりと見回す。すると、彼らの表情が変わった。
「お前、誰だ? 何か用か?」
ひとりの若者が、敵意をあらわにした様子で近づいて来た。年齢は二十歳前後、中肉中背でTシャツから覗く二の腕にはタトゥーが入っている。
「今から、この公園で俺が遊ぶ。お前ら、悪さは他でやってくれ」
賢一は、落ち着いた口調で言った。その途端、若者はポケットから何かを取り出す。見ると、黒光りする拳銃だ。銃口は、真っすぐ賢一に向けられている。
賢一は、ふうと溜息を吐いた。
次の瞬間、彼の手が動く。一秒にも満たない時間で、賢一は拳銃を奪い取っていた。若者は、己の拳銃を奪われたことにすら気づいていない。
直後、ぐしゃっという音がした。賢一の怪物じみた握力で、拳銃が握り潰されたのだ。今や、原型すらわからぬ鉄屑へと変わっている。
若者の表情も変わる。彼が頼みにしていた凶器が、一瞬でただの金属の塊になってしまった──
「俺はな、お前らの手に負えるようなもんじゃねえんだよ。さっさと消えろ」
賢一の言葉は静かなものだった。だが、奥には殺意がある。その殺意を感じとった途端、男たちの顔色が変わった。何事もなかったかのように、そそくさと引き上げていく。
男たちが立ち去ると、賢一は親子の方を向いた。
「さあ、遊ぼうぜ」
その途端、優愛が嬉しそうに駆け出していった。巨大な滑り台の階段を、楽しそうに駆け上がって行く。
「気をつけるのよ」
真理絵が声をかけるが、優愛は聞いていないらしい。楽しそうに上に昇ると、勝ち誇ったような顔で二人を見下ろした。
「ママ、いくよ!」
嬉しそうに叫ぶ。次の瞬間、ビュンと滑り降りて来た──
「おいおい、大丈夫かよ」
見ている賢一は、思わず笑みを浮かべる。優愛はといえば、怖さよりも楽しさの方を強く感じたようだ。しゅたたた……と小走りで階段へと向かい、ふたたび滑り台のてっぺんへと登っていく。よほど楽しかったのか、満面の笑みを浮かべている。
その時、真理絵の声が聞こえてきた。
「ねえ賢一、さっきみたいな危ないことはやめて。あんたが強いのはわかってるけど、あの子に暴力は見せたくない」
強い口調だった。その強さに圧倒され、賢一は柄にもなくうろたえた。
「わ、わかった。すまない」
「あと、もうひとつお願いがあるの」
暗い表情だった。賢一は、戸惑いながらも返事をする。
「な、なんだ」
「あたしに何かあったら、優愛のことを頼むね」
そう言って、真理絵は微笑む。その笑みは、どこか寂しげでもあった。何かあったら……つまりは、逮捕されたらということだろう。賢一は、引き攣った笑顔で言葉を返す。
「何を言ってるんだよ──」
「お願いだから、約束して。あの子を守ると」
こちらを見つめる真理絵の表情は、真剣そのものだった。その目力に気圧され、賢一は目を逸らした。
「や、約束するよ。とりあえず、コンビニで菓子でも買ってくる」
そう言うと、逃げるようにコンビニへと走って行った。
ベンチで仲睦まじくお菓子を食べている、真理絵と優愛。
賢一は、そんな二人の隣に座っている。母娘の仲の良い姿を見ているだけで、賢一の胸は暖かいものに満たされていた。
人殺しは、もう嫌だ。
復讐は、終わりにしよう。
これからは、あの二人を守るために生きていく──
・・・
そんな南区とは真逆の空気を漂わせているのが、北区である。今や観光地と化している南区に客を呼び込むことで、町として発展してきたのだ。
南条真吾らは、その北区に建てられたマンションに住んでいる。彼らは変人として知られており、他の住人たちからは距離を置かれていた。
そんな彼らの部屋を、異様な三人組が訪れていた──
「ぼっちゃま、お久しゅうございます」
リビングにて、南条真吾に深々と頭を下げたのは初老の男だ。髪の毛は完全に白く、口ひげも真っ白である。だが背筋はピンとしており、体に余分な脂肪が付いていないことは服の上からでも窺える。落ち着いたデザインのスーツとネクタイ姿は、ヨーロッパの紳士といった印象だ。南条の横でヘラヘラ笑っているキリーとは、真逆の人種に見える。
南条はソファーに座ったまま、にこやかな表情で口を開く。
「山岡、よく来てくれたな。早速だが、ひとつ頼みたいことがある」
「はい、何なりと申し付けください」
山岡と呼ばれた紳士は頷いた。そんな山岡の傍らに控えているのは、奇妙な格好をした二人であった。
片方は、着物姿の中年男である。落ち着いた温厚そうな雰囲気であり、太く濃い眉毛とモミアゲが特徴的である。背はさほど高くないが、肩幅は広くがっちりした体格だ。黙っていても、武術の達人という雰囲気は伝わってくる。
もう片方は、年老いた着物姿の女だ。髪の毛は真っ白であり、頭の上で結んでいる。顔も皺が目立つ。かなりの高齢であることは明らかだ。もっとも、ギョロッとした目からは力が感じられるし、背筋もピンと伸びている。武器らしきものは持っていないが、背中に三味線を背負っていた。
そんな三人組を前に、南条は静かな口調で語り出す。
「先日、氷村組の事務所が襲われた。さらに、ウチで雇っていたトニーとマイクが死体で発見されたんだ。これはもう、我々に戦争を仕掛けて来たと判断しても差し支えないだろう。その愚か者の始末を、君たちに頼みたいんだ」
言った後、南条は隣に座っているジェニーに視線を移した。
「ジェニー、奴は今どこにいる?」
その問いに、ジェニーは憑かれたような顔つきで答えた。
「今は、南地区の外れにいる。たぶん、あの辺りのビジネスホテルにいると思う」
「そうか。奴の特徴は?」
「はっきりとはわからない。百八十センチを超す大柄な男なのは確か。髪は肩まで伸びていて、顔は濃い。体から、獣の匂いがしてる──」
「それだけ聞けば充分です」
ジェニーの言葉を遮り、山岡は自信たっぷりの表情で頷く。すると、キリーがヒュウと口笛を吹いた。
「たったそれだけでわかるのか? こっちは、相手の名前もわかってないのによう。大したもんだな」
「問題ありません。数十人のヤクザを一瞬で死体に変える力、そして獣の匂い……そんな者を、我々が感知できぬはずがありません。久しぶりに、血が騒ぐ案件ですな。すぐさま行って、仕留めてきましょう」
「待って」
言うと同時に、ジェニーは動いた。彼ら三人の前に立ち、不気味に光る目で山岡らを見回す。
ややあって、口を開いた。
「奴は、本物の怪物。あなたたちだけでは、勝てない」
その言葉に、着物姿の男が不快そうな表情を浮かべた。何か言いかけたが、山岡がにこやかな表情で彼を制する。
「我々を甘く見てもらっては困りますな。仮に本物の怪物が相手であったとしても、必ず仕留めてみせます」
言葉そのものは柔らかいが、その奥には強い意思が感じられた。ジェニーはさらに何か言いかけたが、南条が割って入る。
「まあまあ、ひとまず山岡たちに任せてみよう」
ジェニーに優しい口調で言った後、山岡の方を向いた。
「山岡、万一の時は無理するな。ためらうことなく逃げてくれ。逃げることは恥ではない。むしろ、奴がどんな力を持っているのか……お前たちの目で見て、耳で聞いて、肌で感じたものを正確に教えて欲しい。頼んだぞ」
「わかりました」