名古屋市電を駆けた対空砲
架空戦記創作大会2021春。第二次大戦下の路面電車をテーマとした作品です。
戦時下における愛知県名古屋市は、市内に大規模な航空機工場や陸軍兵器工廠、鉄道車両工場と言った戦略的にも重要な軍需都市であった。そのため、日本本土に敵が攻撃を仕掛ける状況となった場合、真っ先に狙われるということは、軍部も想定していた。
そしてこの見立ては的中し、早くも1942年4月18日にドーリットル爆撃隊による空襲を受けることとなった。
この爆撃自体は嫌がらせ程度のもので、名古屋の軍需産業に何ら影響を及ぼす類のものではなかったが、敵機の侵入を容易に許した事実は変わらず、名古屋市の防空強化は喫緊の課題となった。
防空強化には二つの方法がある。一つは防空戦闘機隊を増強すること。そしてもう一つは、地上に設置する対空火器を増やすことだ。
防空戦闘機隊の増強は、名古屋郊外の小牧や清州(甚目寺)に陸軍の、三河地域の安城(明治)や豊田(伊保ヶ原)等に海軍の航空基地が新たに造成されることとなった。
一方対空火器の設置も進められるが、盟邦ドイツでは強固なべトンに守られ、複数の対空砲塔を装備した高射砲塔が大都市に設置され、防空戦闘に大いに活躍した。
しかし、日本の場合は資源無しの工業後進国の哀しいところで、高射砲塔どころか高射砲や高射機銃さえ満足な数を揃えられる宛がなかった。
とは言え、防空火力の整備は急務であった。
となると、少ない対空火器で出来る限り多くの場所を守る。すなわち移動式の高射砲や高射機銃を整備するという案が登場するのは、当然の帰結と言えた。移動式とすれば、その時その時の状況に応じて対空火器を配置することが可能と考えられたからだ。
ただし、もちろんそのためにはある程度の機動力も要求される。移動できると言っても、蝸牛や亀の如きものでは、役に立たないことは明白だ。
さて、移動式とする場合、道路、鉄道線路、船に乗せての水路が候補となった。
この内道路は、既にトラックの牽引式の高射砲や高射機銃があり、自在に移動できるという意味では、もっとも優れている。しかし、この時代の日本の道路事情は、後に調査した米軍が「ヒドイ」と言い切るほどに悪い上に、自動車化社会とは程遠いために、牽引するトラックの数も不足していた。
船に乗せた場合、重量の制限が道路や鉄道よりも緩和され、より大口径砲を搭載できるという利点があった。だが言うまでもなく、水路が無ければ動けないので、融通が一番利かない。
ただし、沿岸部の防衛には使えそうだということになり、後に海軍から高角砲や高角機銃を提供してもらい、対空砲台船とも言うべき船がいくらか配備されることとなったが、それは別の話だ。
さて、そうなると陸の移動手段として、残る有力な手段は鉄道線路となった。日本の場合、基本的に線路幅が世界標準より狭い狭軌と言う制約はあるが、無蓋貨車を改造すれば高射砲や高射機関砲も搭載可能と見られた。
また名古屋市の場合、国鉄東海道線、中央線、関西線、私鉄の名古屋鉄道、近畿日本鉄道(元は関西急行鉄道)と共に街の主要な地区に張り巡らされた名古屋市電の路線網があった。
名古屋市電は元々愛知電気鉄道をはじめとする市内に電車路線を開設した私鉄が、公営に移行した路線であるが、線路幅は1067mmであり、線路幅だけでいえば名古屋に乗り入れる全ての路線と同じであった。(近畿日本鉄道は1959年に1435mmに改軌されるが、戦争中は1067mm)
このため、対空砲車、対空機銃車を新設する連絡線を介して、迅速に移動させることは可能と見られた。
そして名古屋市電の路線網は、日本の航空機製造の中枢とも言うべき三菱航空機大幸工場や大江工場のそばにも敷かれており、対空戦闘が必要となった場合はその線路に対空砲車を対空機銃車を走らせる計画が持ち上がったのは、至極当然のなり行きであった。
こうして市電の線路を利用した対空戦闘計画がスタートした。
対空砲車や対空機銃車の種車となったのは、旧式化した貨車や客車で、その上部構造物が全て取り払われた。
同じく旧式化した路面電車の転用も考慮されたが、車体が小型であることや、名古屋市電の輸送力がひっ迫し、旧型車でも必要とされたため、こちらは採用されなかった。
なお、牽引車両は私鉄などから徴用した小型電気機関車や、ディーゼル機関車が用いられた。
対空砲車に搭載された対空砲は、75mmもしくは88mm高射砲であった。海軍の12cm、12,7cm高角砲を搭載する計画もあったが、重量の関係から実現しなかった。またこれでも市電の軌道では苦しい部分もあり、一部の線路を重軌条化することまで想定された。
しかし、戦時下の物資不足では上手く行かず、結局空襲時の緊急事態に使うのみとし、それでレールを潰してもやむを得ないとされた。
こうして計画は進められたが、そうは言ってもそもそも対空砲も種車となる客車や貨車も、そこら中で取り合いになっている状況である。
最初の計画では昭和18年度中に砲車10両、機銃車10両を製造して、運用試験を開始するはずが、昭和19年2月時点でようやくそれぞれ1両ずつの試作車が完成したに過ぎなかった。
しかし同年7月にサイパン島が陥落し、同地に米超重爆撃機B29が進出して、本土空襲が現実のものとなると、整備が急加速した。もっとも、やはり砲や資材の不足は如何ともしがたかった。
B29によるマリアナ諸島から日本本土への爆撃は11月の偵察飛行から開始され、翌月には本格的な爆撃が開始された。名古屋市も予想通り、市内の航空機工場に対する爆撃が始まった。
この時点で用意された対空砲車は12両、そして機銃車は22両であった。機銃車の数が比較的多いのは、改造の度合も機銃の調達も、対空砲車に比べて容易だったためだ。
対空砲車に装備されたのは88式75mm高射砲と99式88mm高射砲であった。この対空砲車は走行状態では発射不能で、発車するには車体に装備された固定具を地面に降ろす必要があった。そのため、機動性を確保するために、固定具が迅速に展開・収納可能なように設計され、さらに操作する兵士の訓練も繰り返されていた。
そして12月13日、三菱重工大幸工場への爆撃に対する迎撃が、対空砲車隊(高空からの爆撃であったため、機銃車は出動しなかった)にとって初めての出動となった。
この時動員されたのは計6両であった。12両全てが稼働状態にあったが、残る6両は大江工場の防空に配置されていた。
大幸工場至近の線路上に配置された6両の高射砲は、固定具によって固定後、各々射撃を開始した。
しかしながら、ここで搭載している対空砲の能力不足が露呈してしまった。この時来襲したB29は、高度9000m以上の高空から爆弾を投下した。
高空からの爆撃は、風の影響などにより命中率が低くなるが、一方で地上からの高さがある分だけ対空砲の弾も届きにくくなる。
対空砲車に搭載された高角砲は、日本側の主力対空砲ではあったものの、旧式化が進み射高も弾丸威力が陳腐化しているものであった。
そんな対空砲が6門だけで、高空をこれまでにない高速で飛ぶB29に対して有効な弾幕を張れる筈もなかった。ないよりまし程度と言う話で、結局工場内に多くの着弾を許し、工場の生産機能に打撃を被り、多くの死傷者を出してしまった。
また対空砲車も、2両が直撃こそしなかったが爆風と弾片により使用不能に追い込まれた。
結局この日の戦果は不確実撃墜1機に終わり、工場防空は完全に失敗に終わった。
しかしながら、別の意味では効果を発揮していた。それは地上の人間への宣伝効果である。
対空砲車は市電の線路上を走る。すなわち、一般市民が普通に目にする市街地を走り、射撃を行った。そのため、多くの人々がその姿を目撃することとなった。
本来対空砲車は機密性の高いもので、特に車体の固定装置を見られることに、軍は当初神経質になった。
しかし、空襲の被害により、米軍の爆撃を阻止できない軍への不満が人々の間に渦巻く中、対空砲車が射撃する姿は、軍が真剣に戦っているということを、国民にアピールすることに繋がった。
こうして国民の士気高揚につながるとわかると、軍は方針を一転して、対空砲車の存在を公にしてアピールした。対空砲車の活躍により、鬼畜米英何するものぞというわけだ。
とは言え、その実態は質量ともに心許ないことは既に書いたとおりだ。特に対空機銃車に至っては、B29に対して何の役にも立たないため、その改造が昭和19年12月15日に全てストップされ、その分の資材と労力は対空砲車に傾注されることとなった。
加えて対空砲車のみならず、砲弾輸送車や、音から敵機の接近を探知する聴音機を搭載した車両が、追加で改造された。
だがこれらの車両が十分に揃わぬままに、同月中に今度は同じ三菱の大江工場がB29による大規模な爆撃を受けた。
大江工場はこの直前の東南海地震で被害を受けていたが、次期主力戦闘機の「烈風」などの生産は継続されていた。
そのため、対空砲車隊は持てる力全てを、大江工場の防空に向けることになった。
空襲当日、新たに完成した1両を含む13両の対空砲車が、工場に近い線路(市電の線路のみならず、近くを走る貨物線も含む)上に配置された。
先日の空襲の教訓を反映して、各砲は高高度に対する砲撃に備えた態勢を取っていた。
そして米機が来襲すると、一斉に砲火を開き、砲弾を撃ちあげた。
空に次々と、砲弾の炸裂による黒い花が開く。とはいえ、砲の性能が向上したわけでもなく、目一杯の射高に信管調整して撃つものの、高高度を高速で飛ぶB29を阻止できるはずもなかった。
それでも、この日は13門を集結させたのが効いたのか、ついに1機を確実に撃墜する戦果を挙げた。
もちろん、来襲した数十機のB29のうちの1機を撃墜したところで、それ程の効果があるわけでもなく、結局またも工場は打撃を被ってしまった。
しかし、とにもかくにも明確な撃墜記録を挙げたことに加え、他に有力な反撃手段がないために、その後も対空砲車の製造と、部隊の活動は継続された。
米軍は大幸工場ならびに大江工場に度重なる空襲を加え、昭和20年前半にはこれら2工場の操業はほぼ停止した。
この間対空砲車隊は、最大で17門の対空砲車を動員して対空戦闘を行い、8機の撃墜確実と13機の撃墜不確実の戦果を挙げたが、来襲した機数の前には蟷螂の斧であり、焼け石に水でしかなかった。
しかしながら、この対空砲車隊が皮肉にも活躍する機会が巡ってきた。それは米戦略爆撃航空団の戦法が、効率も悪く戦果が挙がり難い(実際はそれなりに挙がっていたのだが)工場への高高度精密爆撃から、市街地への低高度無差別爆撃にシフトしたことによる。
この無差別爆撃は、日本の燃えやすい市街地に対して大打撃を与えうる戦法で、3月10日の東京を皮切りに、日本の都市を次々と焦土に変えて行った。
一方で、夜間とは言え低高度での来襲となれば、それまで高高度に対してゆえに効果が薄かった対空砲撃の命中率を挙げることとなった。それどころか、それまで出番のなかった対空機銃車でさえも、有効射程圏内に収めることができた。
このため、名古屋市に対する夜間低空爆撃となった3月12日ならびに19日の空襲では、16門の対空砲車に加えて、機銃車20両も出動。加えて、これまでの戦訓から整備された探照灯搭載車や聴音器搭載車も出動した。
この爆撃によって名古屋の市街地の特に中心部に大きな被害が発生したが、一方で敵機が低空で来襲したこともあり、対空砲車も機銃車も撃ちまくり、実に15機の撃墜確実を報じた。
実際、この日来襲したB29は対空砲火と夜間戦闘機による迎撃、損傷後の不時着を含めて30機近い損失を被っていた。
全体の来襲機数からすると、微々たるものであったが、これが対空砲車隊最大の戦果となった。
この後対空砲車隊は資材の不足や、日本側の防空システムの薄弱さによって、効果的な迎撃ができなくなっていく。
4月に入ると硫黄島から出撃してくる米陸軍のP51戦闘機や、沖合の空母から発艦する艦載機による空襲も激化し、日本の防空網はこれらに対抗できず麻痺状態に陥った。
一方で小型機の来襲の増加は、B29相手には活躍の機会を逸した機銃車の出動回数を激増させた。敏捷に飛び回る小型機には、高射砲ではなく機銃の方が遥かに効果的であり、最終的に終戦までに艦載機と陸軍機合わせて3機の撃墜確実を報じている。
ただし、結局のところその程度の戦果では米軍の動きに何ら影響を与える筈もなく、しかもその代償に実に8両もの機銃車が撃破もしくは損傷したのだから、割に合うものではなかった。
5月14日にはまたも大規模な市街地への空襲が行われ、さらに6月9日には熱田区に所在した愛知航空機の船方工場が集中的に爆撃を受け、名古屋の市街地ならびに軍需生産は致命的な打撃を被った。
また対空砲車や機銃車の活動も、急速に縮小を余儀なくされた。電力や燃料の不足により牽引車両である機関車を動かすことがままならくなり、対空砲弾も不足を来たすようになった。加えて、砲車の重みに耐えきれない市電の軌道を交換するのもままならなくなったことも、活動を不活発にさせる一因となった。
そうした理由が重なり、7月には対空砲車も機銃車も市電路線での運用はほぼ諦められ、連絡線を介して国鉄線に引き込まれた後、国鉄名古屋駅や操車場などの拠点防空へと回された。しかも、その運用は固定されたものとなり、散発的に対空戦闘を行いつつ終戦を迎えた。
市電路線を利用した移動対空砲のアイディアは、少ない対空砲を有効に活用するために編み出されたものであり、戦果も挙げたが、米軍の圧倒的な空襲の前に、完全に組み伏せられてしまった。
また戦後、その開発資材や費用を純粋に高射砲の製造や、陣地造りに用いた方がより戦果を拡大できたのではと言う意見も出ており、その評価は未だに定まっていない。
残存対空砲車並びに機銃車は、進駐軍の手で全てスクラップとされ、また彼らが活動した名古屋市電も昭和49年に全廃となった。
今彼らの活躍を伝えるのは、わずかな写真と、市民たちが残した絵画や証言のみである。
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