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スカーレッド 序 エヴァン=ジル  作者: 綴羅べに
2.もうひとりの福音
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 全身の水分が抜けるかと思うぐらい泣いた反動なのか、そのあとに出された食事はびっくりするほどするすると胃の中に収まった。今度は無様に吐くこともなかった。

 満腹になって眠くなるなんて、今までに経験したことなんかない。だからちょっと怖かった。このまま瞼を閉じて、もしかしたら、もう二度と目覚めないかもしれない。

 けれど、グラディスがずっと傍にいてくれたから。

 言葉通り本当に丸一日付き添ってくれた。護譜団というやつの休息日だったらしい。意識がまどろみに落ちるまで額にあたたかな手のひらを感じていたし、無事に目覚めて目を向ければ、彼は後ろ前逆にした椅子の背もたれに抱きついて眠っていた。

 起きてしまえば全然怖くなかった。体も普通に動くし、誰かの補助無しで座っていられる。何にそこまで怯えていたのかすら思い出せなくなるほど。

 それは、母さんの腕に抱かれて眠る夜と同じ。

 気づいてしまえば、昨日の言葉に嘘はないのだと分かってしまう。

 本当に……それでいいんだろうか。

 まだ胸はずきりと痛む。人間になりたくてもなれなかった家族や、沼底に潜む同じ境遇のドブネズミたち。かれらを差し置いてこの平穏を受け取る資格が、自分にはあるのかと。

 ……なら、いつかは醒める夢として。

 きっと永遠なんかない。終わりは誰にでも襲いかかる。望む望まないに関わらず。

 それだけ忘れずにいれば、少なくとも、勘違いをすることはないだろう。

「ん……むあ――だっ!」

 焦げ茶の頭が腕枕の上から滑って背もたれの角にぶつかった。結構な音がした。

「つあぁ…………」

 額を押さえて呻いている。やっぱり相当痛かったみたい。

 寝起きの事故に声をかけそびれて、ひとまず様子を眺めていた。そしたら涙目がこっちを向いた。

 目と目が合う。視線がしっかりと結ばれる。

 痛みなんか綺麗さっぱり忘れた顔で、グラディスは笑った。

「おう、おはよう。エバン」

 ……あ、そっか。

 俺はもう【金髪のキャトル】じゃないんだ。

 その名を自分で名乗ることも、まだ簡単ではないけれど。

「……お、おはよう……グラディス」

 彼の名前だけは、何も恐れずに呼べるだろう。



 それから何をするかと思えば、まず風呂に入れられた。

 言葉だけは知っている。見たことも、たぶん、ある。大人一人がかろうじて入れるような縦長の窮屈な空間なら、母さんを迎えに行った先の怪しい店にあった。

 それと比べればまるで規模が違った。

 いや、比べることすらおこがましい。比較対象にもならない。そもそものモノが違いすぎる。

 場所は医務室を出て少し行った先。大浴場、という名前で、まあその通り、でかかった。服を脱ぐ場所と湯を浴びる場所も分かれていた。というか、奥の床が大胆にもえぐれてなみなみとお湯が張られていた。

 なんだこれ。

 風呂って、こう、ぬるい湯を頭からかぶっておしまいなんじゃなかったっけ。

 何がなんだか分からなくて目を回しているうちに、気づけば全身洗われたあとで、グラディスと一緒に湯船(と呼ぶらしい)に浸かっていて……のぼせた。

「すまん……お前が入浴に不慣れってこと忘れてた……」

 などと、再びお世話になることとなった医務室のベッドの隣で、グラディスはしょんぼり顎から水滴を滴らせていたのであった。

 落ち着いてからは髪を切ってもらった。七年間伸ばしっぱなし手入れも無しのがさついた毛髪は背中を隠すぐらいの長さがある。それで最初、グラディスはこちらの性別が判別できなくて困ったらしい。

「いくら死にかけてるっても、女の子の服を断り無しに剥ぐのはちょっとな……まあジルの野郎が問答無用で引っ剥がしたんだけどよ」

 ざく、さく。

 常駐の看護婦が操るハサミの音に、グラディスの言葉が混じる。彼は向かいで退屈そうに腰掛けていた。椅子は後ろ前逆。その座り方が好きなのだろうか。

「そうですね。団長がやったら懲罰房行きかもしれませんが、陛下でしたらお咎め無しでしょう。さすがはジヴォルニア様です」

「おいこら、なんだその差別。泣くぞ!」

「やめてください。大きな子供のお世話なんてまっぴらごめんです」

 子供扱い! とまた声を上げる。なるほど子供っぽいと自分も思う。けれど剣呑な空気じゃない。どちらもほどよく気を許し合っているように感じる。

 大浴場でもそうだった。軽くすれ違う人にも挨拶を交わし、気兼ねなく言葉を交わす。護譜団の最高責任者だから、では片づかない。元々人望があるのだろう。だから一緒にいる薄汚い自分もあまり忌避されずに済んでいるのだと思う。

 二人の軽口をなんともなしに聞きながら、考えるのはたびたび名前の挙がる【ジル】という人のこと。

 そういえば……あのとき、朦朧とした意識の中で見たものは、蒼い天に浮かぶ金の月ではなかったか。

 ふとグラディスを見やる。思い起こさなくても明らかだ。彼は違う。あの満月ではない。たぶん、意識が落ちる間際に聞こえた、もうひとつの声の方だと思う。

 気にはなる。あのとき、静かな声音で「死ぬな」と強く自分に言い聞かせた人のこと。

 振り返ってみればその言葉に導かれるようにして、今も自分はここにいる。意識の根幹に、きっと刻みつけられた想い。それが無ければ本当に、グラディスの説得にも耳を貸さず干からびていたかもしれない。

 看護婦は「陛下」とか、様付けで呼んでいる。もしかしたらとても身分の高い人物なのだろうか。あれから姿を見ないし、他の団員のようにすれ違うこともない。

 陛下…………陛下?

 それっていうのは、まさか……?

「ん。どしたエバン。俺の顔になんかついてる?」

「えっ?」

 どうやら考え込むうちに向かいの顔を凝視していたらしい。咄嗟に首を横に振ろうとしたら、後ろの看護婦にものすごい力で押さえつけられた。

「じっとしてなさい! 耳落としたいんですか!?」

「ご、ごめんなさい……」

 そうだ散髪中だった。銀のハサミはまだうなじの辺りで仕事をしている。耳どころか首の皮がざっくりいきかねない。

 気持ち背筋を伸ばして息を詰めた。たぶんそろそろ終わるだろう。ずいぶんと頭が軽くなった。

 グラディスは茶々を入れるでもなくじっとこっちを見ていたので、今度はきちんと言葉で答えた。

「……なんでもない」

「ふうん。そっか」

 真面目に頷かれた。こういうところはあっさりしてるんだなと思う。初対面から妙に馴れ馴れしいけれど、そのわりに踏み込んでいいところと悪いところの区別は結構きちんとしている。

 そういえば護譜団の団長だという話だけれど、思い描いていたような物々しさもあまり感じない。まだ面倒見のいいお兄さんだ。兵士っぽさといえば体の鍛え方や鎧を身につけていることぐらい。最高責任者のくせに自分につきっきりだし、仕事はどうなっているのだろう。

 ……そもそも、護譜団って普段何してるんだ?

「はい、終わりましたよ」

 刃物の冷たい気配が遠ざかって、おもむろに櫛が通る。毛先までとかれるごとに短い切り残しがちくちく落ちていく。

 仕上げにタオルで肩や首を拭ったあと、看護婦は鏡を手に正面へ回り込んだ。これまで『鏡』なんて親指の爪ほどもない砕けた破片しか見たことがなかったから、あまりの巨大さにちょっとびっくりした。

「どうです? ここもう少しこうしてほしい、とかありますか?」

 問われて、鏡の中の自分をまじまじと見つめる。

 ああ、自分はこんな顔をしていたんだ。

 グラディスが性別に迷うのも分かる。自分でもこの顔立ちはどっちつかずだ。今は襟足が見えるぐらい思いっきり髪を切ってもらったからかろうじて少年だと認識できる。

 一応、試しに前髪をつまんでちょいちょいと引っ張ってみた。でも、特に言うことは思い浮かばない。

「大丈夫です。その、ありがとう」

 少し言葉に詰まってしまったけれど、看護婦は何も言わずにうんうんと満足そうに頷いて鏡を折り畳んだ。……畳めるんだ、あれ。

 それを小脇にかかえて立ち去る、かと思いきや、なにやら口元に指を添えて考え込んでいる。視線は微動だにせずこちらの顔。全体を俯瞰しているような瞳。

 グラディスですら口を挟めず、二人して様子を窺う。

 やがて彼女は、こちらではなく隣の護譜団長を見下ろして、言った。 

「この子、団長の子供って、無理ありません? どちらかといえば確実に陛下の隠し子ですよ」

「だぁから養子っつったでしょーよ」

 心底呆れた様子でグラディスが突っ伏す。ところが後者に関する指摘は出てこない。

 ……いいのかな、それで。

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