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……。
…………は?
こいつは、今、何を言って……?
固く閉じた瞼もばっちり開いてしまって言うことをきかない。振り向くのだけは心底いやなので、とりあえず耳だけ澄ました。
「何度だって言うけどな、生きるのに理由なんか要らねえんだよ。ただここにいればいい。……でもお前の言うとおり、その居場所さえ無いってんなら、俺がなってやる。お前が安心して生きていられる場所にな」
それは、酷い、詭弁なんじゃないだろうか。
自分のような子供を囲おうとしたあの男と、何も変わらないんじゃないのか。
警戒心が一気に背筋をざわつかせる。命の危険を感じ取る。自分で選ぶ「死」ではない。他人に押しつけられる「死」の気配。
「……ふざけるな」
ただ、押し殺すようにそれしか言えない。言葉になったかどうかも怪しい。
けれど相手は「ふざけてねえよ」とやけに真剣な声音で返してきた。
「俺は本気だぞ。ちゃあんと生活守ってやる。これでも護譜団の最高責任者だから、金もあるし家もあるし味方も……大量とは言えないけどその代わり反則級の奴らばっかりだ。俺だけじゃない。そいつらもきっと、お前を守ってくれる。だから、な? とりあえずお試しってことで、今死ぬのはやめとこうや」
相変わらず軽い口調で言ってくれる。何がお試し、だ。生きるのに試しも何もあるものか。そういうところが分からないから信用されないんだとどうして分からないんだろうこの男。
キャトルには何も返事ができない。首を横に振ることも。拒絶のための意思表示すら、億劫で仕方ない。
何度も何度も、理解されるまで言わなきゃならないなんて。
死にたい、死なせてくれ、なんて。
――分かってる。
本当は、本当は、口になんか出したくないんだって。
死にたい、死にたい、と言いながら……心の奥深くが、ずきずき痛みを訴える。
棄てきれない希望へ性懲りもなく手を伸ばすみたいに。
「……いやだ」
シーツを握りしめる。手の甲に額を押しつけて、世界から身を離す。
けれど。
「いやだ、じゃない」
ぎ、とベッドが軋んだ。背中の辺りがちょっと沈んだ。
背中を、逃げるように、丸めた。
「やだって言ってる。出てけ」
「だから、やだ、じゃないだろ。そんな思ってもないこと口にするな」
「っ、お前に何が――!」
遂に許容しきれなくなって、勢いよく振り向いた。
そしたら、額に、あったかい手が触れた。
信じられなかった。
知らない他人の肌のはずだ。温度もきっと違うはずだ。
なのに……それは、その感触は。
優しい母さんと、一緒で。
「本当に嫌だったら『いやだ』なんて言わないはずだろ? しかもそんな、苦しい顔して」
頭を撫でる手はごつごつしていて、撫で方も乱暴で。
似通っているところなんてひとつもないのに。
すっかり、動けなくなってしまった。
「言葉を話せるなら、それはまだしがみついてる証拠だ。『いや』なのは生きることに対してじゃなくて、死ぬことなんだ。手放しきれない希望があるから、明日の光を知っているから、みんな『いや』だと言うんだよ。少なくとも戦場の奴らはみんなそう。絶望ってのはな、もっと見るに耐えない抜け殻みたいなもんになっちまうのさ」
節くれ立った指が髪の一本一本を梳いてゆく。引っかかってもお構いなしに。ぷつ、と千切れても気にしない。そういうところは母さんと全然違う。
痛みに顔を歪めても相手はやめなかった。指に薄汚れた金糸が巻き付いても放っていた。
そんなことでも『生きている』証なのだと、年齢のわりに丸っこくなる不思議な赤褐色の瞳が訴えていた。
「お前はまだ抜け殻じゃない。こんな世界を軽蔑しながら、それでも何かを望んでる。俺にはそういうふうに見えるんだ。だから……もったいないよ、本当に」
……なんだろう。
たまに触れる日当たりのような、暖かさを滲ませる言葉に。
身体の奥から、ぐるぐると何かがこみ上げる。
「母親とか兄弟のことを想ってるのも分かる。だから後ろめたく感じてるんだろうことも分かる。なら、俺に責任なすりつければいい。運悪く拾われて、運悪く養子にされて、生きることになっちまった……それでいいよ。俺は全然構わない。大事な命がひとつ消えちまうよりよっぽどいい。なっ――【エバン】」
その響きは、まるで、遠く聴いた鐘の音色。
未知の音階を転がりながら、まっすぐ――こちらの胸に入ってくる。
世界が、色を変える。
「王都エヴァンジル……遥か昔、人間にこの五線譜の大地を委ねた女神がそう名付けたんだってさ。意味は《福音》、お前にぴったりだと思うんだが、どうだろう?」
エバン・レーヴェ。
そう名乗って、もっかい、生きてみないか?
男は……グラディスは、笑ってる。疑うことなく祝福している。何も間違いはないんだと。罪も罰も無いんだと。
ただそれは、自分の手を強引に引っ張るものではなく。
あくまでも、己の意思で決めろと佇んでいる。
「…………」
どう答えればいいのか分からなかった。うんともすんとも言えないでいた。
代わりに視界がぼやけて、滲んで、少しもしないうちに目尻から熱い液体が溢れ出した。ちょっとで終わらない。ひとつ転がれば今度はふたつ、よっつ、むっつ……増えるだけ増えて胸の奥からほとばしる。
自分が今どうなっているのかの理解も追いつかないまま、相変わらず頭を撫でるあったかさに呻きながら。
――母さん、兄さん、みんな。
俺はこれで、いいんでしょうか。
沼底のドブネズミが、人間になっても、なりたいと望んでも、いいんでしょうか……?
どうか、許されるなら。
俺は……俺は、
光の中で、生きてゆきたい。