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目が覚める。瞼を開く。だからこちら側が『現実』なのだと、否応なしに理解してしまう。
キャトルは清潔なベッドの上にいた。まだ、だ。あれから数えて二週間は経ったはず。自分の身体は未だに腑抜けたままで、座ることはできても歩き回れるだけの体力がない。
このまま……白いシーツに根を張って、緩やかに死へと向かうしかないのだろうか。
いやだ、そんなのは。だったら今、この場で、ひと思いに死んでしまいたい。何も成せずに朽ちゆくだけの毎日を過ごすなんて耐えられない。
ここまで必死に走ってきたのだ。走るしかなかった。生きるためだけに走ることこそが『生きている』ということだった。他の誰もが自分たちの生を認めないというのなら、自分自身でがむしゃらに、強引に、証明するしかなかったのだ。
その脚を止めてしまえば、それは、死んでいることとなんの変わりもない。
……そうか。自分はもう、死んでいるのか。
思い返せばあの場所で、果物ナイフにめった刺されて死んでいたはず。現在は運命がちょっと狂って続いているだけ。
自分はとっくの昔に死んでいた。当たり前だ。
母さんから引き剥がされた時点で、金髪のキャトルは――。
「よっ。今日は朝からなんもなくてな、暇だから顔見にきたぞ」
頼んでもない来客がのぞき込んでくる。傍らの丸椅子に腰掛ける。今日は鎧を身につけていない。簡素な、けれど質のいい服だけ着ている。
だから、どうした。
関係ない。沼底の穢れた暗さも知らない人間なんか。
「メシ、まだ食ってないって。そろそろ食堂のおばちゃんも本格的に困ってくる頃だぞ。『大鍋担いで直接届けた方がいいかい』なんて、シャレになんないこと言ってさ……」
言葉を聞き流す。感覚を閉じる。慣れている。盗み損じた報いを受けるときはいつもこうやってる。
けれど、不意に頬を撫でた人肌までは流しきれなかった。
途端に粟立つ肌。嫌悪か、憎悪か、どちらもか。気持ちの悪い感情が一瞬で生まれて胸に渦を巻き、弾けた。
「さわるなっ!」
「うおっ」
男の手を叩き落として身を引いた。大人用に設えられた寝台はやせ細ったキャトルにとって充分な広さがある。縁から落ちそうなぎりぎりのところまでずり下がり、相手の顔を睨みつけた。
虚を突かれただけでまるっきりこちらの不快感など汲み取っていない男は、あろうことか嬉しそうに笑ってみせた。
「なぁんだ、結構元気じゃねえか。でもあんまり動きすぎると傷開くぞ。ろくに食ってないならそっちの治りは遅れてるだろうからな」
――ああ。
もういい。もうやだ。たくさんだ。
放っておけと言ったのに構ってくる。あからさまな敵意を向けても笑い返す。
これは人間の余裕だ。持たざる者には到底得られないものだ。飼い主がドブネズミにかける憐れみそのものだ。
弱い者を……ただ生きることすら認められないヒトガタの玩具をなぶる、強者の驕りじゃないか。
「……なんも、分かってないくせに」
声は、勝手に出た。意思に関係なく、心が、肉体が、何かを叫ぼうと震えだした。
きっとそれは、生まれてから今まで……無明の闇の中で暮らしてきた頃から確実に降り積もっていた全て。
震える腕で体を支えながら、吐く。
「おまえたちにとっては、動物の面倒でもみてるつもりなんだろ。餌をやって、手当てして、元気になったらまた無責任に外へ放り出すつもりだろ」
そんな扱い、人間のそれではない。
「知らないくせに……沼底のドブネズミでも『生きてる』って思いこんでる。……あほらしい。毎日盗んで、殴られて、汚い水飲んで、ぼろぼろの布切れだけ巻いて、太陽の光にも当たれないで…………そんな生活が、本当に『生きてる』って言えることなのか? おまえたちはそれでも生きていけるのか?」
自分は知っている。断じて違う。
それは人間の営みじゃない。
「誰かに拾われたっておんなじだ。兄さんも、姉さんも、みんな体に模様を入れて、どっかに買われてった。人間らしく生きるのに入れ墨なんて必要なのか? この国にはそういう決まり事でもあるのか?」
それも違う。絶対に違う。
「結局、俺たちはただの『物』なんだ。おまえたち人間の勝手で買われて遊ばれて壊されて棄てられるだけの消耗品だ。人間ですらない。生きてなんかいない。たったそれだけのこと、誰も許してくれない……!」
もう二度と思い出したくもない、あの小綺麗な男の顔が脳裏をよぎる。
わざわざ自力で王都の最下層まで降りてきた男は、代金を請求するでもなく、謝罪を強いるでもなく、人のいい笑顔で言ってのけた。
『君のことが気に入ったんだ。よければ私の屋敷に来ないか』と。
ただの家族の一員として。奴隷として働かせるつもりではないと。男は生まれつき子供がもうけられない体質なのだと話した。
突然降ってきた「人間らしい生活」への招待状。けれどキャトルは母を思って首を縦に振れなかった。相手が欲しがっているのは自分だけで、女性をもうひとり迎え入れるのは少し厳しいと。
結局、良心的な下働きの仕事を斡旋するという約束を承諾した母に半ば突き放されるような形で、キャトルは男の屋敷に向かうことになった。
……それが、間違いだったのだ。
「おまえ、なんで俺が追われてたのか、知らないだろ」
真っ向から睨めつけた赤褐色の瞳は、突然のまくし立てに圧倒されているようだったけれど、同じくらいまっすぐにキャトルを見つめている。逃げて棄てて拒絶すればいいのに、しない。
どうして? 簡単だ。
彼は人間だから。自分の意志を選択する力を持っているから。
だったらそんなもの、汚いこの手でぐしゃぐしゃに握り潰してやる。
「妾にする、と言われたんだ」
今度こそ、男が息をのんだ。
ほら、聞かなきゃ良かったのに。こんな反吐が出るような言葉。
男に対して……ましてや年端もいかない、まだ七つのキャトルに向ける身分では到底ない。妾とは正妻のほかに囲う女のことだ。そういう下卑た知識だけはいやでも覚えてしまう。
だってそれは、母が身をやつしていた稼ぎ方だったから。
「あいつの屋敷には俺みたいな子供がごろごろ転がってた。みんな『使い』潰されて、まともな会話もできないぐらい……そんなところ、沼底より居心地が悪い。他人に買われて壊されるぐらいなら、俺はドブネズミのままでいいと思った」
だから、逃げたのだ。
少年趣味の変態の慰みものにされるぐらいなら、果物ナイフでずたずたに引き裂かれた方が何倍もいいと、本気で思った。
見張りの隙をついて屋敷を飛び出し、無我夢中で暗闇に向かって駆け走った。きっと母さんはまだあそこにいる。母さんの傍にいれば何も怖くない。
子供の脚じゃ大人の追跡など振り切れないと、分かっていながら。追いつかれて、追いつめられて、結果母もろともどういう扱いを受けることになるのか、現実に見ないふりをして。
……でも、巣穴はとっくに壊れていて。
だれひとり、キャトルの傍からいなくなってしまった。
「だから……元気になったって、何も変わらない。沼底に戻ればまた捕まる。今度こそ入れ墨を彫られて、おもちゃにされるんだ。……そんなところに戻りたいなんて、誰が思うか」
最後の本音だけ吐き捨てて、強くシーツを握りしめた。守るつもりもないくせに自分を包むこの白さも、消毒薬の匂いも、酷く不愉快で仕方ない。
人間らしく生きることが叶わないのなら、せめて人間ではない何かであっても、路傍に転がることだけは許されたい。石ころでいい。雑草でもいい。それらは誰のものでもない。ただそれだけのちっぽけな『存在』は手放したくない。
「……助けたって無駄だ。どうせ俺はあの屋敷に連れ戻される。それなら怪我なんか治らなくていい。食事もいらない。ここで死んでやる」
安全な場所で餓死を選ぶなんて滑稽極まりないけれど、今の自分にできることはそれぐらいしかない。
もうこれ上話すことはないと、キャトルは上掛けをひったくって男に背を向けた。こんなに喋ったのなんて久しぶりだから喉ががらがらする。でも水は要らない。これからは飲まない。長くとも一ヶ月もすれば干からびてしまえるだろう。
背後の気配は微動だにしなかった。ただ静かな視線だけを感じた。何を思っているのか知らないが、そんなに見たって何も変わらないし変える気もない。ドブネズミにも気の効いた慰めひとつ言葉にできない人間なんかに、望むことはひとつもない。
早く出ていけ、とだけ願って。
衣擦れの音に胸をなで下ろした、直後。
「それじゃ、お前、俺の養子になれ」