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夢を見た。夢なのだと分かってしまった。けれどどちらが現実なのかは、決めつけることができないでいた。
「おい、キャトル」
呼ばれて、振り向く。七つ上の兄が妙に強い目つきでこっちを見ていた。元から鋭い目元をしていたけれど、容姿の特徴とは別。もっと深い、心の部分が、兄にそういう顔をさせている。
きっと良くないことを言われるのだと、そのぐらいは直感で分かって。
「おれは明日、ここを出て行くことになった」
ただ、その言葉は、とても未知の響きを帯びていた。
出て行くって……。
「どこへ?」
「分からない。けれどおれはもう、誰かの所有物だ。入れ墨もある。だからこれからはそこで暮らす」
所有物。入れ墨。暮らす。
……それは果たして、本当に「暮らす」ことになるのだろうか。
誰かの持ち物になって。消えない痕まで刻まれて。
ドブネズミが、ドブネズミですらいられなくなるような、そんな環境が。
人間らしい生活のカタチなのだとしたら。
「キャトル」
名を呼ばれて、はっと顔を上げる――これも正式な名前ではないけれど。
四番目に産まれた子。なのに母にも兄弟にも似ない、金色の髪を持つ男の子。
だから、金髪のキャトル。
生まれてからずっと、自分はその単語で呼ばれている。
ほとんど黒に近い焦げ茶の髪をした兄は、射抜くような瞳に金色を映して言った。
「おまえはまだ七つだが、一人の男だ。『仕事』もちゃんとできるようになってる。……おれの代わりに、母さんを、守ってやってくれ」
その言葉にどれだけの後悔と無念が渦巻いていたのか。
胸がざわつく感覚に、自分は、ぎこちなく頷くことしかできなくて。
その日を境に、兄弟たちは一人、また一人と、どこか見知らぬ《主人》の元へと旅立っていった。
ああ、近いうちに自分も同じようにどこかへ送り出されるのだ。例外はない。みんなはっきり口には出さなかったけれど、どういう事情でここを離れるのか、分かっていたから。
体が大きくなれば食い扶持は増える。今までよりもっとたくさんの食べ物が必要になる。そして悲しいことに、小柄な時代を過ぎれば盗みの難度はぐんと上がる。
そもそもこんな光の射さない万年闇の沼底で、物心つく年齢まで成長できることが奇跡に等しい。さらに両手で歳を数えられるようになるなんて、その奇跡の中でもほんの一握りだ。子供を優先的に考える良い親の元に生まれたか、あるいは盗人の才能を授かっていたか。考えられるのはどちらかひとつ。
自分たち……キャトルの母は前者だった。あまり「優しい」とは言えないような人で情緒も不安定だったけれど、盗みがうまくいかなかった時には日銭を稼ぐために一晩帰ってこないこともあった。たぶん、自分のものを放っておけないひとだったんだと思う。一度抱え込んでしまえば見捨てられない。だから自分が生きるのにも精一杯なのに、五人もの子供を産んだ。
それでもいつかは手放さなければならないときがくる。母は自分たちを生かすのに精一杯だったが、そこに自分の命まで賭けられるほど出来た『母親』にはなれずにいた。
長兄が去って、長姉が去り、三番目の兄もどこかへと。
そして遂に自分の番がやってくる……そう、思った。
なのに、その前に五番目の妹が姿を消した。人攫い、というやつに巻き込まれたらしかった。薄汚れてはいたが可愛らしい容姿をしていたから、ドブ浚いの合間に連れて行かれてしまったのだろう。
母は探そうとしなかった。キャトルにもそんな余力は残っていなかった。
そうして母は妹の代わりに、毎晩キャトルを大切に抱きしめて眠るようになった。
やむを得ない事情で子供たちを失うことになっても、本当のひとりぼっちにはなりたくなかったんだと思う。
がさついた指で髪をくしけずられるまどろみの中、七つ上の兄に言われた言葉を思い出す。
『母さんを、守ってやってくれ』
……きっとみんな、ここを離れたくなかっただろうに。
ずっと母さんと一緒にいたかっただろうに。
そんな寂しさを押し殺して、それこそが母の助けになるのだと、自らを売っていなくなった。
いつかは自分も同じ道を辿る。先延ばしにされただけ。
だからそれまでは、寄り添っていようと決めた。
自分に出来ることなんて何もないけれど。
この人に安らかな眠りを与えることができるのなら。
けれどそんな日々は、とてもあっけなく終わりを告げた。
相変わらずの闇から這い出たその日は曇り空。人も建物もぼやけて見えて、盗みを働くには絶好の機会。
反面、沈んだ気持ちが負の方向へ転がりやすいことを、キャトルは失念していた。
標的は露天商のリンゴ。曇らぬ赤さに目を奪われた。ついでに喉も乾いていた。
――結果は散々。
人通りの少なさが仇となってすぐに見つかってしまい、ひとしきり殴って蹴られた。それだけならいつものことだから良かったものの、店主はよほど鬱憤でも溜まっていたのか果物ナイフを平気で持ち出してこっちに振りかぶった。
銀の輝きは鈍く、それでもドブネズミの眼を刺すには充分に明るく。
逃げたくても力の入らない身体を投げ出して、やつれた母の顔を思い描いて。
ごめんなさい、と音にならない呟きを落とした直後。
「ああ、待ちなさいそこのご主人。何があったというのだね?」
全然知らない声が横合いから割って入った。
流れた血で汚れた視界ではよく見えなかったけれど、どう考えても自分みたいな……いや、それどころかこんな俗っぽい露天通りにすら不釣り合いな、裕福な身なりをしていることだけは分かった。
呆然としているうちに店主はナイフを引っ込め、しかもやたら上機嫌な顔をして去っていった。何かしら二人で話し合ったらしい。店主の手にはそこそこ重そうな麻袋が握られていた。
それから男はキャトルを壁に寄りかからせて「ちょっと待っていなさい」と言って背中を向けた。精悍な顔つきの、四十代ぐらいの男だった。彼はすぐに戻ってきた。
「これが欲しかったのだろう? 先ほどの店から買い付けてきた。持っていくといい」
差し出されたのは真っ赤なリンゴ。しかも三つ。
全くわけが分からなかったけれど、貰えるものは貰っておかないと絶対に後悔する。男の手からひったくるようにそれを取って、一目散に路地裏へと駆け込んだ。息をするだけでも吐きそうなぐらい痛めつけられたはずなのに、逃げるとなったら棒きれ同然の身体でも素直に動く。ドブネズミの数少ない利点だ。
「待った! せめて名前ぐらい、教えてくれないか?」
鋭くかかった問いに、脚を止める。
そんなもの、自分は持っていない。他人に名乗るようなことは今までにしたことがない。
でも、助けられた恩はある。
「……金髪の、キャトル」
ぼそり、それだけ告げて、今度こそ振り返らずに家へと帰った。
何をもって名前なんか知りたいと思ったのだろう。あとで代金を請求するつもりでいたのかもしれない。
だが今ので分かっただろう。『四番目の子』という記号でしかない言葉を聞いて。
お前が手をさしのべたのは人間なんかじゃなかったのだと。
綺麗なリンゴを差し出すと母はとても喜んでくれた。痣だらけで血にまみれている体を心配もしてくれた。
少しぐらつく歯でかじった果実はとても甘い。
母さんも隣で嬉しそうに笑ってる。
それだけでいい。他には何もいらない。
そう思って眠った、翌日のこと。
あの男は小綺麗な格好のまま、光の射さない沼の底まで降りてきたのだった。