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スカーレッド 序 エヴァン=ジル  作者: 綴羅べに
1.華の都のドブネズミ
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 いやだと気持ちで思っていても身体は自由に動かず、清潔すぎる白いシーツの上で日々が過ぎてゆく。

 どうやら元々栄養失調でぎりぎりを綱渡りしてきた身体が、今回の負傷を機にすっかり気力を失くしてしまったらしい。腰で自分の体重を支えるのも難しいから、ほとんど横になっているしかない。

 そんなことは医者(というわりに顔つきはおっかなかった)やあの男――グラディスから説明されなくとも、分かっていたことだ。

 口にできたのは、その日を生き延びるために必要最低限の食糧と水だけ。手のひらに乗せて握り込めば潰れて屑になってしまうような古いパンのかけらと、雨水や下水を濾過してどうにか飲めるようにしたもの。一日三食なんて贅沢できやしない。その日に食べるものがあるだけでも幸運な生活。

 だから、何があっても立ち止まったら駄目なんだと教えられた。少しでも気を抜いた瞬間、こうやって動けなくなってしまうから。それはつまり、死を意味するから。

 母さんだけじゃない。それぞれの生活に手一杯で、時にはこっちが苦労して盗んできた食べ物を平気で横取りするような同類たちも、それだけは繰り返し言葉にしていた。誰かに聞かせるつもりで言ったのか、それとも自分自身に向けているのか。どちらにせよ、それは沼底の教訓でもあり、呪いでもあったように思う。

 なら、こうして立ち止まってしまった自分は。

 呪われるまま、蝕まれるまま、沼底の掟に従って死ぬしかない。

 考える前に身体が反応した。一日三食。欲しくても手の届かなかった贅沢が毎日欠かさず目の前に出されたけれど、自分はそれを拒絶した。口に入れて、飲み込んで、吐いた。

 同類たちに指をさされて嗤われているような気分。

 身に余る幸福だ、ドブネズミが今更人間なんかに戻れるものか、と。

 ……結局、あのままあの屋敷にいたとしても、自分はたいして保たなかったんじゃないかと、今ならば思う。

 だからもう放っておいてほしい。ぼろ布にでもくるんで今すぐ外に放り出してくれて構わない。

 こんなところにいたくない。死に場所にふさわしくない。

 決して晴れない路地裏の闇の中で……どうせなら母さんと暮らしたあの『家』で。

「――よっ。今日もメシ食ってないって?」

 なのに。

 団長を名乗る陽気な男は懲りずに毎日顔を出す。護譜団とはご立派な大義名分のわりに暇なのだろうか。

「駄目だぞちゃんと食わないと。治るモンも治らねえ。……それともアレか、お前結構好き嫌い激しい方?」

 また勝手なことを言ってくれる。こちとら飢えをしのぐためなら草だろうが虫だろうが腐りかけの残飯だろうが何でも貪ってきたのだ。食糧に選り好みがきくほど甘い環境だと本気で思っているのだろうか。

 仮にも、この国を守ると声高に理想を語っている組織の責任者が。

 自分たちの足下すら見ていない、と宣言しているようなものじゃないか。

「その気持ちは分からんでもないけどなー。俺も食わず嫌いなもんでよく厨房のおばちゃんに怒られるんだ。『いっくら兵士でも肉十割その他ゼロ割の食生活送ってたらそのうちデブになって馬がぺしゃんこに潰れるよっ!』ってさ。……ああうん、自分で言ってみて分かったわ。だいぶシャレになんねえなそれ」

 今日も今日とてよく回る口だ。願ってもないのにぺらぺらといろんなことを喋ってる。おおかたは自分のこと、それから仕事の愚痴。たまに【ジル】という誰かのこと。

 聞かされるこっちの事情なんか少しも理解していない。

 食べたいときに好きなだけ食べて、眠りたいときには周囲の目を気にすることなく眠れて――笑っていられる。

 それは沼底にとっての太陽に等しい。細い筋すら射さず、姿を見ることもできず、焦がれるだけの、想像上の存在。

 でも、こんなにひりひりして、痛くて、熱いなら、そんなもの自分には必要ない。ずっと暗い闇の底でいい。

 なんの苦労もなく存在を許されている人たちと自分を見比べて惨めな思いになんか浸りたくもない。

 いい加減耳障りになってきたから寝返りを打って背を向けた。こうすれば強制的に相手の話を打ち切れるのだと、この数日で学習したのだ。

 その通り、男はぴたりと口をつぐんだ。

 でもそれから、かすかに笑う気配がした。

 苦笑混じりの、けれどあたたかい……あたたかすぎる、優しい声。

「また来るからな。しっかり食えよ」

 極めつけに頭を撫でられる。皮の厚い指が素知らぬ顔で触れてくる。

 あまりにも隔てのない態度。気づけば隣にいるような、自然すぎる不自然さ。

 払いのけようにもそんな力は出せない。顔をしかめているうちに手は離れて、足音も遠ざかってゆく。

 再び静かになったベッドの上で、自分は唇を噛みしめた。

 優しさもまた、時には呪いと化してゆくのだと、あの男は知らないのだろう。

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