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スカーレッド 序 エヴァン=ジル  作者: 綴羅べに
1.華の都のドブネズミ
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 ……嗅いだことのない匂いがする。

 食べ物でも、植物でもない。場末の酒場から時折流れ込んでくる化粧品の香料に似ているけれど、あれよりもっと肌馴染みが悪い。拒絶されているように感じる。

 眉間にしわを寄せて、それからゆっくりと目を開き。

 輪郭の合った光景に、思わず全身を強ばらせた。

 天井だ。幾重にも柱の組まれた三角屋根の裏側が、途方もないぐらい高くまで伸びている。それだけじゃない。前にも後ろにも右にも左にも、自分の視界を突き抜けてどこまでも広がっている。

 どうやら自分は屋内にいるらしい。しかも、とてつもなく巨大な。

 ときどき朝になっても帰ってこない母を迎えに訪れる、薄暗く窮屈な『宿』なんか比べものにもならない。あの店を二十軒以上並べて積み上げ、ようやく同じだけの空間が作れるかといった様子だ。

 あまりにも広すぎて薄ら寒さまで感じる。

 けれど実際はちっとも寒くなくて、どうしてだろうかと自分の周りに意識を向けた。

 ……それこそ、気を失うかと思った。

 視界が潰れかねない真っ白な布に、自分は包まれている。

 それが清潔なシーツとマットレスで、質の良いベッドの上で、そこに寝かされているのだと理解がようやく追いついて。

 ああ、もしかして、死んだのかな。

 無言で大混乱を起こした頭が、ぽつん、とそんな結論を吐き出す。途端に笑ってしまうほどあっけなく気持ちが落ち着く。

 そうだ、きっと死んだのだ。でなければこんなに広くて静かで綺麗な場所に自分なんかがいるはずもない。許されるわけがない。王都の下敷きにである沼底のドブネズミは太陽の光を浴びることさえ満足にできないのだから。

「……そっか。死んじゃったんだ」

 ふと呟いた。ちゃんと声は出るし、息もしている。死ぬことはとても怖いものだと思っていたけれど、案外生きていた頃とほとんど変わらないのかもしれない。

 それなら、いっか。

 もう誰もいない。兄弟も、母さんも。

 たったひとりだけなら、必死に生きようともがく必要もない。

 元より自分に価値なんて……

「は? 誰が死んだって? 生きてんじゃんお前」

 突然――ぬぅっと視界を塞いだ影。

 硬そうな顔の造形とは裏腹に、両の眼が子供っぽく丸まってこちらを見下ろしている。

「……」

 ……いくらなんでもこの人が天使ってことはないだろう。

 許容量をとっくに超えた頭ではそんな感想しか思い浮かばず、声も出せないまま、しばらくはただ相手の目を凝視した。



「……んで、ちょっとは落ち着いたか?」

 腿の上で器用に頬杖をついた男が尋ねる。よく見れば顔だけじゃなく全体的に体格が良い。簡素な金属鎧を身につけているせいもあるのだろうが、その隙間から覗く薄い褐色の腕や首の筋肉は逞しく発達している。

 ひとまず、頷いた。せめて上体だけでも起こそうと思ったのだけれど、右のわき腹が酷く痛んだので横になったままで。

 その激痛がなによりも現実を証明する。

 あの路地裏での出来事。きっかけとなった母との別れ。

 全て、悪い夢なんかじゃなかったのだと。

 翳るばかりのこっちの気持ちなんてお構いなしに、男は歯を見せて笑った。光の中で生きることを許されている人間にしか浮かべられない表情だと思った。

「そいつはよかった。傷もかなりざっくり入ってたが、化膿も壊死もしてないとよ。ま、普段から俺たち兵士を相手取ってる医者の治療なんだから、綺麗さっぱり治してくれないと困るんだけどな」

「……兵士?」

 物騒な単語につい苦い呟きをこぼす。すると男は「おう」と頷いた。

「一応、この国を守るためって名目で剣を振るってる連中さ。《スコアランド王立護譜団》。ここはその中枢、王城の敷地に構えてる屯所の医務室だ。んでもって俺の名前はグラディス・レーヴェ、ここで団長やってる」

 ぽん、ぽん、とリズミカルに放り出される情報のひとつひとつが頭にぶつかる。理解よりも衝撃の方に意識を持っていかれて目が回る。

 グラディス、と名乗った男の顔から、途方もない天井へと視線を移した。

 スコアランド、王立護譜団。

 王城。の、敷地。屯所。医務室。

 ……ああ、だから、どうりで。

 こんなに広くて、しっかりしていて、落ち着かないぐらい綺麗な場所なのか。

 見たことのない……一生見るはずもなく、ドブ底しか知らない頭では想像すらできなかった、華の王都の中心部。

「念のため説明しとくと、貧民街で男二人に追っかけ回されてたお前を保護してここに連れてきた。わき腹斬られてたしな、ほっといたら死んじまうってんで治療して寝かして、今日でちょうど三日目。いやー、そのままいつまでも目が覚めなかったらどうしようかと心配してたんだ。ほんと、よかったよ」

 嫌みのない言葉がさらさらと耳元を流れてゆく。

 裏も表もない。相手は心の底から無事を喜んでくれているらしい。こんな縁もゆかりもない、一目で浮浪児だと分かる自分を。

 嬉しい……とは、思えなかった。

 だって、どうして自分だけ。

 たったひとりで。母さんもいないのに。

 こんな、飢えも渇きも縁遠い天国のようなところにいるんだろう。

 自分、だけ。

「そういやお前、名前は? 俺も名乗ったんだからさ、教えてくれよ」

 そうやって、何も考えずに踏み込んでくる。持っていることが当たり前だと思いこんでいる。

 ドブネズミでも、人間と同じように暮らしているのだと馬鹿な幻想を抱いている。

 一寸先も見えない本物の闇の昏さも知らないくせに。

「……あ、おい。何くるまってんだよ。答えろって。おーい」

 うるさい、うるさい。

 関わらないでくれ。ほっといてくれ。

 いてもいなくても関係ない、こんな塵芥のことなんて。

 男の声を拒絶するように瞼を強く閉じる。

 どうせなら本物の天国に逝ってしまいたかった。


 あの場所で、死んで、構わなかったのに。

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