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大通りの石畳ではなく、いつも使っている芝の道を踏む。ここのところエバンが通っているせいか、草がわずかに潰れてうっすらと轍になっていた。あとで誰かに怒られたらちゃんと謝ろうと思っている。
そんな轍の中程から少しずつ東の方へと逸れてゆく。だいぶ日数が経ってしまったけれど、あのひとの言葉は一言一句しっかりと覚えていた。
東の裏口の、掃除婦に頼んで。
胸がはやる。けれど穏やかだ。口から飛び出すような騒ぎにはなっていない。王城の偉容に慣れたのかもしれないし、逆に感覚が麻痺してしまったのかもしれない。
それだけ色々なことがあった。思考を巡らすには充分なほど。むしろ有り余ってしまうほど。
グラディスは、ただ「生きる」ために生きろ、と言った。理由なんて必要ないと。存在するだけでいいのだと。
エバンも最初はそう思っていた。自分には何かができる、やりたいなんて考えはなかったし、あったとしても人間になったばかりのドブネズミには過ぎた願いだ。綺麗な服を着て、美味しい食事にありつけて、風呂にも入れて、ふかふかのベッドで眠れる。これ以上を望むものならきっと罰が当たる。他にどうすることもできず入れ墨を彫られて消えていった兄姉たちの顔が浮かぶ。
……けれど。
気づいたのだ。
何もないまま生きるのは、たぶん、ドブネズミだった頃とこれっぽっちも変わらない。
何をして「生きる」のか。なんのために「生きる」のか。
『人間』であるからには、生きることにも動機が必要なのだと。
きっとそれはなんでもいい。空を見たいとか、これが食べたいとか、そんな些細な事でいい。大きなことを考える必要はない。
ただ、この城の中で生きるからには、もっと強い動機が必要なのだ。純粋な欲求だけでは暗いものに流されてしまう。誰かの道具にされてしまう。
意志を、持たなければ。
これが自分なんだと胸を張って言えるもの。悲しいこと、辛いことがあったとき、止まり木になるようなもの。
いつまでも他人に守られるままの子供じゃいられないから。
いや……そんな自分は、嫌だから。
エバンはズボンのポケットからそれを取り出した。煮詰めたオレンジか蜂蜜のような色の、透き通る石の耳飾り。
両手で大切に包み込み、夜と建物の陰に溶けて一層の暗がりをみせる芝の上を静かに駆け抜けた。
石壁の中にはめ込まれた木戸はぴたりと閉じられている。よくよく考えてみれば来る時間を間違えたかもしれない。護譜団の兵士だって夕食をとってあとは眠るだけなのだ。掃除婦もとっくに仕事を終えてそれぞれの家や宿舎に帰ってしまっているんじゃないか。
でも、今更引き返すことはできない。ここまで来たんだ。ノックもしないで背を向けられようか。
短い石段に足をかけ、エバンは、はっきりと木戸を叩いた。
待つこと数秒。
思ったよりも早く戸が開き、暗がりにあたたかな色の光を投じる。眩しさにノックした手で目を覆った。すぐに人影が重なった。
「どなたです? ……あら?」
エプロン姿の年老いた女性は、まっすぐに投げた視線を下へ向けたあと、意外そうに首を傾げた。何度か見かけたことがある。イクシオの講義を終えて城を出るときとか、大階段の手すりをはたいていたり。
相手もエバンの顔に覚えがあったようだ。
「あなた、確かイクシオさまの。どうなさったんです、こんな時間に」
「あ……その」
どういうふうに伝えればいいのか。全く考えていなかった。顔を知られているとはいえ、どう見ても貴族ですらない子供がいきなり「国王陛下に会いたいです」と言ったところで十中八九疑われるに違いない。
どうしよう……、つい、手を握って。
硬い感触に、目が覚めた。
「……この耳飾りを、届けにきました」
掃除婦の女性に、開いた手のひらの中身を見せる。このまま『落とし物』として回収されてしまえばそれまでだったけれど、これ以外に思いつく手段がない。
皺の目立つ少し厳しそうな顔の中で、両目が軽く見開かれた。
「これは……」
つい手を伸ばし、途中で我に返ったように引っ込める。女性は耳飾りに触れなかった。その代わりに、最低限の隙間で止めていた木戸を大きく開けた。
「どうぞ、お入りください」
「……いいんですか?」
「もちろんです。持ち主の方も、あなたがいらっしゃるのを心待ちにしておられました。さあ」
促されるままに、エバンは光の中へと吸い込まれた。ご案内します、と言う掃除婦の背中についてゆく。
人影はあまりなかったが、廊下で人の話し声がしたり、向こうの方から誰かが近づいてくる気配を感じると、掃除婦は必ず進路を変えた。その足取りに迷いはない。よっぽど城内を歩き慣れているらしい。
いくつもの角を曲がり、明らかに表向きではなさそうな階段や暗い通路を通り、時には人を避けるために踵を返して同じ場所をぐるりと一周したりもして。
もう自分が王城のどこにいるのかも分からなくなったころ。
ふと、視界が開けた。
夜風が頬を撫でて、水や草の匂いもした。
「外……?」
一体どうやって。
目の前には小さな庭園が広がっている。屯所の修練場と同じか、あるいはもう一回りは広いだろうか。月と星の光を受けて揺らめく紺色の湖を中心として、アイボリーの小さな橋や小屋のようなものが適度に配置されている。
まるで異界にでも迷い込んでしまったよう。
そう思ってあちらこちらに視線を巡らせていたエバンは――遂に、その灯火を見つけて足を止めた。
橋の欄干に腰掛けて、凪ぐ水面を眺める姿。
背中でも、分かる。忘れるはずがない。銀鼠色のケープに流れる、金の髪。
「お寛ぎ中のところ失礼いたします、陛下。お客さまをお連れいたしました」
深く腰を折った掃除婦が告げる。
片方残った耳飾りがしゃらんと揺れる。
答えを待たず、彼女は下がってしまった。去り際に会釈されたが、エバンにはそれに返す余裕もなかった。
気づいたときにはもうふたりっきり。あの日よりも美しい、けれど人工的な泉のほとりで。
そんな思考を見透かしたように、
「人の手が入っていると、やはりなんとなく落ち着かないね。誰かに見られているようで」
水面を見つめていた視線が、立ちのぼる煙のように夜空へと向けられる。しゃらん、涼やかな音が続く。
知らず止めていた呼吸を再開して、エバンはゆっくりと彼に歩み寄る。下草を踏む音がやけに響いた。確かにここにいるんだと、大地が自分に伝えるみたいに。
「……遅くなって、すみません。これを」
どんな話をすればいいのか。準備してきたわけじゃない。ほとんどその場の衝動で、ここまで来てしまった。
だからもう、考えるのはやめた。
元からそうやって生きてきたのだから。
差し出した手のひらに、ようやくあの、蒼い瞳が向けられた。
「あのとき、助けてくださって……ありがとうございました」
ああ、ようやく言えた。
あなたのおかげで、いま、俺はここにいるのだと。
天空の双眸がわずかに見開かれる。意外そうに、耳飾りからエバンの顔へと視線を移す。
「……なんだ。先を越されてしまった」
そうして彼は、溶けるように目元を弛めて、笑った。
「俺の方こそ、生きていてくれてありがとう。エバン」
何をもってこの国の王たる彼が、一介のドブネズミでしかない自分を救ってくれたのか。こんなに、気にかけてくれるのか。
まだ分からないことだらけで。でも。
それはきっと、ここから、少しずつ、見えてくるだろう。
だから、そのために。
「俺、護譜団に入ろうと思います」
ジヴォルニアの面影を感じながら、この数日、ずっとそのことを考えていた。そして今日の一件で、やはりそうしなければならないのだと思い知った。
「この国の人を守るために……なんて、立派なことは言えません。俺にはそんな大切なもの、まだないから。でも、自分のことぐらい、自分で守れるようにはなりたいんです」
歪んだ動機であることは理解している。
ビュライトにも剣技の修練を目的としている節はある。けれど彼女は古い剣士の家系だ。剣の冴えを突き詰めることは、そのまま誰かを守り、尽くすことに繋がってゆく。彼女自身もそれは有無に関わらず自覚しているだろう。
自分は違う。目的と手段が逆転している。利用するつもり、と言ってもいいかもしれない。自らを鍛えるため、兵士の身分に身を置こうと。
そのせいもあって、どうしてもグラディスに言い出せなかった。もしも彼に……養父に渋い顔をされてしまったら、エバンはきっと、もうどこにもいけなくなってしまう。
それで、このひとに。
最初に伝えるなら、と、顔が浮かんだ。
「そんな生き方は、間違っているでしょうか」
このひとの言葉なら、まっすぐに受け止めることができると思った。
あの日、あの夜、澱んだ沼の底で「死ぬな」と抱きしめてくれた、この声になら。
ジヴォルニアはしばし瞑目したのち、静かに瞼を開いた。現れた蒼いあおい瞳は、背中に広がる湖面よりゆったりと凪いでいた。
「それが君の望んだ道なら、行くといい。全てそこから始まるんだ。何も間違ってなどいないさ」
けれど、と。歌うように付け加えられる。
「もし、それでも自分が許せないのなら……そうだな。ひとつ、俺のお願いを聞いてくれないか?」
「お願い、ですか?」
聞き返せば、軽く頷かれた。
ジヴォルニアの指先が触れる。未だに耳飾りを乗せたままの手のひらに。
包み直すように、指を折って。
「俺には一人娘がいるんだ。生まれてこの方、顔も見たことがない。けれど確かにいるのだと、古い友人が教えてくれた」
「……王女さまってことですか? エリーゼさまと同じ」
そんな話は初耳だ。エリーゼも言っていなかった。
ジヴォルニアが小さく吹き出した。とても子供っぽく。
「王女にはならないだろうなあ。頼んだってドレスを蹴り飛ばして逃げてしまいそうだ。想像でしかないけれど……うん、彼女の子供なら絶対に」
国王の子供で、けれど王女にはならない。
よく分からなくて首を傾げた。すると再び握りしめる形にされた手を、優しく押し戻された。
「そんな親子だから、昔も今も、スコアランド中を歩き回っている。……エバン。君に頼みたいのは、その耳飾りを俺の娘に届けてもらうことだ」
戻ってきた手を開いて、それを見下ろす。
艶めくあたたかな橙色の石。
「いつか、でいい。君がこの王都を出て、自分の足で色んな場所へ行けるようになったら、そのついでに、渡してほしいんだ。他に父親らしいことはなにひとつしてやれないから」
寂しそうな、目。
見たことが……いや、見に覚えがあって、エバンは息をのんだ。それはドブネズミだった自分が太陽に焦がれて空を見上げたときの目と同じだった。
「それまでは君に預ける。身につけてくれていい。それはジェムだから、きっと君を守ってくれるだろう」
「いいん、ですか?」
「もちろん。そのための『お願い』だ」
そこまで言われたら、断る理由も道理もない。
エバンは意を決して、耳飾りを左の耳たぶにつけた。少し重いけれど、慣れてしまえば気にならなくなる。いや、慣れないままでいいのかもしれない。だってこれは自分の持ち物ではないのだから。
顔を上げたら、ジヴォルニアが安堵の表情を浮かべていた。ひとつ、荷物を肩から下ろしたような。
逆にエバンは体が重たくなった気がした。誰かの願いを預かるとは、こういうことなのだ。
「分かりました。必ず届けます」
「うん。頼んだよ。たぶん、目を見ればすぐに分かると思う。夜明けと夕暮れが入り交じった、深い紫の瞳をしているそうだから」
「夜明けと、夕暮れ……」
それは、なんて、神秘的な表現だろう。
本来背中合わせで決して混ざり合わない空が、その少女の瞳には宿っているというのか。
頼まれごととは別に、純粋に見てみたいと思う。きっと綺麗だ。言葉だけでこんなにも惹かれているくらいに。
「ああ、それから」
と、今度は人差し指を唇に立てて。
「これからも遊びに来てほしい。夜じゃなくとも、明るい時間にだっていい。俺とたくさん話をしよう、エバン」
それは、ふたりだけの内緒話。約束。
本当に彼が願ったもの。
――人間とか、貴族とか、元ドブネズミとか、関係ない。
エバンもたくさん、彼と言葉を交わしたい。
「……はい」
確かに、頷いた。
しゃらん、しゃらん、と。
揃いの耳飾りが順に揺れて、音を鳴らして。
福音の名を持つふたりは、静かに、笑いあった。




