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講義を終えて屯所へと戻る道すがら。頭の中がぼんやりとしていて、周りがよく見えていなかった。
だから普段はなるべく人に見つからないよう足早に通り過ぎるのに、今日に限ってエバンはとろとろエントランスを横切っていて。
「失礼。エバン・レーヴェくん、とは君のことかな」
「……はい?」
呼び声にも間抜けた声で応じてしまった。顔を上げてから血の気が引いた。
金髪に、青い瞳。身なりのいい様子は明らかに身分の高さを物語っていて、おまけにだぶった人影が予感を裏付ける。
よく見れば髪も目も、黒みがかっていてちょっと雰囲気が違う。けれど間違いない。
きっとこの青年も王家の関係者だ。
「な……え」
仰天しているエバンの顔を見下ろして、青年は薄く笑ってみせた。こちらを安心させるためだったのかもしれない。だが、分かってしまった。
このひとは、優しくない。
そう……西側の人間と同じ気配がする。
「そう怯えなくてもいい。実は君の噂を聞いてね、お誘いに来たんだ」
「お、さそい?」
「そうとも。君、レーヴェ卿の養子とはいうがまだ護譜団に所属していないようじゃないか。ならばまだ間に合う。こちらの紹介で西の屯所に移ってはどうかな」
何を。
なんの、話だろう。これ。
急に現れて、名乗りもせずに、西に来い、と。
理由が、意図が、わからない。
答えられずに立ち尽くすと、黒みがかった青い目に冷たい気配が濃くなった。
あ、これ。
綺麗じゃない。
底なしの沼の、色。
「レーヴェ卿からいろいろと吹き込まれているのだろうが、西も悪いところではない。むしろスコアランドいち高貴で高潔な集団だと思ってもらいたい。私たちはこの国の由緒ある血統を後世まで存続させるために尽力をしているのだ。その一端に加われるのだから、君にとっても悪い話ではないと思うがね……ドブネズミくん」
そう言われたときの、おぞましさといったら。
イクシオやエリーゼとは全然違う。あのひとたちは自分を蔑むためでなく、純粋にこれまでの経歴を確認するためだけに口にしたのだ。
この城にやってきてだいぶ時間を過ごした。だからこそ、こういう本来の使われ方をされてこなかったことに、今更ながら驚愕と怯えが走った。
逃げたい。でも、逃げられない。蛇に睨まれたカエル、という言葉があるらしいけれど、まさにそんな感じ。
「……だ、だったら……なおさら、俺なんか、呼ばない方がいいと思いますけど」
動けないなりにそれだけ返す。まだ心のどこかで話せば分かると信じてしまっている辺り、ずいぶんほだされてしまったものだった。
ドブネズミの感性が優位に立っていれば、話し合いなんて無意味だとすぐ確信できたのに。
「……確かに君は汚らしい沼底の屑だ。本来ならばこの城に入るどころか、日の当たる場所に這い出てくる資格もない。が、そんなことさえ些事にしかならない価値が君にはあるんだよ」
「し、知りません、そんなの……!」
汚いだの屑だの本気で言うなら最初から声をかけなければいいのに、なんなんだ本当に。
目の前がぐるぐるしてきて、つい一歩後ろによろめいた。そのときだった。
「あら、これはこれは王弟殿下。暇を持て余して徘徊ですの?」
はっとして振り返る。とっくに帰ったはずのイクシオが何故か歩み寄ってきていた。
目が覚めるレモンイエローの髪に酷く安心した。その場にへたり込みそうになるぐらい。なんとか我慢した。
「おや、レウリネス卿。つい先ほど退城したばかりでは?」
「忘れ物を思い出しまして。殿下こそ、わたくしの生徒に何か火急のご用でも?」
「……いいや。少し、立ち話の相手になってもらっただけだ」
「左様ですか。ではこれからわたくしとの面談が控えておりますので、失礼させていただきますわ」
恐ろしく白々しい態度だった。申し訳程度に膝を折って礼の代わりとし、イクシオはエバンの手を引いて歩き出す。なされるがままついていった。ともかく今はどういう理由であれこの場を離れられるならなんでもいい。
自分も振り返って頭ぐらい下げるべきか、と思った。でも、結局できなかった。もう一度あの目を見つめ返すだけの勇気が出てこない。
「……調子に乗るなよ、亡霊騎士風情が」
怒りと、軽蔑と。
気持ちの悪いものが混ざり合った声は、確かにイクシオへと投げつけられていて。
当の本人はぴたりと脚を止めると、軽やかに振り向き――笑ってみせた。
「結構な褒め言葉だわ。アタシの主人はただひとり。たとえあの子が墓地の住人になろうとも、生涯この身を捧げてその遺志に仕えるだけよ。だからよく覚えておきなさい――我が主オリヴィアを侮辱すれば、たとえ王族だろうとも容赦なく黒コゲにされるってね」
眠たげな垂れ目にも鋭利な光を宿し、イクシオは不敵に笑む。とても大切なものを誇るように。
エバンはついその顔に見惚れてしまって、気づいた頃にはとっくに東の屯所まで連れ出されていた。
どこへ行くのかと思いきや、イクシオは階段をあがって三階の奥部屋へと向かう。エバンとグラディスが暮らす団長室だ。
その戸をノックも無しに開け放ち、細腕がエバンを中へと放り込んだ。
「ぅわっ!」
「へあっ?」
間抜けた声が返る。新しく搬入された小さなベッドの隣、戻ってきた寝床でだらしなく寝そべっていたグラディスである。
「は? クー? なんで?」
「アンタの監督不行き届きよ。アデリアントに口説かれてたわ」
途端にグラディスの顔つきが険しくなる。ベッドから降りてエバンに駆け寄るなり、肩を掴んであれこれ全身に目を走らせた。
「大丈夫か? なんか変なことされてないか? 渡された物とかないよな? 強引に着けられたとか」
「え、あ、うん。なんにも、ない」
「ほんとか?」
「ほんと。ほんとだって」
何度も首を縦に振る。それでようやくグラディスは納得して手を離した。
「そっか……よかった」
「いいわけないでしょ。保護者なら保護者らしくちゃんと見張っときなさいよ」
「無茶言うなよ。俺だって護譜団の仕事があるんだから四六時中ついててやれるわけないだろ。だいたい一人で城ほっつき歩かせてんのはクーも同じじゃねえか」
「はぁ? アタシに責任転嫁するわけ? 読み書き教えろとは言われたけれど送迎までは承ってないわよ。頼まれたって願い下げだわ。子供じゃあるまいし」
「エバンはじゅーぶん子供だぞ!」
「ひとつ下のエリーゼでもあれだけ自立できてるんだから甘ったれたこと言ってんじゃないわよ。護譜団の演習にでも放り込んで鍛えなさい。男のくせに細っこいのよソイツ」
「あ、あの……!」
エバンを挟んで繰り広げられる口論……というか、喧嘩というか。どちらも大の大人のはずなのに、どうしてか子供っぽい雰囲気が漂っている。グラディスが悪いのだろうか。いや、イクシオも口振りは一人前だが仕草や態度が同じ水準まで落ちている気がする。
どっちにしろ、気まずい。
「悪かった? のは俺ですし……え、えと、し、師匠? 助けてくださってありがとうございました」
すごく真面目に頭を下げたはずなのに、後ろから吹き出す音が聞こえた。
「師匠!? なにお前さん師匠なんて呼ばれてんの?」
「ちょっと! そんなわけないでしょ! アンタ急に何言い出すのよ!」
「だって、前に『先生』って呼んだら怖いぐらい嫌そうな顔したから……」
「先生も師匠もどっちもイヤよ! 呼び捨てしろって言ったじゃない! もお……!」
「い、イクシオ先生……ぶふっ」
「いいわこの場で護譜団長の姿焼き作ってあげる」
まばたき半分にも満たない速度で氷点下まで下がった声音が、吹き出した男の眉間に白く細い指を差し向けた。どう考えても直撃は免れない距離だった。
と、いうのにグラディスはそれこそ驚異的な反射神経でもってその場から飛び退いてみせた。俊敏なバッタだった。
ちなみにエバンにはイクシオの指先が光ったことぐらいしか分かっていない。
「っぶねえな馬鹿野郎! 本気で死ぬかと思ったじゃねえか!」
「本気で殺すつもりだったんだから避けんじゃないわよこのボンクラ男!」
「ふざっけんなお前それでも戦友か!? 何度もあぶねえ橋渡ってきた仲か!? 冗談でもやらねえぞ普通!」
「おあいにくさま、アタシは自分が正しいと思ったなら親でもぶん殴る女よ。十年以上つき合ってきてそんなことも分からないの? だからいつまで経ってもガキなのよアンタ」
「お、ま、え、なぁぁぁぁああああ……!」
ひえ、とエバンは胸中で悲鳴を上げるしかなかった。保護者と講師の舌鋒は鎮火のタイミングを失い、どこまでも燃え盛って相手を丸呑みにしようとしている。これでは自分が声をかけたところで聞く耳も持ってくれないだろう。
抜き足差し足でその場から離れ、ソファの背もたれまで退避したところで、
「団長、失礼します。階下の兵士たちから『やかましいぞ』と苦情が――」
「ガルゴさんすみません助けてください」
渡りに船とばかりに現れた副団長へと泣きついたのだった。
直後、天井付近に生み出された大人のひと抱えほどもある巨大な水滴が、グラディスだけめがけて水しぶきをあげたのだった。




