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「そういえばアンタ、ビュライトに喧嘩ふっかけられたとき詠わず煌奏使ったんですって?」
筆を手を止めて、エバンはしばらく何のことかと考え込んだ。
講義の三日目。まだ抵抗と若干の怖さはあるものの一人で来られるようになった王城の書斎で、今日も今日とて文字の書き取りを続けている。そんな、すっかり日常と化してきた中に、ふと投じられた石である。
なんだっけ……と記憶をたぐり寄せ、エバンはようやく顔を上げた。最初に修練場の見学をしたときのことか。
「こうそう? っていうのはよく分からないんですけど、確かビュライトさんも同じことを言ってました。こう……手のひらを出したとき、土の壁みたいなものが」
「それを煌奏って言うのよ。ジェムと煌力を詠で共鳴させて物理現象を引き起こす力。ドブネズミで扱える子がいるとは思ってなかったけど、誰かに教えられたの?」
とイクシオに問われてもさっぱりである。ジェムも煌力もよく分からない。首を捻っていたら「ああ、もう分かったわ」と手を振られた。
「没落貴族が路頭に迷いでもしない限り、そんな相手いるわけないわね。なら……本当に天性のもの、か」
「詠わずに煌奏を? 本当なのか、エバン」
隣で黙々と分厚い本を読みふけっていたエリーゼまで興味深そうに尋ねてくる。そんなにおかしなことをしたのだろうか。とりあえず「みたい、です」と頷いておく。
空色の瞳が丸くなった。本心から驚いているようだ。
「凄いじゃないか……母上ですら詠唱は必須だったというのに。まるでクーのようだな」
似たような言葉をやはり聞いた覚えがある。レウリネス卿のようだ、と……レウリネス、それはまさにつきっきりで読み書きを教わっているこの女性の名前ではなかっただろうか。
イクシオは顎に手を当てて思案している様子だった。切った口火はいつもと変わらない気軽さだったのに、伏せた瞳が妙に真剣な光を帯びている。つい緊張した。
「……まあ、早いうちに自覚を持ってもらうことは大切ね。いいわ。今日の授業は番外編といきましょう。それしまいなさい」
指さされたのは書き取りの教材一式である。戸惑いつつもエバンは言われたとおりに片づけて、机の端に寄せておいた。
イクシオが席を立つ。眠そうに垂れている双眸には、付き合いの短い自分でも分かるほど、はっきりとやる気というものが漲っていた。
「まず大前提として、このスコアランドに存在するあらゆるものには《煌力》という力が備わっているの。有り体に言えば生命力、理解できないなら『目には見えない血液』とでも思いなさい。これが空っぽになるとアタシたちは生きていけない……いえ、存在することができない。分かるわね? 体中の血が無くなったら人間はどうなるでしょう? はいエバン」
「えっ――え、と……死ぬ?」
「正解。《煌力》も同じこと。たとえ本物の血液が充分に巡っていても、逆に煌力が不足していなくとも、どちらかをすっかり失えば全ての生命は死に絶える。これは常識。よく覚えておくこと。死にたくなければね。では次に煌力そのものについて」
小さな部屋の中を気まぐれに歩き回りながら。
どこか雰囲気を切り替えたイクシオの声が降り積もる。
「煌力は主に四つの音色に分けられる。天空の《風》、大地の《木》、太陽の《火》、海の《水》……世界はこの四つで成り立っているという考え方ね。実はもっと細々と分かれていたりするのだけれど、今は基本だけ押さえておけばいいわ。これが世界を満たしているってわけ。そして、普通なら人間には見ることも触れることも、感じることすら容易ではないこの力を、自在に操る術がある。それが、煌奏」
ぱちん、と指が鳴る。
不思議だ。そんなはずはないのに、イクシオの語りに合わせて、飴色の空間に森や大地や広大な湖が浮かびあがっているように錯覚する。
「必要なのは《ジェム》という触媒。自然界の煌力は宝石のように結晶化することがあってね、煌石と呼ぶのだけれど、それを調律加工したもののことよ。人間はジェムの中に秘められた煌力を、特殊な言語と旋律で引き出し、物理的な現象として顕現させる手法を生み出した。そう……こんなふうに」
おもむろに、イクシオが左腕を振るった。
エバンにはかろうじて見えた。ブラウスの奥から、何か、銀灰色の小さな光が手のひらへ転がり出たのを。
「《lay sun ange――Chattnoir》」
そよ風に似たメロディを口ずさむ。そして、握り込んだ光を中空に放り投げる。
ぱき、と。小さな殻が砕ける音を立てて、放たれた光はさらに膨張した。あっという間につむじ風となり、エバンとエリーゼの髪を揺らす。けれど突然の突風に目を細めた直後、光もつむじ風も、夢のように消えてしまっていた。
「今のが……煌奏?」
「そういうこと。子供でも扱える極小の欠片だから効果は一瞬だったけれどね」
「欠片であれだけの風圧を生み出せる者はそうそういない。普通なら微風程度で終わっている」
同じく番外編の講義に耳を傾けていたエリーゼが言う。それから、自分の右手を見せてきた。人差し指を飾る指輪には深い緑色の石がはまっている。
「これは母の形見で、小ぶりだが一級品のジェムだ。ほぼ半永久的に使用できるとお墨付きをもらっている。このように、ジェムに含まれる煌力はひとつひとつに差があり、それを最大限引き出せるかどうかも個人の力量に左右される。ムラがあるんだ、煌奏には」
「そうね。適正ってものもあるし。平均的にはせいぜい使えて二色まで、活性率は七割ってところかしら」
「そして、活性率の点に関して常識外の位置にいるのがこのイクシオ・レウリネスというわけだ。《風》の派生である《雷》を詠唱無しで放ってみせる。ほら、初日にお前の足止めをしたものがあっただろう」
「……あ」
言われて思い出した。焦げ付いたカーペットと何かが弾ける音。無造作に向けられた細い指先。
あれが、イクシオの煌奏。
「で、アンタはそれと似たようなことをビュライトとの仕合いでやってみせたわけ。そこまでは分かった?」
エバンは頷いた。初めて聞く単語や概念ばかりの話だけれど、難しくはない。むしろなんとなく腑に落ちる感覚がある。
目には見えない生命力。この世をあまねく満たすもの。
なら……時々覚える、あの感覚は。
「ジェムも無かったってことは、そこらへんの地面や空気の中で眠っている状態の煌力を使ったってことになるけれど……そんなの、アタシでも滅多にできない芸当よ。相当天気の悪い日に雷雲つっつくぐらい。だから恐らくは才能ってものでしょうけど、本人にその自覚はナシ、と」
教師然とした空気がやわらぎ、いつもの調子でイクシオが嘆息する。呆れているのは見れば分かるが、その中に若干冗談抜きの羨望のようなものが入り交じっていてちょっと怖い。
「その、実はあのあと、また同じことができないかって試してみたんですけど、全然駄目でした」
「そりゃそうよ。できたら困るわよ。偶然にしたって埒外なのにそうホイホイ使われてたまるもんですか。煌奏は単純じゃないの」
口調は普段通りなのに圧が強かった。わりと怒られているらしかった。
「煌力は誰もが持っているものだけれど、だからといってみんながみんな煌奏を扱えるわけじゃない。憧れたって一生奏でられない人もたくさんいる。だからアタシたちは『煌奏士』と呼ばれることに誇りを持っているの。国家資格であるのがその証。選ばれた才能が相応の研鑽を積んで、ようやく勝ち取る到達点」
イクシオの語りには熱がこもっている。それだけで、彼女が煌奏というものとどれだけ真剣に向き合っているのか理解できた。イクシオ・レウリネスの生き様は、煌奏士であることに帰結しているのだ。
「それを踏みにじる行為だったとまでは言わないわ。ただのまぐれだから。けれど、それだけの価値がある行動を自分はしたのだと、よく覚えておきなさい。エバン」
今までで一番真剣な瞳に見据えられる。
「アンタがこの先どういう生き方を選ぶのかは知らない。好きにすればいい。でも、もしその過程で煌奏を学びたいと思ったなら、ちゃんとした学者か現役につくことをオススメするわ。その芽、摘むには惜しいから」
本当に、心の底から案じているような声で。
エバンは頷くことも忘れて、しばらく常緑色の瞳に吸い込まれた。
そんな可能性が自分にあるなんて知らなかった。煌奏も、ドブネズミの頃には一度も使ったことなんてない。
けれど、何か。
世界から、音のようなものが聞こえてくることはあった。
正確な音階でも、旋律でもない。もっと抽象的だったり、あり得ない具体性を持っていたり。光や、色を、音として捉えるような。
例えば……そう、金色の満月。
やっぱり、もう一度会って確かめなければいけないのかもしれない。




