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スカーレッド 序 エヴァン=ジル  作者: 綴羅べに
2.もうひとりの福音
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 その後、居心地の悪さに呻きながらも王女エリーゼの隣へ押し込められ、一時間半の講義を受けた。

 スコアランドで広く使われている共通語の一覧を広げ、基本的な文字から順に口ずさみ、書き写す。頭に染み込ませるつもりで、何度も、何度も。

 ペンも紙も何かを書くことも初めてだったのでまずは線を一本引くだけでも苦労したが、イクシオに「今日はここまでね」と言われる頃にはそこそこ見える状態になっていた。それでもまるでミミズがのたうつような波打ち具合だったけれど。

「ま、要領は悪くないわね。理解もつっかからないで進んでるし。その調子で頑張りなさい。ちゃんと寝る前に復習するのよ」

「はい……ありがとうございました……」

 机に突っ伏したままで答える。頭がぎゅうぎゅうする。思った以上にとても疲れた。

 隣から、とんとん、と教材をまとめる音が伝わる。この時間、エリーゼは黙々と本を読むばかりだった。時々こちらの合間を見計らってイクシオに質問を投げていたが、どういう内容を交わしていたのかはさっぱりである。

「あの……俺、邪魔じゃありませんでしたか?」

「ん? 全く」

「いいのよこの子は。詰めるものはとっくに詰めて、今は噛み砕く時期だから。勉強っていうより、アタシと世間話してるようなもんね」

 しれっとした様子で二人は頷き合う。あんまりにも次元が違った。自分がそこに到達するまであと何年かかるのか。

「じゃあまた明日。同じ時間に、この部屋で。次からはお迎えもエスコートもしないから、自分でここまで来なさい」

 そうして生徒二人よりさっさと支度をまとめたイクシオは、用は済んだもう帰ると言わんばかりにわき目もふらず部屋を出ていってしまった。止める間もなかった。

 さすがに驚いてしばらく呆けてしまう。

「……いつも、ああなんですか? あの人」

 あっさり頷かれてしまった。

「そうだ。王城があまり好きではないらしい。私の乳母役を務めるのも、元は母上に仕える《騎士》だったからと聞いている。住居も裏の奥庭の離れだ……クーがこんなところに留まっているのは、全て母上のためだよ」

 不意に、言葉に寂しさが混じる。

 これには表情を確認するしかなく、エバンは不敬を承知で窺った。

 やっぱり年齢に見合わない、達観した横顔がそこにあった。

「……姫さまの、お母さんは」

「もういない。元々身体が弱く、私を命がけで産んで亡くなった。父上も戦役で殉職したという」

 気づいたときにはもう遅く、なんて無神経なことを訊いたのだと自分を殴りたくなった。

 けれどエリーゼに気にした様子はない。どころかこちらを見返して、苦笑までしてみせた。

「そんな顔をするな。確かに両親を知らず育ったが、そのぶん叔父さまや、クー……母上を慕っていた者たちが大切にしてくれた。だから私はまだここにいる。実は他人が想像しているほど、悲しいとも寂しいとも思っていないんだ」

 最初から知らないから。『肉親』というものがなんなのか。ならば未知のものに対して特別な感慨を抱くこともない。

 それは……それは。

 こんなことを思ってはいけないのだろう。けれどエバンには、どうしても重なった輪郭を引き剥がすことができない。

 親を知らない彼女と、光を知らなかった自分。

 無知ゆえに悲しみも寂しさも感じないという、それは……そんな二人の間には、なんの差異もありはしないんじゃないか。

 恵まれた城の中で生活する王女だってそうなのだ。どう足掻いても手に入れられないものはある。

 そのことに気づいたら、なんだか、最初ほど空色の瞳を見つめるのに抵抗を覚えなくなった。

 身分は明らかに違う。一生をかけても埋められない溝がある。

 けれど彼女個人だけを眺めるならば、何も恐れることはない。王族である前に、ひとりの人間。ドブネズミにすら手をさしのべて、同じ寂しさを抱く、ちょっと変わった女の子。

「エントランスまで送っていこうか。方角さえ見失わなければ出られるとはいえ、その調子では緊張して迷ってしまうだろう」

「えっ、あ、いや! 大丈夫です! ひとりで帰れます!」

 咄嗟にそう答えてしまったが、どうだろう。本当に大丈夫か? と冷静な自分が聞き返してくる。でも言ってしまった手前「やっぱり無理です」とか格好が悪すぎる。

 いい、大丈夫。気合いだ。どうにかなる。赤い絨毯の上さえ歩いていれば問題はない。

「じゃあ、また明日……さよなら!」

 エバンは慌てて椅子から降り、ほとんど逃げるような足取りで部屋の扉に向かった。背中でくすくすと押し殺した笑い声を聞きながら。

 扉を、開けて。

 廊下に出て。


「エリィ――じゃねえっ!」


 何が起こったのか全くさっぱり意味不明だった。

 無茶苦茶な衝撃に横合いから突き飛ばされたと思った直後にはものすごい頭痛がして、背中も痛くて。

 天井を背景に、煉瓦色の強い双眸に見下ろされていた。

 あれ、これどこかで見たことある色……。

「おい誰だテメー。何勝手にエリィの勉強部屋から出てきてンだよ。あ? ぶっ殺すぞ」

「え……え」

 こっちが答える間もなくぶつけられる敵意。自分と同じぐらいの歳だろう少年が放つにはあまりにも殺伐としている。きっとその気になれば本気で殺す。そう、全身が威圧している。

 あんまりにも鋭い眼光に射すくめられて、エバンは指一本も動かせなかった。馬乗りされたまま、怯えた瞳で少年を見返す。しかしその程度で相手がどく気配はない。

 おもむろに手が伸びて、それは首を掴もうとしていて。

 怖気にか細い悲鳴だけ鳴らした。そして。

「よせ、ツァイ! 彼は私の友人だ!」

 びたっ、と。

 少年は、しっぽを掴まれた猫みたいに動きを止めた。

 指先だけが喉に触れていた。なのに呼吸が落ち着かない。息苦しい。

 煉瓦の目が左を向く。エバンもつられて視線を流す。

「エリィ」

「見境無く人を襲うなと言ったはずだ。早く体をどけろ。それ以上の無礼はブルジェオンの名において許さん」

 少年の動きは迅速だった。

 あっという間に圧が消え、エバンは喉を押さえて咳き込む。駆け寄ってきたエリーゼが肩を抱いて起こしてくれた。そっちの方が正直不敬が過ぎて怖かった。

「大丈夫か、エバン。頭を打っただろう。吐き気は? 目眩はないか?」

「う……へいき、です。とりあえず」

 痛いには痛いがそれだけだ。今のところは。

「そうか? ならいいが……おい、そこの駄犬。貴様は木偶の坊か。突っ立ってないで言うことがあるだろう」

 エリーゼの声音の違いに耳を疑う。まるで別人だ。根底にある落ち着きは変わらないものの、温度差が恐ろしく大きい。まるで氷の塊を押し当てているかのよう。

 一方で、先の気迫はどこへやら。少年はすっかり消沈した様子でおろおろ手をさまよわせている。

「え、だって、そこエリィの部屋だし」

「私の部屋ではない。都合がいいから借りているだけだ」

「でも……それでもさ、エリィより先に出てくるとかありえねえべ……」

「どうでもいい。そもそも、もし順番が逆だったなら貴様に押し倒されて頭と背中を強打していたのは私ということになるが、それはいいんだな?」

「そりゃゼッテーねぇから。エリィに怪我させるとかありえねえ。命かけてもいい。誓う」

「誓われても困る」

「えぇーなんでだよー。……つーか、ありえねえってのはエリィの方だろ。なんだよ友人って。オレとジーク以外に友達いないじゃん」

「……よし」

 エリーゼの声音から遂に温度という温度が消え去った。ひとかけらの慈悲もなかった。鼓膜まで痛む気がして、エバンは思わず全身を震わせた。

 その直後、エリーゼが差し向けた指を鳴らす。細指を飾る指輪の台座で、深い緑色の石が煌めいた。

「《lay sun ange――Vitifata》」

 梢のざわめきが、聞こえる。葉擦れの風が吹き抜ける。

 一瞬、この場に鬱蒼と茂る森が現出したように思えて。

「のぉわわわわわわわわわわわ……!」

 どこからともなく現れた太い植物の蔦が、みるみるうちに少年を絡め取ってその場に宙吊りにした。エバンはただぽかんとその様子を眺めていた。

「うえー……エリィ、なンでそんな怒ってんだよォ……」

「自分でわけも分かっていないうちは教えても無駄だろうから言わない。そのまま頭に血がのぼって死ね」

「んんー、エリィに殺されるんなら本望だなァ」

 腕も脚もぐるぐる巻きで逆さ吊りにされているというのに、少年は切羽詰まるどころか馴れた様子で左右に揺れる。さすがにエリーゼも表情をひきつらせた。エバンも内心では同じ気持ちだった。

 やがて少年が突っ込んできた方向から別の足音が聞こえてきた。こちらの方がよほど慌てているようで、ぱたぱたカーペットを蹴り立てながら近づいてくる。

「姫さま、ご無事ですか!?」

「げっ、姉貴……!」

 あれ、と思った。聞き覚えのある声だった。

 そんなエバンの直感通り、宙吊り少年の向こうから現れたのはつい先日知り合ったばかりの顔だった。

「あ、ビュライトさん」

「エバン? お前、どうしてここに?」

 煉瓦の瞳が丸くなる。それで思い出した。少年の顔を見たときに覚えた既視感はビュライトのものだったのだ。

 ということは、つまり。

「……すまない。その様子では愚弟が迷惑をかけたのはお前の方のようだな」

「あ、いえ、それほどでは……」

「いや、ビュライトの言うとおりだ。こういう時は素直に認めた方がいい。あの駄犬の躾にもなる」

「ええっと……」

 いくらなんでもその物言いはどうなんだろう。と思えども、反論したところでさらに言い含められる気がして、エバンは戸惑い気味に口をつぐんだ。

 それから、宙吊り少年ツァイの苦い顔を傍で眺めているもう一人に目を向ける。服装も髪も、かけた眼鏡の奥に隠れる感情の読めない瞳も真っ黒な。ビュライトと一緒に来た彼もやはり自分やエリーゼと同い年に見えるが、あまりにも特徴のない佇まいが感覚を狂わせる。

「相変わらず懲りないな、おまえ」

「しっかたねェーよ。オレ、エリィ大好きだし。いるって分かったらすっ飛んでくのはジョーシキってやつ」

「おまえの常識はおれたちにとっての非常識なんだが」

 ふう、と息をついた顔がふとこちらを向く。

 何故か背筋が寒気に震えた。

 黒々と色の亡い瞳。目に見える色彩の問題じゃない。ドブネズミでも消えゆく煙程度は持っているはずの、何かを思い、考える、そんな気配が微塵もないのだ。

 たとえるならば、無味無臭。

 けれど、人間の印象にそんなものを当てはめていいのだろうか……。

「姫さま、あとのことは私が承ります。どうぞお部屋にお戻りください」

「ああ、そうさせてもらう。今日は少し予定が詰まっているのでな」

 ビュライトの申し出に、エリーゼが再び指を振る。するとツァイを吊っていた蔦がしゅるしゅると、幻みたいに姿を消した。

 もちろんなんの支えもないツァイは頭から床に落っこちた。

「んぎゃっ!」

「首の骨が折れたか? なに、折れていない? それは実に残念だ。興が冷めた。失礼する。……では、エバン、また明日」

 最後はこちらだけに聞こえるよう囁いて、エリーゼは颯爽と廊下の向こうに去っていった。

 なんとなくぼんやりとその背中を見つめて、いい加減に立ち上がる。特に目眩も、気分の悪さもない。打った痛みがじんじん残っているだけだ。

 頭を抱えてうずくまっているツァイの目の前、腰に手を当て仁王立ちしているビュライトが肩越しに振り返って言った。

「エバンも、何か用があったんじゃないのか? ここは私が受け持つから、行ってくれて構わないぞ」

「あー……」

 その用事はもう終わってしまったあとなんだけれど。

 とはいえここに留まるのも場違いだという自覚はあるので、エバンは素直に頭を下げた。

「分かりました。では」

「うん、また夕方にでも食堂で。もし体調が悪化するようなことがあればすぐに教えてくれ。シメておく」

 誰を、というのは聞かない方がいいだろう。

 やけに底冷えする笑みのビュライトにエバンも口角をひきつらせ、踵を返す。

 黒いくろい視線から逃げるように、脚は駆け気味にカーペットを辿った。

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