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あのあとエバンは、結局日が傾いてグラディスが帰ってくるまで、東の修練場の隅にぽつんと座っていた。部屋に戻ったところでやることもないし、一人きりで屯所を歩き回るのも少し怖かったのだ。ビュライトの他に子供の姿は見かけなかったけれど、またいつどこで同じような勘違いを起こされるとも限らない。だったら、事情を知っている大人の近くに居た方が安心できた。
見学、という見学ができたかどうかは、分からない。眺めてはいたが自分でもどこかぼんやりしている自覚があって、本当に、ただ見ているだけという感じ。
備品整備を言いつけられていたビュライトは、正午の鐘が鳴った瞬間またあの鋭い猫の目をして芝の上に飛び出していった。昼食をとらない大人を手当たり次第に捕まえては剣を交えるその姿から、エバンは無意識に目を逸らしていた。
胸の奥が変わらず苦い。
人間にはなれない沼底のドブネズミであることを自覚するたびに覚えた、あのどうしようもない不快感よりも重たい、何か。
帰還したグラディスの姿を見るまでその息苦しさは続いて、今もまだ、すっきりとしないまま。
「グラディス、これ」
大浴場から戻ってきた彼に紙片を渡す。頭にかけたタオルの奥で、赤茶の瞳がきょとんとする。
「俺、文字読めない」
「……おおっ!? 言われてみりゃそうだ!」
本当にまるっきり失念していたらしい。レーダンの言うとおりだったとエバンは苦笑した。
「いやぁ悪かった。ほんとすまん。あちゃあ……」
「いいよ。護譜団の人に読んでもらったから、今日は大丈夫だった」
威勢のいい女の子に絡まれた上ぶっ飛ばされた、とは言わないでおいた。たぶんそのうち話が回ってくるだろうけれど。
グラディスが乱雑に髪を拭う。跳ねた水滴が紙片についてインクを滲ませた。
「んー……でもなぁ、どうにかしないとな。書き置きで状況を伝えられないってのはちょっと困るし。かといって俺今日からしばらく巡回だし…………あ」
むぐむぐなにやら呟いていた口が、ぽかん、と開く。それから器用に指を鳴らしてこっちを見た。
「いるわ、適任。しかも一番信用できる奴」
そう言われて咄嗟に思い浮かんだのはあの国王陛下の顔だけれど……さすがにそれは無いだろう。いくらなんでも不敬がすぎるし、いちドブネズミの面倒を見ていられるほど暇なわけがない。とすれば護譜団の誰かなのだろうか。
「この時間なら城下の菓子屋でも覗いてんな……よし、ちょっくら話つけてくるわ」
「えっ、今?」
「おう。早いに越したことねえだろ? お前もそろそろ退屈してきた頃だろうし……まあ遅かれ早かれ顔は合わせる相手だ。ちょうどいい」
「退屈、は、してないけど」
エバンの戸惑い気味の言葉も気にせず、グラディスはものすごい勢いで髪の水気を拭き取ると、部屋着の上に外套だけ引っかけてすっかり外出の準備を整えてしまった。止める間もなかった。まるで木枯らしみたいに。
「おみやげ買ってきてやるから、待ってな」
との言葉を置いて、手を振り去る背中。
ぱたん、と。扉の閉まった音がやけに虚しく耳を打つ。
置いてけぼりのエバンはしばらく突っ立ったままでいたが、やがて諦めきった足取りでソファに向かい腰を下ろした。
ふっかふかの座面に埋もれる。現在はグラディスの寝床と化しているそこは確かに気持ちがいい。ベッドとはまた違う安心感と温もりがある。
……そう思ったら、みるみるうちに瞼が重くなってきて。
色んなことを考えたり思ったりしている頭と心も、深いまどろみにエバンを引きずり込んでいき。
ふっつり、意識が途切れた。




