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スカーレッド 序 エヴァン=ジル  作者: 綴羅べに
2.もうひとりの福音
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 ひとつめの階段を下り、コの字の突き当たりまで引き返してふたつめの階段を下りる。上下階段を一カ所に集めない構造は、どうやら敵の襲撃があった場合の防壁の役割を想定しているらしい。わざとバラバラに配置することで一息に攻め入られないため、とか。

 地続きの回廊から見る修練場の気合いはまた別格だった。男たちの雄叫び、鉄と鉄がぶつかり合う衝撃、空気を切り裂く鋭さが、びりびりと肌を震わせる。正直あんまりにも熱がこもっているものだからエバンは階段を下りきったところでしばし圧倒されていた。

「……ん。おおー! 団長の息子!」

 それでもって急に大声で呼ばれたもんだから思いっきり肩が跳ねてそのまま全速力で駆け戻るところだった。

 一歩引いた左脚をどうにかその場に縫い止める。見れば、修練場で打ち合っていた一人がぶんぶん手を振りながらこっちに近づいてきていた。昨夜自分を質問攻めにした集団の中にもいた顔だと思う。

「おはようさん。今日はひとりか?」

「あ、え、おはよう、ございます。……えっと、そんな感じで。その、これが部屋に置いてあったんですけど」

 ちょうどいい。向こうから声をかけてきたなら訊いてしまえ。

 勢いで差し出した紙片を男が受け取る。屈んだ拍子に頬骨をかするおかっぱ髪は、見た目なんか一切考慮していないし気にもかけてないと言わんばかりにばっさり真一文字に揃っている。声の大きさと態度と、まるで噛み合わない。けれどちぐはぐなくせに不思議と気味悪さは感じない。

「俺、文字が読めないんです。なんて書いてあるのか、分かりますか?」

「あー……うん、なるほど。団長そういうとこあるんだよな。オレたちにゃ『気ぃ遣ってやってくれ』とか根回しするくせに肝心の自分が忘れてやんの。あれでも結構色んなこと考えてて、流れちゃうんだろうな。ま、帰ってきたら念押ししときな。一回しっかり伝えりゃ覚えててくれるからよ」

「は、はい。……で、内容は……」

「ああ、『今日は一日、城下町の巡回だから傍にいてやれない』ってさ。朝から出てるなら日が暮れる頃には戻ってくると思うぞ。ほい」

「そう、ですか。ありがとうございます」

 戻ってきた紙片にぼうと視線を落とす。黒いインクの滲む先に、あの夜の光景が浮かび上がった気がした。

 思えばまだひと月も経っていない。なのに随分と過去の出来事のように思える。ドブネズミのまま白いシーツの上で過ごした二週間の記憶はこんなにも稀薄なのに、その翌日から――【エバン】になってからのたった一日が、どこまでも長い道のりを歩いてきたみたいに自分の中に根付いている。

 まだまだ醒めない夢の中に迷い込んでいるのだと疑る瞬間はあるけれど。

 胸にしっかりと積み重なるこの重みが、夢などという儚いものであるはずがない。

 ……背負いきれるだろうか。

 身軽さが取り柄の七年間を過ごした、俺に。

「……なあ、ってことはオマエさん、今日は一日ヒマなんだ?」

「……へっ?」

 一瞬、声をかけられていることに気づけなかった。相手は既に修練場へ戻っているものだと思っていたから。

 まばたきしつつ見上げれば、髪型のせいで幼く見える顔がにかっと笑う。グラディスよりは年上そうだけれど。

「んじゃあさ、護譜団の見学してったらどうだ? 今度のこと何も決めてないんだろ? 昨日の飲みか……いや、宴会でも迷ってるみたいだったし、実際見てみるのが一番だと思うんだ」

 なんて言って、親指で自分の後ろを指し示す。剣戟と雄叫びが入り交じる、芝の上。

 エバンも男越しにそっちを見た。昨日は子供ばかりだったけれど、今日はほとんど大柄な兵士たちがひしめいている。

 確かに、返答には迷った。戸惑った、という方が正しいだろうか。その瞬間生き残ることだけを考えてきたエバンには明日の予定を立てることさえ馴染みが薄く、実感もわかない。だから「これから」を問われたところで、返す言葉を見つけられない。

 ああ、その一点に関しては、ドブネズミの方が気楽だったろう。常に明日を、明後日を、未来のことを考えながら生きてゆかなければならない煩雑さに比べたら、一瞬に燃えるだけの火はとても単純で身軽だと思う。

 けれど、それが「明日」を保証された人間の背負うべき責務だというのなら。自分も、逃げるわけにはいかないのだ。

 手がかりがあるのなら、掴むまで。

 そうやって【エバン】は成長するのだと、最初に決めた。

 男の顔をまっすぐ見返し、会釈する。

「お願いします。邪魔にならないなら」

「邪魔なんて思わんよ。ただこっちから流れ弾が飛んでく可能性があるから、そこは気をつけてくれ」

 踵を返す背中について、回廊の柱の間から芝の上に出る。案内されたのは、大通りに沿って柵のように設けられた生け垣の、角っこに設置されたベンチだった。

「ここなら滅多なことでもない限り土塊以外はひっ被らなくて済むと思う。連中にも話しとくから、好きなだけ見て、なんか訊きたいこととかあったら遠慮なく声かけろよ」

「はい」

「レーダン! 次おれと手合わせだぞー!」

「あいよ! 今いく!」

 呼び声に快活な調子で答え、男(レーダンという名前らしい)は「じゃ」と手を挙げて行ってしまった。

 その道のりにすれ違う兵士たちに逐一声をかけ、こっちを示す。すると彼らもこちらに視線を投げて頷く。中には笑顔を向けたり、軽く剣を上げてくれる人もいた。どう反応すればいいのか分からなくてぎこちなく見返すばかりだったけれど、誰も不愉快そうな素振りは見せなかった。

 つくづく、ここがあの華の王都エヴァンジルの中核だとは信じられなくなってくる。

 国に仕えている人間なんて、頭が固くてふてぶてしくて、自分たちが立つ地面よりさらに下で必死に生きている命があることなんか、知っていて知らないふりをするろくでなしばかりだと思っていた。実際、まれに沼底に顔を出す身なりのいい兵士たちはみんなそうだった。こっちを人だと思っていない。使い捨てのおもちゃか何かと同じ扱い。あるいは、掃き溜めの汚らしさに目をつむる。その汚泥を土台として王都が成り立っていることなんか知りもしないで。

 昨日グラディスから話を聞いた「西側」の人間はその気配が濃い。エバンもこの目で見てじかに触れたから分かる。あの変態貴族と同じ。弱者をいたぶる強者の驕り。

 ……でも、こっちは。

 全然違う。東と西、たった一本の通りで区切られているだけなのに、流れる空気の質さえ正反対。どこかのおとぎ話に出てきた魔法のように、何か見えない壁が両者を隔てているんじゃないかと思うほど。

 なんて気さくで、陽気で、優しいひとたちなんだろう。

 王城という高貴な場には似つかわしくない。だからここはちぐはぐとしていて、歪んでて、存在の実感さえぶよぶよとはっきりしない。

 夢見心地から抜け出せない。

 それは自分が、まだこの場所にいることを心から受け入れられていないせいもあるのだろうか。

 一日二日で全てを理解できるとは思っていない。ぽんと飛び込んだ元ドブネズミが人間に囲まれて疎外感を覚えていないだけでも不思議なぐらいなのだ。さらに馴染んでゆくとなれば一体どれだけの時間がかかるのか。

 グラディスは急かさない。そんな彼の様子を汲んで、他の兵士たちもあまりせっつくようなことはしてこない。

 自分もそれで良かったはずだ。そもそも受け入れられるのだってもっと難しいことだと覚悟していたのだから。

 なのに、心の片隅が焦っている。

 応えなきゃ、いけないんじゃないかって。

 こんなにも優しくしてくれたひとたちに、何かを返さなきゃいけないんじゃないかって。

 人から盗むばかりのドブネズミに差し出せるものなんて無いかもしれないけれど――

「おい、おまえ」

「…………えっ」

 声は聞こえていた。やけに近くで聞こえるな、と。けれどそれが自分の方に向けて放たれたものだとは露にも思わなかった。

 視界を陰らせる暗がりに、はっと顔を上向ける。

 煉瓦色の強い瞳が、まっすぐエバンを見つめていた。

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