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追いかけていいのだろうか。
あれは自分なんかが……いや、この城に自由に出入りできるような身分の人間でも、不用意に触れてはいけない存在なんじゃないか。
見なかったことにして、静かに部屋へ戻るのがいい。
そう、思いながら。
エバンの脚は階段がある回廊の突き当たり……ではなく、東の修練場を横切る進路を取った。
金色の光は、東と西を分断する大通りを城の方へとゆっくり向かっている。すぐに見失うことはなさそうだが、それでも緊張に胸が高鳴った。
不必要に焦る。なんでもない芝の絡まりにつま先を引っかけて転びそうになる。飛び出しかけた悲鳴を咄嗟に押し殺しながら、足音もなるべく抑えて、生け垣の隙間に体をねじ込む。
ほとんどもつれる形で石畳の上に出た。木の枝が大きくたわんだ音にさぁっと血の気が引いたが、見咎める視線はどこにもない。
しばらく膝をついて、エバンは呼吸を整えた。うるさく脈打ちっぱなしの胸を押さえつける。
こんなにも落ち着かないことなんかドブネズミの頃にも無かった。誰にも見つからず食べ物を盗む逼迫感はもちろんあったけれど、そこまで深刻に捉えていなかったのかもしれない。捕まって殺されたらそれはそれでしょうがない。沼底に生きるとはそういうこと。
だから、今はとても苦しくて、怖くて。
それ以上に、たとえ死んでも、あの光の正体を確かめたい。
ちら、と青い葉の隙間から食堂の様子を窺った。男たちが出てくる気配はない。誰も、エバンの行動に気づいていない。
視線を戻す。夜の闇に描かれる金の軌跡は、大通りを左に逸れて下草を踏んでいる。
ひとつ大きく深呼吸してから、エバンは追跡を再開した。
秋の夜更けはまだ夏夜の藍色を薄く引いていて。
澄んだ空気に星々が煌めきの冴えを取り戻しながら。
吹く風に混じる、やがて訪れる冬の気配。
ゆっくりと歩きながら、時折星を見上げながら、ゆるやかな丘を越えた先に小さな池が現れた。ぽっかりと空いたその場所は、夜の静けさがそう思わせるのか、まるで世界から取り残された最後の水源のように見えた。
ここが王城の敷地であることすら忘れてしまう。
素朴で、ちっぽけで、見向きもされない。
けれど湛えた水は綺麗なまま、月と星の光を跳ね返して、とぽん、と輝いている。魚か、虫か、何かが棲みついているらしい。
そのほとりに、彼は佇んでいた。
相変わらず綺麗な金髪を横顔に流しながら。
ゆらゆら、誘蛾灯に引かれるように、エバンは丘の傾斜を下る。あんなにうるさかった心臓が今はまるっきり正反対に黙りこくっている。緊張も、焦りも、すっと消えてしまった。
瞳に映るのは、地上に降りた満月だけ。
近づくごとに、体が軽くなってゆく。
そうしてすっかり、互いが腕を伸ばせば触れられてしまうほど距離を詰めたところで。
「静かなものを見つめるのが好きでね。特にここは、俺のお気に入りなんだ」
その声は、確かに、
死にかけていたドブネズミを世界に繋ぎ止めた、あの音とおんなじ。
「城の裏庭にも水場付きの庭園はあるんだが、あそこは飾り過ぎていて落ち着かない。裏手の湖も悪くはないけれど、今の時間では部屋から眺めるしかない。やっぱり外の風を感じながらでないと、ね」
やわらかく笑む気配。
銀鼠色のケープを揺らし、その顔がエバンを向く。
……ああ、間違ってなかった。
あの日、あのとき、出逢った瞳。
蒼いあおい、天空の瞳だ。
呆然とするエバンの前で、彼はあろうことか自ら膝を折った。汚れも構わず土にひざまづき、視線を合わせて、言う。
「初めまして。俺はジヴォルニア。ジヴォルニア・アルモニコス・ブルジェオン。この国の王を務めている。……きみの名前を、教えてほしい」
夢のような、幻のような。
けれどきっと、今までで一番大切な瞬間。
「……エバン。エバン・レーヴェ」




