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スカーレッド 序 エヴァン=ジル  作者: 綴羅べに
2.もうひとりの福音
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 エバンくん歓迎会!

 などと実に男らしい力強さのある筆文字で書かれた垂れ幕はとっくに右上のピンが落っこちていて、なんだか気の抜けた様子で壁に引っかかっている。長テーブルの上に所狭しと並べられた大皿の中身も大半は食い尽くされたあとで、今は麦酒やらワインやらを注いだグラスに占拠されていた。

 護譜団東屯所、一階の大食堂である。

 誰が言い出したのかは知らないが「どうせ休息日ならたらふくメシ食って酒飲んで大騒ぎするのもアリっすよね団長!」などという発言に背びれ尾びれがつきまくった結果、いつの間にかエバンはその宴会の主役に引き抜かれていた。噂によれば、国王の生誕祝賀祭でもないのに食糧庫を空にできるかと厨房の料理婦から苦言を呈され、そのカウンターとして理由のでっちあげに使われたらしい。一応理屈は通っているが、その程度でこんな大盤振る舞いをしてしまって本当にいいのだろうか。国王と自分じゃあまりにも身分に差がありすぎる。

 けれどグラディスは全く変わらず「お、いいじゃんそれ」とめちゃくちゃに乗り気で食堂の飾り付けにまで繰り出した。あんまりにも目まぐるしい展開についていけてない当のエバンをほったらかして。

 そんな飾りも垂れ幕同様、既にあっちこっちの床に散乱している。手作り感溢れる不格好さからなんとなく察しはついていたけれど、兵士を名乗るだけあってこういう装飾を得意とする者は誰ひとりいなかったようだ。

 子供用のリンゴの果実水をちびちび飲みながら、エバンはほっと息をつく。質問責めから解放され、ようやく落ち着いたところだ。先ほどまで興味津々で自分を取り巻いていた男たちは食堂内の好き勝手な場所に散って、思い思いに酒を楽しんでいる。

 壁の大時計を確認したら、宴会の開始から早くも二時間が経過していた。

「えーばん。隣座るぞー」

「グラディス……あ、ガルゴさんは?」

 さっきから密かに気にしていたことを訊く。どれだけ眺め回してもあの副団長の姿が見えない。

 グラディスは頬杖をついて、んー、と唸った。顔は赤いし酒の匂いもかなり漂わせているが、下手に酔っぱらった様子ではない。強いのだろうか。

「あいつは来れないんじゃないかなぁ。昼間の後始末と指導、任せちまったし、一応西の人間だからな」

 また、東と西の話。

 修練場の一件でかなりの不仲なのだということは理解した。けれどどちらも同じ《護譜団》という組織に所属しているはずだ。沼底のドブネズミたちも基本的には自己優先で馴れ合わない性質だったけれど、それとこれとは根本的に話が違う。

 こんな賑やかな場所で尋ねるべきことではないかもしれない。

 でも、むしろ今のうちに知っておいた方がいいんじゃないかとも思う。ただの直感だけど。

 エバンはグラスを置いて、膝の上に両手を乗せた。

「ねえ、訊いてもいい?」

「ん? なんだ?」

「東と西って……何が違うの? あと、ブルズ、とか、ウルズとか、言ってたけど」

 少しの、沈黙。

 周りの喧噪が遠くなる。

 グラディスは唇をへの字に曲げていた。おもむろに残った麦酒をあおって飲み干し、エバンのグラスに並べて置く。

「……まあ、話しといた方がいいだろうな。ああいう因縁つけてくるのもいるし。俺の養子って公言したからにはなおさらか」

 エバンは内心で胸をなで下ろした。不機嫌そうな顔をするからやっぱりやめておいた方がよかったかと後悔したところだった。

「簡単に言えばさ、本家と分家の小競り合いだよ」

「本……家?」

「んーと……親戚だ、親戚。例えばお前の兄弟……姉ちゃんいたんだっけ? その子が他の男の嫁さんになったら、その嫁いだ先の家とお前んとこは家族みたいなもんになる……本当だったらな。ブルズとウルズってのはそういう関係なんだ」

 姉さん。

 どこかへ買われてしまったあの人も、人間だったなら。

「ブルズ……ブルジェオン王家と、その分家のウラハルス家。女神さまに地上の統治を任されてからは仲良く手を取り合ってやってきたらしいんだが、段々とウラハルスの方が王位の継承権を欲しがってな。今じゃ犬猿の仲だ」

「王さまに、なりたい……ってこと?」

「まあそういうこった。『分家のウラハルスにも王の血は流れているのだから継承権を保持するのは当然だ』とか言ってる。その辺りの事情は俺にもよく分からん。興味もあんまない」

 グラディスらしい物言いに少し笑ってしまった。できることなら関わり合いになりたくないけれど立場上しょうがないと顔に書いてある。

 そんなエバンの様子に、グラディスもふと表情を和らげた。

「お偉いさん方ってのはどいつもこいつもそんなもんさ。利権欲しさに難癖つける小手先にばかりご執心でな。んで、護譜団も国に運営されている以上、その七面倒な権力抗争に巻き込まれてるってこと」

 小休止とばかりに、ひょい、と目前の皿に取り残されていた揚げ物をひとつ口に放り込む。確か若鶏の唐揚げだったと思う。

「冷めてもうめえなこれ……エバン、ちゃんと食ったか?」

「食べた。おいしかった」

「そか。そいつはなによりだ。うちのおばちゃんの料理は贔屓目無しにめっちゃ旨いから、ついうっかり食べ過ぎるとあっという間に太るぞ。……そうだ、お前も護譜団の演習やってみる? 運動がてら」

「それは……ちょっと、考えとく」

 当たり障りなく、曖昧に言葉を濁した。宴会中、他の兵士たちにも何度か訊かれた質問だ。護譜団に入るのか、と。

 それはまだ分からない。明確な答えを出せるところまで、自分は安定していない。生きることは少しずつ受け入れられているけれど、その先に何かしたいことはあるのか、探すのはもうしばらくあとの話になるだろう。

 グラディスは直前と同じ気楽さで「そっか」と頷いた。特に無理強いすることも、落胆することもない。暗い道を照らしてくれてはいるけれど、どこへ向かうのかは自分で決めろと言っている。

 だからエバンは、何も気負わずここにいる。

「で、話戻すけど。ブルズとウルズにはもうひとつ反発してる原因があってな、まあここまでの流れで察しはつくと思うが、身分を重視するかどうかって話。ウルズは典型的な貴族主義で血筋を最優先。ブルズは身分差に固執せず個人の能力や適正を重んじる。ここでまた意見が真っ二つに分かれて、そのとばっちりでいろんな機関まで二分されちまったってわけだ」

「だから、東と、西」

「そういうこと。東がブルズ、西がウルズ。元はここの屯所だってひとまとまりで、そんな風に分かれちゃいなかったんだ。でも先にウルズ派の人間が文句を言い出した。平民と同じ食卓で飯が食えるか、とか。露骨な嫌がらせまで始まった。そしたらブルズも堪忍袋の尾が切れて、しょっちゅう衝突するようになった。国を守んなきゃいけない俺たちが、自分たちの都合で身内と殴り合いしてるなんざ、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるだろ。だから、分けたんだ」

 そう語るグラディスは、心底呆れているようで。

 遠い瞳が、壁で遮られた西側をじっと見通した。

「護譜団だけじゃない。今の王城には水と油が詰まってる。いつまで経っても混ざり合わなくて、反発したまま……ガルゴみたいに、ウルズの身内でも中立になって動いてくれる奴もいるけど、全然駄目だ。あっちは特に派閥意識が強すぎる。対話の隙もない。だからどこにいても寝首を掻かれないよう気をつけなきゃならないって、ジルが悲しそうに言ってた。自分の国で、自分の城で、敵の刃を恐れるなんてな……ほんっと、貴族なんてもんはろくでなしばかりだ」

 どこを、見ているのだろう。

 とっくに西の屯所なんか通り越して、赤褐色の瞳は別の場所を映している。……いや、もしかしたら、今という時さえ飛び越えて。

 けれど、不意に、現実に戻ってきた。

 確かにここに在る大きな手で、グラディスはエバンの頭を荒く撫でた。

「面白くもなんともない話しちまったな。まあここには二種類の人間がいるってことだけ覚えとけばいい。ひとまず信用できるのはブルズの人間だが、モノによっちゃ面倒だから、うまい具合にかわせ。得意だろ、そういうの」

 思い出すのは、必死で暗がりをかけずり回ったドブネズミの日々。その頃の思い出や経験まで棄ててしまうことはないのだとグラディスは言っている。

 不思議なひとだ。本当に。

 これもまたブルズとウルズの違いなのだろうか。

 東側の屯所にいることや昼間の様子からして、きっとグラディスもブルズ派の人間で間違いない。どちらかと言えば中立的であろうとしているけれど、それは彼の肩にかかる役職がそうさせているようにみえる。

 ――貴族なんてもんはろくでなしばかりだ。

 つい今しがた吐き出された言葉が、なんとなく耳に残ったまま。

 時計を確認したグラディスに背中を叩かれた。

「いい時間だな。疲れたろ? 先に部屋戻って寝てろ」

「あ、うん。でも片づけ」

「そんなもんオトナに任せろって。そもそもやり出したのは俺たちなんだし。子供は就寝。ほれ、行け」

 半ば強引に席から立たされ、エバンは戸惑いつつも背中を向けた。実はもう結構な眠気に襲われている。初めて経験するものがたくさんあって、頭も体も、心も疲れ切っていた。

「エバン、おやすみ」

「……おやすみ、グラディス」

 かかった声に振り返って返事をして、エバンは食堂の出口に向かう。念のため、厨房にも顔を出して挨拶をしておいた。酔い潰れた兵士たちはうっかり足を踏んでもまるで起きる気配がなかったので声をかけずそっとしておいた。

 酒気と人肌の充満した場所から、夜風の通り抜ける回廊へ。

 思ったより冷たい空気にふるりと肩を震わせて――エバンは、

 生け垣の向こうに、金色の満月を見つけた。

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