桐原伊吹は、貴方を完膚なきまでに叩きのめす
「……無駄だ。気付いている」
衝突する寸前に、男は伊吹の拘束をあっさりと解き、自ら飛び退いた。
勢いもつけずに跳んだというのに、実に十メートル以上も離れた位置に着地する。
「伊吹ちゃん!」
空振りをして伊吹の横に頭から倒れこんだ形になった人物から、豪雨にも勝る元気な声が聞こえた。
柚美だ。
濡れた髪が肌にへばりつき、トレードマークのショートカットは見る影もないが、見間違えるはずがない。
「伊吹ちゃん、大丈夫? 立てる?」
「正直に言って限界よ……」
柚美が起き上がり、手を差し伸べてきた。
握った手から熱が伝わってくる。
立ち上がった直後によろめいたが、柚美が横から支えてくれた。
伊吹は柚美を抱き寄せると耳元に囁く。
「何でひとりで逃げちゃうのよ、馬鹿」
「ち、違うよ……。
これ取りに行ってたら伊吹ちゃん、居なくなってるんだもん」
柚美が手にしていたのは、道場の給湯室から持ち出したであろう包丁だ。
桐原道場では栄養補給のために羊羹を出すのが慣例だし、夏にはスイカを切って出すこともある。
門下生ではないが、稽古に来たことのある柚美が包丁の位置を知っていたとしても不思議はない。
「それを持ってくる発想が恐怖よ」
呆れ笑いをしようとしたが、柚美がひとりで逃げたわけじゃないと知り、頬が緩むのを堪え切れなかった。
「ママ……」
下から袖を引く力を感じたので見下ろすと、アイが起き上がっていた。
眼が合うとアイはにっこりと笑って太ももに抱きついてくる。
暖かいものに挟まれると、濡れて冷えきっていた身体の震えが治まった。
「アイさん、ありがとう。私は大丈夫よ。突き飛ばしてごめんね」
「状況は何も変わっていないぞ。アイーシャを渡せ」
「うるさい! 黙れ!」
豪雨を切り裂く伊吹の恫喝。
目を丸くした柚美の頭を捕まえ、頭突きのように額をくっ付ける。
触れあった鼻先を伝い、雨水が伊吹から柚美へと流れていく。
「柚美さん、いきなりだけど
私、今、思春期らしく『自分は何者か』という問題に直面しているの。
率直な印象を聞かせて。貴方の知っている、桐原伊吹はどういう人」
喋るたびに濡れた鼻先が滑り、顔がさらに接近する。
唇が触れそうになる。
いや、上唇なら何度も触れ合い、弾力を交換し合う。
灰色に染まった林の中で、柚美が真っ赤な顔をする。
「強くて格好良い!」
交じり合う息が燃えるように熱い。
伊吹は体内の奥に秘めたものを晒し、体温を交換するように続ける。
「そう。桐原伊吹は強いわ。
なら、目の前に大蛇がいる状況で、小さい子が誘拐されそうになっていたら、
何をすべき」
「戦う。
もし私がピンチだったら、絶対に戦ってくれる。
私は嫉妬するけど、アイちゃんを護るために戦う伊吹ちゃんも、格好良いと思う」
「ええ。桐原伊吹は、戦うわ」
背に活を入れ、勢いよく男に向き直る。
「待たせたわね。結論が出たわ。
桐原伊吹は、貴方を完膚なきまでに叩きのめす」
「イカれた女だな。俺を見て抵抗する気になるとは……」
「貴方みたいな非常識な存在に言われたくないわ」
「これを避けたら、お前の隣にいる女の上半身が無くなるぞ」
男が顎で大蛇を示す。
「覚悟の上よ!」
「それ酷い!」
背後で柚美が喚いたようだが、無視する。
「アイさん。来て」
だっこを期待したらしく両手をあげたアイの、頭を撫でてから抱き上げる。
「出会ったばかりだけど、桐原伊吹は貴方のこと、好きよ」
「アイもママ、大好き」
「どれくらい?」
伊吹が笑いかけると、アイは両腕をめいっぱいに広げて「とっても、とっても、大好き」と笑った。
「ありがとう」
零した微笑みと同時に周囲が輝き始める。
金色に変化した髪は雨天の底にあっても、陽を浴びたような色合いを魅せた。
「柚美さん。アイさんを抱っこしてて。
そうすれば蛇は襲ってこないから。
イレーヌは関係ないわ。
私が桐原伊吹として、アイさんを護る。そう決めたから、戦えるわ」
伊吹は柚美にアイを押しつける。
名残惜しそうにアイが伊吹の金髪に手を突っ込んでくる。
「行く」
無策だったが伊吹は男へ向かい、強く歩きだす。
妙なことに、伊吹が距離を縮めていくというのに、男は棒立ちしたまま、身動き一つしない。
右腕の大蛇は抜け殻のように路地に横たわっているだけだ。
無手だが、一足一刀の間合いに到達した。
気迫で相手を呑もうと睨み付けると、意外なものを見た。
「イ……」
男は動揺しきっていた。目を見開き、顎が脱力している。
隙だらけだった。
あまりにも隙しか無いので、反撃で攻撃する合気道の技を出せない。
だらしなく突っ立っているだけの相手に対して、伊吹は攻撃手段が無くて戸惑うほどだ。
仕方なく、垂れたままの左腕を取り肘関節をねじり上げてみた。
男は完全にふぬけており、なすがままだった。
「あぎいっ」
男の肩が跳ね上がった。
伊吹がわざと左腕を離すと、その腕をそのまま横に薙ぎ払ってきた。
背筋が伸びきった男の腕を再び取り、軽く捻ってやる。
男が宙に浮き、すり鉢を割ったような鈍い音が響いた。
大蛇を地上に残したまま男が回転したため、肩関節が外れたのだろう。
次の瞬間、男は顔から水面に突っ込んだ。
「関節、あるの?」
予期せずに勝機が見えた。
もし大蛇の右腕と人間の胴体との間に関節があるのなら、そこを破壊すれば大蛇は動かなくなるかもしれない。
伊吹の足下では、男がうつ伏せに倒れて水面に没している。
背後から右肩を踏みつけ、関節を破壊すれば、無力化出来るのではないだろうか。
だが、あげようとした足が動かない。
蛇をぶつけられたし蹴られたし、やり返すだけの理由は十分にあったが、背後からの攻撃に抵抗がある。
「立ちなさいよ!」
「ぐっ!」
どういう理屈か、大蛇は水中に沈んだまま二度と姿を現すことなく、男の右腕は人間の形になっていた。
レインコートが裂け、むき出しになった腕で口元をぬぐいながら男が立ち上がる。
伊吹は手を出さず、じっと観察した。
やはり態度がおかしい。
男の口は開いたり閉じたりを繰り返し、頬が震えている。
「……イレーヌさん?」
男の口から、全く予期しなかった名前が漏れた。
「え?」
「う、おおっ」
何が気付けになったかは分からないが、不意に、男の目に正気の色が戻った。
男は背後に跳躍し、十メートルは後方の木へ飛び移った。
背後さえろくに見ていなかったはずなのに、太い枝の下から腕を引っ掛け、半回転して枝の上に膝立ちした。
樹上の黒い影は身を翻すと、あっという間に遠ざかっていく。
「嘘、逃げたの? 何で?」
伊吹はただ混乱するだけだ。
あれほど執拗にアイをつけねらっていた男が、突然、攻撃を止めたどころか脇目もふらずに逃走した。
しかも、去り際に、伊吹の夢に出てくる人物の名前を残していった。
「何がどうなっているのよ」
雨が止んだ。
小雨になるでもなく、栓を閉めたようにピタリと止んでしまった。
見上げれば、空は快晴だった。
大蛇と豪雨、夢でも見ていたかのように、一瞬で全ての怪異が消え去っている。
「昨日、薬を飲んだわよね。本当に幻覚を見ていたのかしら……」
足元には川のような水が大量に残ってはいるが、周囲には雨上がり特有の、木々の青い匂いが立ちこめている。
「アイさん、柚美さん、無事?」
振り返れば、ふたりが駆け寄ってくるところだった。
アイは笑っているだけだが、柚美は伊吹と同じように動揺しているらしく、周囲を疑うように見渡している。
「ねえ、伊吹ちゃん、これ、夢じゃないよね」
「……さすがに、夢でしょ。私を貴方の夢に連れ込まないで」
「だ、だよね。あんな化け物と戦うとか、無いよね」
「無いわね。常識的に考えて、抵抗なんてせずに泣きながら逃げるわよ」
木々の枝葉からは水がこぼれ落ち続けているし、足下ではくるぶしまでの浅い川が残っている。
川の中には、大蛇の腹這いが残した溝があった。
溝を中心に流れが乱れ、泥色の小さな渦ができている。
伊吹がアイの頭を撫でてやると、スポンジのように水が溢れた。
伊吹の頭も似たようなもので、前髪から額に何条も水が垂れてくる。
雨が降っていた時は気にならなかったのに、止んだ途端、目に入りそうになる水が煩わしくなってきた。
「あ、よかった。壊れていない」
柚美がポケットからスマートフォンを取りだして弄り始めた。
「貴方、携帯の心配だなんて……。というか、何でそれで警察を呼ばないのよ」
「うっ……。後からアイちゃんの誘拐で私たちが掴まるかと思って」
「あの状況で、そんなこと考える余裕があったの?」
「……本当は、怖くてすっかり忘れてた。えへっ」
「まったく……」
「えへへ。記念」
柚美が頬を朱に染めながら、写真を撮ってきた。
アイが太ももに抱きついてきた。
どうもアイはくっついていないと落ち着かないのか、抱きつき癖があるらしい。
「ママ、大丈夫?」
「ええ。ぶつけた背中が少し痛いけど、怪我はしていないと思う。
そういう貴方こそ、大丈夫なの?」
「ウイ」
けろっとしていた。
何を心配しているのかすら分からないといった顔をしている。
先ほどまで泣きじゃくっていたのが嘘のようだ。
「アイさん、本当に怪我はないのね。何処か痛いところは?」
腕を掴んでみたり、腋の下を触ったりしてみる。
「ママ、くすぐったい」
怪我をしていないか調べていたのだが、遊んでもらっていると勘違いしたらしいアイはきゃっきゃっと笑いだす。
つい、伊吹もつられて、頬が緩む。
心に余裕が出来たら、口が苦くなってきて気分が悪くなった。
転倒した際に、思っている以上に泥水を飲んだらしい。
「伊吹ちゃん、シャワー浴びたいよう」
「そうね。びしょ濡れだし泥だらけね」
濡れ鼠の親友と、雨でぬかるんだ地面を見比べる。
「地、固まると良いわね」
「何か言った?」
「ううん、何も。戻ってきてくれた時点で、固まったわ。さ、行きましょう」
伊吹はアイの手を取り、柚美を促しゆっくりと歩きだす。
シャワーを浴びて、昼食を採って、それからのことは後で考えよう。
厄介事はまた振りかかってくるかもしれないが、伊吹は気が楽だった。
隣に並ぶふたりがいるなら、どんな困難だって、きっと乗り越えられるだろう。
重い雨雲の後には、自分たちを輝かせてくれる優しい太陽が待っているのだから。
ふわりと、金の髪が舞った。
第一章が終了です。
久しぶりに読み返してみると、戦闘に至る流れが粗ですね。
現代日本で育っておきながら伊吹ちゃんがやたらと好戦的なのは、元がゲームキャラだからです。
元々がゲームシナリオだったので「ここで戦闘! ゲームだから戦闘があるのは当然だよね!」みたいなノリなんですね。
小説化するにあたって、「戦う理由」に説得力を持たせることに四苦八苦した記憶があります。
では、第二章も近日中に公開します。
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