私は桐原伊吹なのよ。ママじゃないわ
伊吹は黒レインコートの男に向かって真っ直ぐ走る。
大蛇は鎌首をもたげ、攻撃態勢をとっている。
要の部分は剣道と同じだ。
(振りかぶった竹刀は振り下ろすしかない。もう払ったり突いたりはできない。
予備動作が大きければ大きいほど、その後の攻撃は限られてくる。
大蛇も同じ。アレは、突きの軌道しか取れないはず!
腹で薙ぎ払ってくる可能性なんて、あるはずがない!)
力の解放を間近に控えた巨腕の奥で、男の肩が一瞬、前に出た。
伊吹は待ちかまえていたから反応できた。
ほとんど条件反射だ。
攻撃の気配に反応した神経が、身体を横に跳ばせてくれた。
ドンッという重い音ともに、身体の脇を大蛇の頭がかすめていく。
続いて、胴体が雨を突き破り、水しぶきを散らす。
通過列車が去っていくかのように、風圧が髪を引っ張る。
避けた!
「っし」
思わず、歓喜の声を漏らす。
頭では分かっていても、本当に避けきれる確証はなかった。
男の身体は右腕を伸ばした姿勢で開いている。
燕返しでもあるまいし、背後の大蛇が戻ってくることはないと判断。
伊吹は地面を蹴るように跳び、男へつっこむ。
男はあっけにとられた表情を浮かべていた。
伊吹を払いのけるためか条件反射か、左腕を身体の前にもってきている。
「たあっ!」
胴体が横を向いた状態で、余った左腕など格好の獲物だ。
手首と肘を掴み、ねじり上げる。
伊吹は剣道に比べるほどではないが、合気道の経験も多少はある。
靭帯くらいは切るつもりで、全く手加減をしない。
ふらついた男に肩からぶつかり押し倒す。
男が関節を極められたまま、顔から路地につっこむ。
受け身は取らせない。
細い身体ではたかが知れているが、全体重を乗せ、男が立ち上がるのを阻止する。
「ぐっ」
「ははっ。凄いじゃない。私。
身体、動くじゃない。
アイさん――」
家族を呼んできてもらおうと振り向くと、視界の片隅に嫌なものを捉えた。
送風機のような音を立て、大蛇が戻ってくる。
全身が不自由になっても、大蛇にだけは関節の戒めなど通用しないらしい。
「誰か呼んできて!」
伊吹は男の腕を放し、飛び退いた。
直後に、大蛇が男の上でぐわんと旋回した。
伊吹がバックステップを繰り返し、後ろに倒れるようにして一部屋分の距離を離れる頃、男は口の端を拭いながら立ち上がった。
「何なんだ、お前……。
《組織》の関係者か……?」
「……?」
雨の轟音が男の言葉をかき消す。
降り続ける雨は、辺りを浅い川のようにし、伊吹のくるぶしまで沈めていた。
路地の脇にある林からは、家鳴りのようなみしみしという音が聞こえてくる。
雨の勢いに耐えきれなくなった細い枝が折れているのだろうか。
「ママ」
アイが寄ってきて足に抱きつき、怯えを伝えてきた。
「逃げるわよ!」
伊吹はアイを抱え上げて、なりふり構わずに走りだす。
無惨に切り刻まれたイレーヌとは違う。
(私の脚は、まだ動く)
家に向かってはすぐに捕まってしまう。
雑木林に隠れながら逃げるしかない。
どこまで?
どこまででも。
雨色に染まった薄暗い林に跳びこんだ。
枝が手足を引っかくのを気にせずに走りながら、打開策を練る。
「何とかしてお爺さまの部屋まで行けないかしら。
日本刀さえあれば、相手も引いてくれるかもしれない……」
祖父は旅行で不在だ。自分がやるしかない。
屋内では満足に日本刀を振るえない。
刀を手にしたら、即座に外に戻る必要がある。
「人に振るうのは気が引けるけど、いざとなったら覚悟を決めるしかないわね……」
大蛇を両断する。
自分には出来るはずだ。
剣道と剣術は違う。そんなことは分かっている。
でも、やらなければならない。
アイを護らなければならない。
自分も助かり、生き延び、これからもアイを護り続けなければならない。
イレーヌの果たせなかった無念の思いが、伊吹を内側から突き動かした。
雑誌や本で臓器移植経験者の手記を読んだが、そこに書いてあるような、趣味や食事の嗜好が変化するなんてことは無かった。
だから実感なんて全く無かった。
ただ、変な夢を見るようになっただけだ。
だというのに、思い知った。
自分の中に、もうひとり、誰かがいる。
別の命がある。
イレーヌ・エマール。アイーシャの母親だ。
イレーヌの残滓が、伊吹の命を膜のように覆っている。
胸に宿した命がアイーシャを護れと、内側から叫んでいる。
アイーシャを護りたいという気持ちは、母性愛なんて綺麗なものじゃない。
足を無くせば、這ってでも逃げる。
腕を無くせば、敵に噛み付いてでも抗う。
手負いの獣が死ぬまで牙を剥くように、荒々しく強い気持ちだ。
もはや執念だった。
「ちょっと待って。今、私、何を……。
いつの間にか、思考がおかしなことになってる……?
くっ……。私は私。桐原伊吹以外になるつもりなんてないわ」
脳に焼ききれそう錯覚が襲ってきた。
視界が歪み暗転していく。
豪雨とは比較にならないほどの耳鳴りで平衡感覚を失う。
木に半身をぶつけた痛みで、とびかけていた意識が戻ってくる。
視界が一瞬だけ赤く染まった。
額を切ったのかもしれない。
だが、血はすぐに雨に流れて消えた。
「何なのよ、わけが分からない……」
豪雨は思考の乱れを洗い落としてはくれない。
ただ、夢は現実だったと告げるかのように、冷たく重く全身めがけて落ちてくる。
立っているのが辛い。
吐き気で呼吸ができない。
震えが酷くて、自分の身体とは思えない。
亡霊が身体を乗っ取ろうとしているかのような恐怖まで生まれてきた。
伊吹は恐怖を振り払うように首を払うと、足が滑り、アイを抱いたまま転倒した。
水が大きく跳ねる。
側溝が溢れたのか近所の川が氾濫したのか、膝丈はあろうかという水かさだった。
伊吹の下敷きになったアイは完全に水没している。
伊吹は慌てて溺れかけていたアイを抱き起こす。
「けほっ、けほっ」
「アイ、もう赤ちゃんじゃないんだから、走れるわよね。
走って。走って。走って!」
浅い川を掻き分けて巨大な物体が滑ってくる音がする。
咄嗟にアイを庇うように抱えた瞬間、伊吹は宙に舞った。
大蛇の体当たりを受けたと気付く間もなく、水面を跳ねる小石のように、川と化した地面を水平に転がり飛ぶ。
すぐに平衡感覚を失った。上下すら分からない。
ただ、アイを護る両腕に力を込める。
為す術もなく背中から木に激突し、川に落ち、ようやく身体が止まった。
背中に激痛が走り、視界が明滅する。
「くっ、ごほっ」
半ば沈みかけていたので、喘ぐと容赦なく泥水が喉に流れ込んでくる。
喉の痛みが気付けになり、最悪の状況を理解した。
伊吹の下でアイが溺れている。
両腕はアイを抱いたまま硬直している。
心臓が破裂しそうなほど膨張して絶叫した。
全身に青ざめた血流が行き渡り、身体ががくがくと震えだす。
「アッ、アーッ! やっ! あっ!」
咽びかえり名前を呼ぶことすらできない。
腕を放そうにも、まるで言うことをきかない。
「アッ……イ……!」
アイが必死に手足をばたつかせているが、伊吹の腕から逃れることが出来ないでいる。
口から漏れる酸素の泡が尽き、見る見るアイの動きが弱くなっていく。
「や、やあっ! 駄目っ、駄目えっ!」
伊吹は自分の下唇を噛み切った。
痛みに反応するのを期待したが、腕の自由は戻らない。
伊吹の身体は意思に反して、愛する娘を自らの手で水中に沈めたままにしている。
「アイさん! アイッ!」
アイではなく自分が下側だったらと思い至った瞬間、ようやく打開策が閃いた。
伊吹は目を閉じ呼吸を止め、横に回転する。
自分が水没した代わりに、おそらくアイが水面から出ただろう。
水中で背骨に鑢をかけられたかのような痛みが走り、目と口を開いてしまった。
泥水が流れ込んでくる。
内外の痛みを無視して全身を使い、傍にある激突したばかりの木に背を預け、気の遠くなるほど遅い動きで起き上がる。
半身浴の姿勢になり、ようやく呼吸が可能になった。
眼から涙が溢れ、口から泥水を吐きだす。
「はあっ、はあっ、はあっ……アイさん、アイさん!」
「けほっ、けほっ、けほっ」
苦しそうに泥水を吐くが、アイは辛うじて窒息は免れたようだった。
だが、薄桃だったほっぺが色を失っている。
事態は悪化する。
目の前、僅か数メートル先に男が立っていた。
「悪かったな。
お前の動きを止めようとしただけだが、中途半端に逃げるから当たってしまった。
もう、痛い思いは嫌だろ? だったらアイーシャを渡せ。
渡してくれれば、俺は直ぐに去る。雨も止むだろう。
時間が無い。アイーシャを、今すぐ渡せ」
傍らから降って来た言葉は、あまりにも甘い誘惑だった。
イレーヌはともかく、桐原伊吹は既に気が萎えている。
アイは必死に抱きついてくるというのに、伊吹の腕は急速に力を失っていく。
アイの肩を抱えていた手がゆっくりと背中を滑り落ち、腰へと降りていく。
伊吹は背中の痛みはひいてきたが、まだ身動きはおろか呼吸すらままならない。
眼前に迫った大蛇の口が広がる。
歯がなく、ミミズを裏返したかのような不気味な口腔は、伊吹とアイを余裕で一飲みしそうなほどに大きく開いている。
伊吹は、考えることを放棄した。
どんな結論を出したって、イレーヌの亡霊に惑わされているだけなのではという考えが過ぎってしまうからだ。
何故自分は会ったばかりのアイを守るために、不審な男に殺し合いともいえるような戦いを挑んだのだろうか。
尋常な精神状態ではなかったのだ。
「最後だ。アイーシャを渡せ」
溺れた子のように全身でしがみ付いてくるアイを、伊吹は震える手で身体から離す。
「ノン!」
「私は桐原伊吹なのよ。ママじゃないわ」
「ノン、ノン! ママがアイのママァーンだもん!」
引き離そうとしても必死に抵抗するアイを、このまま手放しても良いのだろうか。
所詮は子供の体力だ。
いくら痩せこけているとはいえ、伊吹の腕で押しのけられるはずだ。
ただ強く、アイの肩を突き放すだけでいいのだ。
簡単なことなのに、何故かできない。
出会ってからせいぜい一時間しか経っていない子供に、同情しているのだろうか。
命を懸けてまで、目の前の大蛇に歯向かう理由なんて、何も無いのに。
胸の奥で燻り続ける思いは、イレーヌの残滓だけだろうか。
心臓に宿った記憶が、アイーシャを愛おしいと思わせていたのだろうか。
自分を慕ってくれている子供を見捨てて、桐原伊吹は平気だろうか。
答えが欲しい。
本当の私は、今、一体、何がしたいのだろう。
余命一年と告げられて自暴自棄になり、何もかもがつまらなくなった生き方。
身体は動く。日常生活には支障が無い。
命が尽きるまで、当たり前の生き方が出来る。
普通に朝起きて家族に挨拶をして、学校に行く、ただそれだけでよかった。
どうせ残り僅かな人生、濃い生き方をしたいと思ったこともある。
けど、これは違う。
いきなり大蛇に襲われて豪雨の中で濡れ鼠になって息を切らすなんて、こんなのは望んでいない。
身体は憔悴しきっており、肺が酸素を求める一方で、考える余裕が無かった。
泥水に濡れた瞳から涙が零れた。
「皮肉ね」
不意に、内心で笑うだけの余裕が、沸いた。
見えたから。
男の背後に、本当の私を知っていそうなものが見えたから。
両腕に「動け」と吠え、顔を上げる。
「アイーシャを渡せ」
「嫌よ!」
伊吹はアイを渾身の力で突き飛ばした。
だが、男へ差し出したわけではない。
アイを男から遠ざけ、両腕を自由にした伊吹は一縷の勝機に賭け、男の脚に飛びついた。
剣道の経験者にしては酷く頼りない細腕に力を込める。
入院生活で枯れ木のように細く、気味が悪いほどに白くなった腕を「綺麗だから大好き」と言ってくれたのは誰だったか。
リハビリで疲れた腕や足を、撫でるように優しくマッサージをしてくれたのは誰だったか。
臓器移植によって自分の意思が不確かになってしまったかもしれないなんて、ぐずぐずと悩む必要はない。
手術を受ける前の桐原伊吹を知っている者がいる。
自分を慕ってくれている子供を見捨てて平気な人間か否かを知っている者が、すぐそこにいる。
「何処に行っていたのよ、馬鹿……」
勢い良く走りこんできた小柄な影が、男の背中に全身でぶつかっていく。
友人の『伊吹ちゃんはこうあるべきだ』と決めつけてくる押し付け精神が、今だけは希望だった。