やっぱり貴方、夢の赤ちゃんでしょ
この辺りから、内容的にも小説的にもストレスが溜まる感じですが、第二章まではめげずに読んで頂けると幸いです。
「蛇?」
一体どれだけの巨体かと、頭から尻尾の方へと視線を巡らせていくと、玄関の外に人影を見つけた。
薄墨色に沈んだ雨天の底にすら溶けきれない、深い闇色の人影であった。
直前まで晴天だったので、レインコートに身を包んだ人影は不自然なはずだったが、動転から立ち直っていない伊吹は気にも留めなかった。
大蛇の背後に人を見つけたことにより、むしろ、玩具を使った悪戯かと思い、安堵のため息を吐きかけたほどだ。
ワニやシャチの浮き輪があるのだから大蛇もあるのだろうと考え、玩具であることを確認しようと観察する。
口の隙間から先割れの舌が出てくるのが一瞬見え、鱗に爬虫類特有の光沢がある。
玩具である証拠を掴めないまま、頭から胴体、尻尾へと視線を進めていく。
大蛇はレインコート男の右腕から生えていた。
「……ん?」
軽く首を横に動かして視線をずらしてみても、やはり、大蛇は男の胴体に繋がっているように見える。
あまりにも常軌を逸していたため伊吹は驚きはしたが、危機感は抱かなかった。
軽く息を吐きながら、リアルな玩具であることの他に、常識的に納得できる理由を探した。
最近話題のヴァーチャル・リアリティやプロジェクションマッピングとかいうやつだろうか。
「アイーシャを渡してもらおう」
人相は不明だが、声質から伊吹たちと同年代か、やや上の男らしいことが窺える。
一方的に要求を突きつけるだけの、ぶっきらぼうな物言いだったが、会話が出来ることを知り、伊吹はいつの間にか強ばっていた肩を下ろす。
「アイさんのお名前はアイーシャなの?」
「ウイ。アイはアイーシャだよ」
「そう。アイは愛称だったのね」
「ノン。アイショーじゃなくて、アイーシャだよ」
アイに怯えた様子は無い。
むしろ大蛇に興味津々といった様子で目を輝かせている。
何気なくアイを抱き寄せようとし、伸ばした手が思うように動かない。
訝しんで見てみれば、勝手に震えていたから、伊吹はようやく自分が恐怖していると悟った。
神経のつながらない心臓が落ち着いたままだったので、伊吹は恐怖を実感するのが遅れてしまったのだ。
生理反応が不足しているせいで、目の前の現実を人の話やテレビのような遠くのことのように傍観してしいた。
震えている手を見てようやく、頭が全身に逃げろと危機感を走らせる。
「走っ――」
身をひるがえし、友人に逃走を促そうとしたが直ぐ背後にいるはずの柚美の姿はなかった。
「え?」
予期せぬ事態に気を取られて足がもつれてしまい、アイを巻き込んで転んでしまう。
「柚美……さん?」
肘を打ったが直ぐに上体を起こして道場を見渡す。
直ぐ傍らでは押し倒してしまったアイが頭をおさえて涙ぐんでいる。
背後の数メートル離れたところでは男が剣呑な気配を漂わせている。
探し求めた人物だけが、何処にもいない。
「柚美さん……何処?」
「お前もアイーシャを置いて、去れ。追いはしない」
大蛇の這う音がゆっくりと寄ってくる。
意識したくないのに視線を大蛇に奪われていると、小さな背中が視界に割り込んできた。
「ママを虐めないで!」
「何で未だいるの! 貴方こそ、逃げなさいよ!」
叫び、気づけば伊吹はアイを羽交い締めに抱えて走りだしていた。
アイの姿を見た瞬間、勝手に身体が動いていた。
アイに触れた瞬間、護るという使命感が芽生え膝の震えが止まる。
「アイさん、このままじっとしていて!」
アイは小柄とはいえ、背後から脇の下に両腕を通して抱え上げるには重いし、腕を振れないので走りづらい。
だが、そんなことを気にしている余裕はない。
背後を確認する余裕はないが、襲いかかってこないのだから、男はアイを傷つけるつもりはないようだ。
伊吹は男が侵入してきた玄関とは離れた勝手口から滝のような雨中に飛びだす。
「くっ……!」
どっ、と崖から落ちたかと錯覚するほどの衝撃が圧し掛かってくる。
雨の重さに負けて転びそうになるが、萎えた太ももに力を込める。
道なりに逃げてもすぐに追いつかれると判断し、雑木林に飛び込む。
桐原家の敷地は広く、森林公園丸ごと一つが自宅の敷地になっているような状態だ。
「痛っ」
地面に落ちていた小枝が容赦なくソックスを貫き、足に突き刺さってくる。
柔らかそうな部分を選んで走ろうにも、落ち葉が降り積もるには未だ早い時期だ。
剣道の練習で足の皮が裂ける経験は十分にあったが、痛いものは痛い。
だが、堪えるしかない。
大蛇に襲われるのと、お風呂で染みるのを我慢するのとでは比較にならない。
林を突き抜ければ、ヘアピン状の路地を大幅に短縮できる。
家人の伊吹だから知っている近道だ。
雨で暗くなった林を初めての人間が追跡するのは困難なはずだ。
「大丈夫。大丈夫だからね」
「ウイ」
アイを励ますというより、自分に言い聞かせいていた。
腕の代わりに大蛇がはえた人間など、居るはずがない。
きっとの気のせいだ。
そうだ。服用している薬の副作用には『幻覚を見る恐れがあります』と書いてあった。
きっと、幻覚を見たのだ。
肺は酸素を求めて悲鳴を挙げているが、心臓は危機的な状況にも拘らず穏やかな鼓動を刻んでいる。
アイの頭が触れているあたりから、トクントクンと柔らかい鼓動が伝わってくる。
「冗談じゃないわ……。こんなの幻覚か夢よ」
枝葉が頭上にあるが雨の勢いは全く衰えない。
周囲は益々暗くなり、視界が不確かになっていく。
足元がぬかるみ、時折足を滑らせては、ろくに身構えることもできないまま肩から木にぶつかってしまう。
アイを巻き込んで盛大に転んでからは、抱えるのは諦めて手をひいて走ることにした。
「ママ、待って!」
「黙って走って!」
いつ木陰から大蛇が飛び出してくるか分からないので、気が気ではない。
逃走の足が遅れると分かってはいても、何度も振り返らざるをえない。
アイの足が遅く、歩いているような速さだったが、やがてふたりは林を抜けた。
雨のせいで深呼吸することができなければ、俯き、吐き捨てるようにして呼吸を整えるしかない。
雨に濡れた髪と服が泥のように重く全身にまとわりついてくる。
抜け出たばかりの雑木林を見据える。
大蛇の姿はない。
余裕があればこそ、アイを気遣える。
「何処か怪我していない?」
「ウイ。痛くないよ」
アイは毛糸のようにもこもことした靴下を履いているから多少、木の枝が刺さったとしても、怪我はしなかっただろう。
伊吹はほっとし腰を落としそうになるが、一度でもお尻を下ろしたらもう立てなくなりそうだったので、膝に手をついて我慢した。
「何なのよ今のあれは。
確かに、お薬の説明書には、人によっては幻覚を見る場合がありますなんていう一文もあるわ。
でも、そんなのは頭痛薬にだって書いてある程度のことでしょ。
それに、今日は飲んでないし……。
一体、何なのよ。何で、こんなことになるのよ……」
つい「ねえ、柚美さん」と、友人の姿を傍らに求め、息が詰まる。
胸がざわつき、目元に熱い物がたまるのを感じたが、アイの手前なので下唇を噛んで堪える。
シャワーを浴びているような豪雨なので泣いたって分からないが、意地がある。
「今みたいなときに隣にいるのが、友達でしょ……」
進級するとき、おそろいの可愛らしいボールペンを買った。
蛙の飾りがついていて、ボタンを押すと両手足がケロケロと動く愉快なやつだ。
遠足で同じ班になって、バスで隣の席に座ってカラオケでデュエットした。
修学旅行でも同じ班になった。
隣に布団を敷いて夜遅くまでおしゃべりをした。
朝起きたら、何故か柚美が同じ布団の中にいた。寝相が悪いのにも程がある。
大事な思い出は薄暗い景色に溶け消えることなく、鮮やかにまぶたの裏に浮かぶ。
「柚美さん無事かしら。
大蛇が貴方を追って私達が助かったのなら、恨むに恨めないわよ」
裏切られたことへの絶望はあっても、嫌いになったわけではなかった。
幻滅したけど、これで潰れるほど短い付き合いではない。
後でどんな表情をして再会すれば良いのか分からないが、明日にはいつも通りの関係になっている予感はする。
いや、なってくれていなければ、悲しい。
「私だって、貴方じゃなければ、見捨てて逃げたかもしれないわよね」
直ぐ隣にいる愛おしい幼女を見下ろす。
アイは鼻をひくひくさせていた。
「くちっ」
「ごめんなさい。何時までも雨に打たれていると風邪をひくわね」
手を取り、家へと足早に歩きだす。
緩やかなカーブの先に玄関があり、晴れていれば見える位置だ。
「もう少しだけ我慢してね。すぐに温かいお風呂に……。ふふっ」
夢と同じことを口にしてしまい、つい、笑みがこぼれてしまった。
「やっぱり貴方、夢の赤ちゃんでしょ」
「アイ、赤ちゃんじゃないよ」
「赤ちゃんよ。……わた――」
気が緩める程度に安堵した瞬間を狙ったわけでもあるまいが、突如、背後で大縄を引きずるような重い音がした。
「走って!」
霞んでいるとはいえ、家は見えている。
僅か二十メートルだ。
姿は見えないが、雑木林の中で何かが並走している音がする。
大蛇の男だろう。
あと数歩というところで前方に長い影が飛びだしてきた。
「逃げられるとでも思ったか?」
大蛇に遅れて、飛び散る枝葉とともにレインコートの男が現れ、進路上に立ち塞がった。
もともと、男の巨椀が大蛇の性質を兼ねているのなら、伊吹は逃げられるはずがなかったのだ。
蛇は視覚が衰えている代わりに、嗅覚に優れている。
日本の林ごときで獲物を逃がすはずがない。
「お前に危害を加えるつもりはない。アイーシャを渡せ」
「断るわ。貴方の姿を見たら、家族が警察を呼ぶわ」
伊吹は足に抱きついてきたアイを背後に庇おうと後ろ手に押すが、離れてくれない。
「俺が何故、雨を呼ぶのか教えてやろう。
悲鳴を隠し、血を流し尽くすためだ」
「ゴム風船の蛇で人を脅すことは不可能よ」
「抵抗は無駄だ。余計なことを考えずに、アイーシャを渡せ」
「貴方、会話が出来ないわ。
アイさん、ばんざいして、ばんざい。ほら、手を上げて」
しぶしぶといった感じでアイの腕が離れた瞬間、伊吹は男へ向かって駆けだす。
戦うつもりなど無い。
いくら剣道の全国大会で優勝したことがあるとはいえ、伊吹は素手で同年代の男子に勝てるとは思っていない。
男の脇をすり抜け、家に駆け込むつもりだ。
家族を呼べば何とかなる。
桐原家は武芸一家だ。大人なら何とかしてくれる。
祖父が収集している日本刀だってある。電話で警察を呼ぶのも良い。
家にたどり着きさえすれば、きっと状況は良くなる。
そう思ったのに……。
「ママ! 待って!」
悲痛な声が背中に投げられた瞬間、伊吹は玄関から視線を外し、男へと向かう足を強めた。
家に逃げ込もうとしていた?
自分だけ?
アイを置いて?
違う。
助けを呼びに行くつもりだった。
でも、アイを置き去りにしている。
家族を連れて戻ってくるまでに、男がアイをさらっていくかも知れないのに?
アイの目に今、自分はどう映っているのだろうか。
友達に置き去りにされたことを嘆いたばかりの自分が、今、アイに同じ思いをさせようとしている。
「有り得ないわね」
胸が高鳴った。
身体の中心から熱いものが全身に広がる。
いつかテレビ番組の衝撃映像で、川に落ちた息子を救うために、ワニの口をこじ開けた父親を見た。
見ず知らずの子供を助けるために、サメが群れなす海に飛び込んだ男の姿を見た。
娘を庇い、自らの腕をライオンの口に突っ込んだ母親の背中を見た。
私がアイに見せてあげる背中は、どれ?
恐怖はあるが、塗り返すだけの熱い思いが胸からこみ上げてくる。
出会ったときからアイに抱いている感情は、けして嘘ではない。
大事な家族のように愛おしいと思ったのだ。
伊吹の覚悟を見て取ったのか、
「貴様はいったい何者だ」
男が誰何したが、伊吹は聞いていなかった。
アイが背後から「ママ」と叫んだが、やはり、聞こえていなかった。
「ままよ!」
出たとこ勝負とばかりに言い放った言葉は、男に困惑の表情を浮かばせ、
アイーシャは「ママ!」一際大きく声に花を咲かせた。