こんなにも可愛いんだし、私の娘だと思っても良いじゃない
桜の花を見かける頃合いとはいえ、川を吹き抜ける風は冷たい。
橋を渡る伊吹の足は自然と速くなっていた。
「待ってよ。待ってってば」
背後からの呼び声に気付いてはいたが、伊吹は歩く速度を落とすつもりは無かった。
伊吹は体育館を出たとき、入り口にいた柚美が自分の姿を認めたであろうことに気付いている。
顔をあわせずに立ち去るつもりだったのだが、会場で顔見知りと遭遇したり、エレベーターが来るのが遅かったりして、余計な時間を費やしてしまったのだ。
随分と距離は開いていたし、小さなハンドバッグを持っただけの自分と違って、柚美は剣道の道具一式を背負っている。
それに、先ほどまで試合に出ていたから疲労だってあるはずだ。
だというのに、小走りであっさりと追いつかれてしまう。
「体力の差を見せつけられているみたいだわ」
「ん、何か言った?」
返事はせずに前を向いたまま歩く。
「ちょっと、もーう。ごめん。ごめんってば。
見に来いって誘っておきながら一回戦で負けたから怒っているんでしょう」
伊吹は隣に並んだ友人の顔をチラッと見、額の汗に気付くと、ようやく歩を緩める。
けれど、柚美の服装を見ると、思わず顔をしかめる。
伊吹は枯れ枝のようにやせ細った自分の腕を隠すために、ゆったりとしたセーターを着ている。
厚着しているのにも拘わらず、春先の寒さに二の腕を軽く抱えるほどだ。
一方、柚美はいくら剣道の試合に出た後とはいえTシャツ一枚だ。
伊吹が
「寒くないの?」
と口にするよりも先に、柚美は
「暑いくらいだよ」
と手で扇いだ。
「そ」
「伊吹ちゃん、寒いの? 暖めてあげよっか」
柚美が両手を大きく広げて抱きつこうとしてきたので、伊吹は「臭い」額を押しのけて拒絶する。
柚美が汗の染み付いた防具を着用した直後の、つーんとする臭気を放っているのは事実だ。
だが、伊吹は別に心の底から嫌悪しているわけではない。
それが分かっているから、柚美の「ひっどーい」という声は笑い混じりなのだろう。
「そろそろ、この臭いが恋しくなってきたでしょう。
汗と制汗スプレーの混ざった臭い」
「剣道はもう無理よ。
見てよ、ほら。私の髪、お尻まで届くのよ。
手術の時に切ったのが、ここまで伸びたのよ」
「それは、そうなんだけど、さ……」
「お風呂に入るたびに、このやせ細った身体は誰って問いかけるの。
身体を洗うたびに、手や足の皮が柔らかくなってしまったのを実感するのよ」
橋を渡り終えたところで足を止め、伊吹は手の平を柚美の顔の前に持っていく。
「貴方のとは違うでしょ」
綺麗な手を見せようとしただけだが、何を勘違いしたのか、柚美が手を重ねてくる。。
「や。でも、伊吹ちゃんは道場から離れるべきじゃないと思う」
「道場の娘です。実家にいる以上、離れたくても離れられないわ」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってるわよ。貴方の言いたいことなんて。
でも、どうするの。マネージャーにでもなれと言うの?
それとも一年生と一緒に、道場の隅で竹刀でも振っていろっていうの?
貴方たちのこと、先輩って呼べば良いの?
それに、私――」
余命一年なのよ……とは言葉にできない。
これは、家族しか知らないこと。
親友の柚美にだって教えるわけにはいかない。
身体が動く限り日常を過ごしたい。
伊吹が望むのはそれだけ。
事情を知らない柚美は頬をぷくーっと膨らませて露骨に不満をアピール。
「今の伊吹ちゃんは、伊吹ちゃんらしくないんだもん」
「何よそれ。私らしくない私なんてないでしょ」
「私は未だ何度でも伊吹ちゃんの試合するところ見たい。
みんなは練習に参加できなくても、部活に顔を出してくれるだけでも嬉しいって言っているし」
「それは、惨めよ」
誰にも聞こえないくらい小さく呟き、伊吹は友人を置き去りにするくらいのつもりで足早に歩きだす。
けど、僅か数歩で直ぐに足を止めてしまった。
突如、小さな不意打ちを食らったのだ。
「ママ!」
可愛らしい声が聞こえた瞬間、身体が硬直する。
声の主は死角になる位置にいたのだろう。
ちょうど公園の入り口前なので、植え込みあたりの物影に身体が隠れていたのかもしれない。
伊吹が声の方を振り返るのと、勢いよく駆け寄ってきた幼児が太ももに抱きついてくるのは同時だった。
「え?」
トクン……。
幼児に触れた瞬間、胸の深いところが揺れた。
「ママ!」
外国人らしき幼女が両腕で伊吹の膝を抱え、太ももに顔を埋めるようにしている。
「ママ!」
「ママって、私のこと?
抱きつく相手を間違えているわよ」
戸惑いながら問いかけると、感極まったとばかりに涙を溜めている幼女が見上げてきて、目があう。
「ママ、ママ!」
「あれっ。あれっ。嘘。発作?」
心臓の音がとくんとくんと全身を満たしていく。
伊吹の胸にある心臓は医学用語で除神経心という。
手術によって移植した心臓のことを指し、身体とは神経が繋がっていないのだ。
だから、運動をしても直ぐに動悸が激しくなることはない。
まして、動揺したからといって高鳴ることなどあり得ない。
「伊吹ちゃん、しっかり」
事情を知っている柚美が血相を変え、薬を求めて伊吹のポーチに飛び付いてきた。
何かしらの要因が切っ掛けで胸が反応するのは、臓器移植を受けてから、ずっと忘れていた感覚だ。
「ママ? どうしたの? ママ?」
「な、何でもないわ。ねえ、貴方、迷子?」
幼女がきょとんとして首を傾げると、金髪が日を浴びてふわっと輝いた。
「ノン。アイ、迷子じゃないよ。ママと一緒だもん」
舌足らずな上に、アクセントがずれた変な発音だった。
「そう。お名前はアイさんね」
名前を反芻しながら深呼吸をすると、ようやく幼女を観察するだけの余裕を取り戻せた。
アイは何処かに出掛ける途中なのだろうか。
ドレス風の白いワンピースはいたるところに、天使の羽のようなフリルがあしらってある。
パニエでも仕込んであるのか、スカートは花のように膨らんでいた。
「貴方、言葉は分かるようね。けど、ママなんて何処にもいないでしょ」
伊吹は目線の高さを合わせるため、しゃがみ込んだ。
間近で見つめたアイの碧眼は、朝露を満たした湖面のように澄んでいる。
短い金髪は陽光と空気を抱いて陽炎のように揺れる。
伊吹がまじまじと見ていると、アイはにらめっこのように見つめ返してきた。
ぷにっとした曲線を描く顔立ちは幸せ一杯といった様子で笑みが溢れかえっている。
瞬き一回、二回、三回。
大きな目がぱちぱちするのを見ていたら、伊吹は自然と自分の頬が弛んでいるのを感じた。
「貴方、何で私とママを間違えたのよ。貴方はママとはぐれたのよね。
なら、貴方は迷子なのよ。分かる? まーいーご」
「ノン。アイ迷子じゃないもん。ママといっしょだもん」
抱っこしてと言わんばかりに両手を広げ、ただでさえ近い距離をさらに縮めてきた。
中腰の姿勢では避けることもできず、伊吹は仕方なくアイを抱きとめる。
「くっ……」
胸に抱いた瞬間、心臓が大きく弾け、熱い血液が全身をどっと駆け抜けた。
身体の深いところから、得体の知れない衝動が込み上げてくる。
溢れそうなほどに沸いた初めての感情は何だろうと、考えた瞬間に稲妻のように答えが全身を貫いた。
伊吹は心臓移植を受けてから、毎晩のように不思議な夢を見るようになった。
夢の内容はおそらく、心臓に宿った記憶だろう。
移植手術を受けた者は時として、臓器提供者の記憶を引き継ぐ。
記憶転移という現象だ。
記憶が転移する理由を現代の医学は未だ解明できていない。
臓器内の神経が記憶を蓄えているという説や、細胞が記憶を宿しているという説などがある。
いずれにせよ、臓器移植を切っ掛けにして当人が知り得るはずのない場所を知ったり外国語を話したり、趣味嗜好が変わったりすることがある。
もし、伊吹の見ている夢が心臓の記憶なのだとしたら、移植手術から三年が経過しているのだから、夢の赤ちゃんだって成長している。
そう、自分で歩けるようになり、今、伊吹が抱いている幼女みたいに小さな手足でしがみつけるようになっているはずだ。
「夢の、赤ちゃん?」
伊吹はアイを抱く腕に、そっと力を込める。
頬が触れあうと、マシュマロみたいな弾力が気持ちよかった。
くせのある金髪が鼻をくすぐってくるのさえ心地よい。
アイは赤子が母親にするように、小さな両腕でぎゅっと抱きついてくる。
「伊吹ちゃん、変、頭が変! 頭が変だよ!」
柚美の無粋な金切り声が幸せな気持ちに割り込んできた。
伊吹はむっとして、居ることをすっかり忘れていた友人を睨み上げる。
「失礼ね。こんなにも可愛いんだし、私の娘だと思っても良いじゃない」
「何で泣いているの!」
「……は? 泣いてなんか――」
否定しようとした。
が、視界が潤んでいたので伊吹は眼の下を手でこする。
「変だよ。伊吹ちゃん、頭が変!」
幾ら何でも伊吹だって、アイが自分の本当の娘だと思っているわけではない。
映画の登場人物に自己投影しているような感覚に近い。
離ればなれになった親子が運命の再会を果たす瞬間に感情移入しているだけだ。
気分良く感動の名場面に入り浸っていたのに、柚美が邪魔してきたのだから、ムキになって反論してしまう。
「変じゃないわよ。
アイさんは私の娘よ。
でなければ、この胸の高鳴りは説明できないわ。
三年間ずっと忘れていた感覚が蘇ったのよ」
「意味わかんないよ。自分で気付かないの。金髪なんだよ」
「アイさんは外国の子なのよ」
「ちっがーう!」
柚美がずいっと一歩踏み込み、伊吹の横顔から髪を一房すくってきた。
「ん? アイさんの髪にしては長いわね」
アイの髪は首までしかないくせっ毛なのだから、柚美が手ですくうことは不可能なはずだ。
「誰かいるの?」
背後を振り返ったが誰もいない。
では、この長い金髪は誰のものだろうか。
「引っ張るよ?」
柚美がくいっくいっと引っ張るのに併せて、伊吹は自分の頭が引っ張られるのを感じた。
「嘘ッ、なにこれ」
慌てて立ち上がる。抱きついたままのアイの身体が、ふわっと浮いた。
軽い。
お尻に手を回してやると、抱っこの姿勢になった。
伊吹はアイの身体を右腕で支え、左手で髪を取ってみる。
やはり金髪だ。
アイと同じ色の髪が、艶も良く陽を浴びて輝いている。
「嘘。私の髪なの?」
「伊吹ちゃんが不良になっちゃったよぅ。もうお嫁さんに行けないよぅ」
「私ひとりっ子だから、お嫁には行けないわよ」
「あっ」
柚美が素っ頓狂な声を上げて目を丸くするから、伊吹は視線を追う。
すると、髪の先端だけが黒色になっていた。
さらに、じわじわあっと髪の毛が元の色に戻っていく。
「墨汁に浸した筆みたいね」
驚きが一周して、返って冷静になった。
ゆっくりとした色の変化を、伊吹も柚美も黙って見ている。
アイは色の変わっていく様子が面白いのかふたりの真似をしているのか、一緒になってじっと髪を見つめている。
伊吹は変化の行く末を追い続けたが、頭頂部までは見えない。
ぺこっとお辞儀して柚美に確認してもらう。
「どう?」
「うん。黒。黒。元に戻っている。
でも、一体、何だったの。
伊吹ちゃんがその子を抱いた瞬間、色が変わったんだよ」
「そんなことあるはずないでしょ。
変な光の当たり方をしたとか、何処かにライトがあるとか……じゃないの?」
「ママ?」
腕の中で、何の警戒心もなくアイが甘えてくる。
アイのぷにぷにほっぺを見た伊吹の中で、優しい気持ちが再燃した。
「わあっ、伊吹ちゃん! 金髪! 金髪!」
耳元の叫びに弾かれ、伊吹は我が目を疑う光景を見た。
自分の髪の毛が星のように輝いたかと思うと、上の方から毛先へと金色に変化していく。
「わ。わ。絞って。柚美さん絞って」
混乱して、変な指示を出してしまった。
「駄目、駄目。止まんない」
柚美も同じように混乱しているのか指示に従った。
未だ黒い部分をギュッと握って、金髪への変化を防ごうとする。
が、握ったところをすっとすり抜け、完全に金に染まってしまった。
「やだ。外、出歩けない。ねえ、もう、帰りましょう」
伊吹は金髪を軽蔑しているわけではないが、お尻まで届くようになった黒髪を少なからず気に入っているから耐えられない。
柚美の返事も待たず、一目散に歩きだす。
背を縮め手で頭を押さえ、周囲にせわしなく視線を振る。
挙動不審だと思い至る余裕はない。
目撃者がいなかったから良いものの、焦っていたから伊吹はアイを抱きかかえたままなことを失念していた。
捉えようによっては、連れ去り事案である。