二度も、奪わないでよ
伊吹とアイは、絵理子の運転する車で教会を訪れた。
教会とはいっても平屋のてっぺんに十字架を飾っただけの、あばら屋だ。
白い壁はペンキがはげかけているし泥が付いているし、庭の禿げた樹木や、まばらな芝生には手入れが行き届いていないように思える。
十字架の平屋の隣に、さらに輪をかけたようにボロい小屋がある。
旧家の桐原家と違い、悪い年のとり方をした建物だ。
土壁のひび割れからはムカデやヤモリがうぞうぞと大量に這いでてきそうだ。
伊吹はいよいよもって、このような施設にアイーシャを預けるべきではないと、ボロ小屋を親の仇のように睨みつける。
二棟ある建物の両方ともボロいが、特にボロい方、吉田という表札の掛かっている玄関前で伊吹は苛立っていた。
呼び鈴は古びたドアの脇、目立たない位置に隠れるようにしていた。
風が吹いただけでも壊れそうな呼び鈴を、伊吹はとどめを刺すかのように乱暴に押した。
「里親が貴方に相応しいか、私が見極めるわ。
もし気にくわなかったら、貴方をさらうわ」
手を握ると、小さな力が返ってきた。
「ウイ」
「こら、伊吹。
よくないことを考えているんだったら、柚美ちゃんと一緒に車の中で待ってなさい」
髪の色がちぐはぐな親子の後ろでは、絵理子が菓子折りと、アイの着ていた服を入れた紙袋を揺らしている。
「無理。私は守勢に回るくらいなら、攻めるわ。
それが私らしいって言われたし、私もそう思う」
「もう、何よそれ……」
呼び鈴を押したというのに、全く反応がない。
在宅なら一秒で玄関に来られそうな小さい建物だというのに。
伊吹は絵理子から菓子折りを引ったくり、ドアを開けた。
「桐原伊吹よ。責任者は今すぐ、出てきなさい」
「伊吹。口の利き方。そんな子に育てた覚えはないわよ」
「ええ。そうよ。だからアイさんは私が良い子に育てるわ」
「人の話をー、聞きなさい。何を興奮しているのよ」
「電話連絡を入れたでしょ。
私たちの来訪を知っているのだから、直ぐに出てくるのが礼儀よ。
こっちは誘拐する覚悟で来ているのよ!」
「ちょっと、伊吹!」
「ただいま!」
痺れを切らした伊吹が踏み込もうとしたら、先にアイが靴を脱ぎ散らかして奥へと上がりこんでいった。
人形用みたいに小さな靴が伊吹の足下に転がってくる。
「お行儀が悪いわね」
伊吹は文句を吐きつつ、アイの靴を整頓する。
その流れで伊吹も靴を脱いで上がった。
「アイさん、待って」
「伊吹、勝手に上がっちゃ駄目でしょ」
「私はアイさんの知り合いなんだから、何の不都合もないでしょ」
絵理子の声を振り切り、伊吹はアイの入っていった部屋へと乗り込む。
「え?」
最初に見た光景は、伊吹の全身を硬直させてしまった。
伊吹は部屋の入り口から足が動かなくなり、目を見開き呆けた。
あまりにも、唐突すぎた。
もし、部屋にいたのが強盗だったら、伊吹は持ち前の気の強さと、昔取った杵柄を披露していただろう。
もし、午前中に遭遇した大蛇がいたのなら、即座にアイを抱き上げ、逃げだしていただろう。
たとえ、何がいたとしても、呆然と硬直することなんてあり得ないはずだった。
だが伊吹は、目を見開き、口を開け、ただ立ち尽くしてしまった。
神父らしき禿頭の男が、ソファにだらしなく埋没している。
首を傾げ、肩を脱力しているから、昏倒しているのだろう。
おそらく児童福祉施設の責任者、吉田だ。
伊吹は昏倒している男よりも、その対面に座る別の男から目を離せない。
伊吹は、入り口で立ち止まっていたアイに気づかず、膝で蹴り倒してしまったのにさえ気づかなかった。
僅か半日の間にアイと出会い豪雨に遭ったのだから、夢を構成する最後の要素にも、心構えを用意しておくべきだったのだ。
「何で、ここに、いるのよ……」
ナイフが人の形をして衣服を纏ったような、鋭利な印象の男。
映画や小説内の、空想の人物と出会ってしまったように現実感がない。
よく知っている男が目の前にいるというのに、伊吹はその人物が、本当に自分の知っている人物だという確証を持てない。
「津久井?」
無意識のうちに呟いていた。
夢で、アイーシャを誘拐しようとし、イレーヌを殺そうとした男の名だ。
「ん?」
男は怪訝な表情をした。狭い部屋だから伊吹の呟きが聞こえたのだろう。
赤ん坊なら三年も経てば、アイみたいに姿形は大きく成長しているだろう。
だが、成人男性なら、外見の変化は少ない。
津久井は白衣が紺のスーツに変わっただけで、夢と同じ体格と顔つきをしていた。
「おい待て」
突如頭部に痛みが走り、腰が泳いだ。
伊吹は津久井に気を取られていたため、ドア脇に立っていた別の男に気づいていなかった。
「ぐっ!」
夢の人物が登場した驚きと、頭部への衝撃が伊吹に空白の時間を作った。
ドア枠に身体をぶつけた後、満足に受け身も取れず、室内に倒れる。
「誰だ? 見ない顔だが、組織の関係者か?
このタイミングで現れるというのは気になるな。
おい、何で俺の名前を知っている」
伊吹は混濁する意識のまま、考えるよりも先に口が開いていた。
「津久井、貴方にアイさんは渡さない!」
「ママ! ママ!」
視界の揺れが治まると、伊吹はようやく、不意打ちで殴られ、うつ伏せに転倒したことを把握した。
起きあがろとするが、背中を何かに押さえつけられている。
おそらく、殴りかかってきた男が踏みつけているのだろう。
「離れなさい!」
道場の外では聞いたことのない、絵理子の鋭い声が飛び込んできた。
おっとりとした性格に似合わず、絵理子は合気道の師範を務めている。
にも拘わらず、男の狼藉を放置しているということは、アイが捕まっていて手が出せないのだろう。
「津久井さん、こいつらどうしますか」
「聞きたいことがある。桧山、そのまま取り押さえていろ。
能力者の気配は無いが、奇妙な女だ。組織の追撃者ではなさそうだが……。
この施設の関係者か? お前、何者だ?」
「私からアイを奪っておいて!」
津久井は大きく溜め息をついた。
「ふう。会話にならん。
こうも間抜けな奴なら組織の追っ手では無さそうだ。
目的は達した。桧山、行くぞ」
「はい」
背中にかかっていた圧力が消えた。
ふたりが部屋から出て行こうとしている。
アイは、桧山と呼ばれた男の脇に抱えられている。
「アイさん!」
追いかけようとしたが、手足ががたがたと震えて上手く立ち上がれない。
伊吹の心は折れていない。
むしろ、愛する人が連れて行かれようとすることへの怒りが燃え盛っているほどだ。
だが、身体の中心が震えている。
まるで、心臓が、自らの死因となった男に対して恐怖しているかのようだった。
冷たい血流が体内で怯え、歯を鳴らし、指先を凍えさせている。
全身が水浸しになってしまったかのように震えた。
「津久井、待ちなさい!」
相手の注意をひこうとしたが、効果はなかった。
「冗談でしょ!」
姿の消えたドアを睨みつけ、歯を食いしばり床を叩き、手足に力を込めても震えは止まらない。
「伊吹、大丈夫。怪我は?」
「私より、アイさんを!」
傍らに来た絵理子の手を借りて、ようやく立ち上がる。
伊吹はふらつきながら、走り出そうとするが、絵理子が手を離さない。
「待ちなさい。危ないでしょ」
「警察を呼ぶにしたって、どっちに逃げるかくらい、確認する必要があるわ」
「なら私が行く。伊吹は残って」
「嫌よ! アイさんが攫われたのよ!」
伊吹が取り乱せば、絵理子は額を押し付けるように近づき、声を張り上げる。
「私はアイちゃんより伊吹の方が大事なのよ!」
「母親が見捨てたら、誰があの子を護るのよ!」
伊吹が目の端に涙を浮かべて叫んだ瞬間、髪が黄金に輝いた。
髪の変化を初めて目の当たりにした絵理子の手が緩む。
伊吹は絵理子の手を振りほどき、部屋から飛びだす。
小さな部屋が四つあるだけの平屋なので、開け放たれたドアが直ぐに見つかった。
庭の先に、伊吹たちの入ってきた門よりはやや立派な門が見えた。
塀の向こうから大量の空気を吸い上げたような音が響く。
自動車のエンジン音だと分かり、焦りが生まれる。
「待って、伊吹」
「どっちに逃げるか確認する。絵理子さん、車、こっちにまわして!」
「分かった。無茶は駄目よ」
伊吹が路地に飛びだすと、大型車が走りだすところだった。
映画でマフィアの親玉が乗っているような黒塗りの外国産車だ。
後部座席にアイがいる。
泣きそうな顔で何かを必死に訴えている。
聞こえなくてもわかる。
出会ってから一日も経っていないが、既に何十回と聞いた言葉だ。
間違いない。
私を呼んでいる。
「アイさん!」
伊吹は、まだ加速を始めたばかりの車に追いつき並走する。
車内で津久井がアイの口を押さえつけ、シートに組み伏せるのが見えた。
アイへの乱暴な仕打ちに、伊吹は車に飛びつきたい衝動に駆られた。
だが、走り出した車には為す術もない。
胸が痛んだ。
イレーヌがアイを抱けなくなった原因は、ガラス一枚を隔てたところにいる男だ。その津久井が今、こうしてアイを連れ去ろうとしている。
「二度も、奪わないでよ」
力任せにサイドウインドウを殴りつけた。
当然、ヒビの一つすら入らない。
あまりにも軽く非力な音が空しく鳴っただけだ。
「イレーヌから奪って、何で私からも奪うのよ!」
再び殴ろうとした拳は空を切った。
伊吹と車との距離が一歩開き、瞬く間に十歩、二十歩と開いていく。
靴を履いていなかったが、なりふり構わずに全力疾走する。
見失ってしまえば、車には二度と追いつけない。
車が交差点に差し掛かって速度を落としたため、多少は距離が詰まった。
だが、既に半区画は離れているのだから、追いつけるわけもない。
黒塗りの車はブレーキランプを短く点灯させると、方向指示器を出すことなく、見通しの悪い交差点へと消えていく。
「やだ。待って! 待ってよ!」
たかが五十メートル。
昔の伊吹なら六秒もかからない距離だというのに、永遠のように感じる。
どれだけ腕を振り、脚を蹴り上げても、交差点は逃げているかのように遠いままだ。
泥沼に沈むかのように、身体があっという間に重くなってくる。