おっぱい?
「おっぱい?」
「おっぱい?」
呟きにしては大きかったのかもしれないし、動揺して揺すってしまったのかもしれない。
寝付いたばかりのアイが目を覚ましてしまった。
お昼寝直後だからあまり眠くなかったのかもしれない。
潤んだ目元を小さな手でくしくしと擦っている仕草を見たら、胸がきゅんっと甘く高鳴った。
伊吹の髪が金に染まっていくのを間近で見て、アイがきゃっきゃっと笑う。
「アイさん、貴方、おっぱいを飲む年齢じゃないわよね?
……あれ。赤ちゃんって、何歳くらいまでおっぱいを飲むのかしら」
育児経験のない伊吹は、離乳期を知らなかった。
だから、絵理子が冗談を言ったとは、気づけない。
お昼は、おうどんの出前をとった。
今朝、伊吹は剣道の試合が終わったら帰るという、曖昧な帰宅時間を告げて出掛けていた。
さらに柚美を連れて帰宅したし、アイという予想外の来客もあったため、絵理子が昼食を用意できなかったのだ。
けど、伊吹は、アイが未だ固いものを食べられないから、絵理子がわざわざ、おうどんを頼んだのだろうと勘違いしている。
実際は、アイは三歳児なので、ごはんや卵焼きや魚など伊吹と同じものを食べることが出来る。
しかし、伊吹は身近に赤ちゃんがいたことがないので知らなかった。
おうどんみたいな柔らかいものしか食べられないのだから、まだ、おっぱいを飲む年齢だろうと結論したのだ。
「おっぱい。おっぱい」
アイは眼を爛々としながら、伊吹の胸にしがみついてくる。
本音であるなら、伊吹はアイに授乳したい。
理屈では説明できないが、乳首を甘噛みしながら吸ってもらいたいという気分が、もやもやと沸いてくる。
「母が子に乳を与えるのに、何も恥ずかしいことなんてない、のよね」
女性にしかできない、命を育む立派な行為だ。
そう。恥ずかしがることなんて何も無いのだから、普段どおり堂々としていれば良いのだ。
服の裾をたくしあげる。
が、寸でのところ思いとどまる。出産はおろか、妊娠すらしていない自分が授乳するのは、非道徳なことではないだろうか。
「ううっ」
見つめても、天井の木目は答えを教えてくれない。
襖を確認する。ぴたりと閉まっている。
廊下に人の気配はない。古い家なので人が近づけば音で分かる。
「恥ずかしがっていては、世界中の母親に失礼よね。
……い、いつでも良いわ。吸いたければ、吸えば良いでしょ!」
照れ隠しでつい居丈高になりつつも、アイの頭を抱き寄せた。
恥ずかしながら、胸の先端が疼いている。
なので、気分としては吸ってとお願いしたいのだが、素直になれない。
なれるはずもない。
「ママ」
「何よ」
アイは眉間にかわいらしいしわを寄せて伊吹の胸を凝視している。
間違い探しでもしているかのような真剣な眼差しだ。
「おっぱい、無いよ?」
「小さいだけで、あるわよ!」
胸だけならアイと似たような体型なので、ふくらみを見つけにくいのは仕方がない。
しかし、まさか無いと言われるとは思わなかった。
確かに夢に見るイレーヌは豊乳だったから、アイがそれを吸っていたとしたら、伊吹の胸は無いにも等しいのだろう。
「剣道も胸も、大小で優劣は決まらないわ。
私は私よりも大きな人にだって勝ったし、逆に、私より小さな人に苦戦したこともあるわ」
伊吹は、胸の成長が止まっているのは、臓器移植後のステロイド剤投与による副作用だと信じている。
ステロイド剤には様々な副作用がある。
顔が腫れたり、疲れやすくなったり、身体の成長が止まったりする。
そう。伊吹は、副作用で胸の成長が止まったのだ。
手術前から胸が平坦だったのは気のせいに違いない。
「むう」
アイが目を細めて唸った。絵本の間違い探しで答えを見つけられずに、本当に間違っている箇所があるのか疑いだしたときの目つきだ。
伊吹が興奮状態で肌がうっすらと桜色に染まっているので、吸うべき場所も色が周囲に埋没して、さらに見つけにくい。
「よ、よく探しなさいよ。
だ、だいたい、そもそも貴方、
やっぱり、おっぱいを吸うような年齢じゃないでしょっ。
吸わせるのやめるわ。
ええ。やめ、あっ――」
アイがちゅっと先端を口にした。
弾力のある舌が、敏感なところに吸い付いてくる。
「んっ」
思わず声が漏れてしまったので、慌てて唇を固く閉じようとするが、頬がとろけているので無理だった。
熱く湿ったものが、胸の先端を包み込んでいる。
胸の先端から脳髄や骨盤を経て、全身の隅々にまで柔らかな快感が走っていく。
緊張していた肩から力が抜け、くたっとした。
正座を崩して、ぺたりとお尻で座ってしまう。
「はうう」
甘い幸せが、溶けるように全身を満たしていく。
夢の中で何度も護りたいと願った幼子が、自分のおっぱいを吸ってくれることがここまで嬉しいとは思いもよらなかった。
恍惚に酔いしれ、軽く首筋を伸ばすと、金色の髪がさらりと背中で流れる。
アイの唇や舌が伊吹の先端を中心にして、ちっちゃな口からは想像もできないほど、どう猛にうごめいている。
時に舌先で舐めるように、時に搾るように吸ってくる。
時折、硬い物が触れて、先端を挟んでくる。歯で噛み噛みしているらしい。
「ち、小さいときにおっぱいを吸わないと、大人になったときに、いろいろと困るのよ」
甘くこみ上げてくる快楽に耐えようと、伊吹は意識を胸から逸らしていく。
官能に陶酔していたら、きっといけないトコロに流されてしまう。
「おっぱいを吸わないと顎に筋肉が付かないの。
その結果、顎が細くなるの。
ほら。柔らかいものばかり食べるようになった現代人は、昔の人よりも顎が細いって言われているでしょ」
天井の木目に人の顔を見いだし、言い訳するように説明する。
「顎が細くなると歯が生えるスペースが無くなって、歯並びが悪くなっちゃうの。
そうすると虫歯になりやすいし、他にも色んな病気にりやすいのよ。
だから、小さいときは母乳を、あっ、んっ」
吸う力の緩急は、潮騒のようにざざあっと押し寄せてはすっと引いていく。
伊吹はつい何度も「はうう」やら「あうう」やらと声を漏らしてしまう。
が。
「痛っ」
突然、先端に、針を刺すような鋭い痛みが走った。
きっと、歯が刺さってる。
赤ちゃんが母親の乳を噛むことは珍しくない。
母乳が出なかったり、母体の体調不良により味が変質していたりすると、赤ちゃんは違和感を覚えて、乳首に噛みつくのだ。
だから、吸っても何も出てこないことを不満に思ったアイが、本能的に噛み付いたとしても何ら不思議はない。
伊吹は、授乳とは痛いものなのだろうと思い、我慢した。
しかし、痛みはいつまでも治まらず、アイは強く噛み、吸い続けている。
敏感な部分の痛みは、いつまでも我慢しきれるものではなく、すぐに限界が訪れた。
「痛い、痛い。噛んでる! アイさん、噛んでる!」
口にすると、一気に痛みが大きくなった。
常より充血して感覚が鋭くなっていただけに、猛烈だった。
伊吹はアイの頭を乱暴に引き剥がす。
胸には歯形がくっきりと残り、じわっと血が染みでる。
「痛いじゃない。なんてところに噛み付いてくれたのよ」
怒った伊吹は仕返しとばかりに、アイのうなじに噛み付いた。
柔らかい肌は何故か牛乳の味がする。
伊吹の髪が、アイの小さい身体を覆い尽くす。
母ライオンは子ライオンにおっぱいを噛まれたら、噛み返して痛みを教える生き物だ。
人の痛みを知るための教育として、時として母は子に牙を剥く。
「ノン、ノーン!」
「噛んだら、痛い。分かる?」
「ウイ、ウイ! ママ、ごめんなさい」
「そう。分かればよろしい」
もちろん、冗談で噛んでいたので、アイの肌には歯形はついていない。
しつけみたいで、本当の親子になった気がして、つい笑ってしまう。
アイもつられてふたりで声を出して笑いあった。
「おっぱいのことは、ふたりだけの秘密よ。
ほら、シャワーを浴びて着替えて、お布団を干すわよ」
「ウイ」
仲良く手を繋いで浴室へ向かった。
濡れたまま飛びだすアイをお風呂に連れ戻したり、おねしょのお布団を干したりしていれば、いつの間にか気分は母親だった。