表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/28

あっ、んっ。おっぱい噛んじゃ駄目え

 豪雨が街を飲み込もうとしていた。

 夜の底に穴があいたと錯覚するほどの圧力が空から落ちてくる。


 街灯の頼りない明かりの下で、イレーヌは幼子を抱きかかえて走っていた。

 雨の轟音に包まれた中で、母だけが赤子の鳴き声を聞く。


 アスファルトに赤い染みが点々と落ちては雨に溶けていく。

 腕に負った裂傷に耐えながら、イレーヌは赤子をあやすために微笑もうとしたが、頬が強ばり失敗してしまう。


「もう少しだけ我慢してね。

 すぐに温かいお風呂にいれてあげるから」


 慣れない日本の街は左右に似たようなビルがそそり立っていて、いつまでたっても景色が変わらない。

 まるで少しも進んでないのではないかという疑念が込みあげ、何度も視線を左右に振る。


「あと少し……。あと少しだから」


 三叉路の先に高架があったので、下に入り雨宿りをすることにした。

 ぜえぜえという吐息は、周囲を包む地鳴りのような雨音に飲み込まれて消えていく。


「はあ、はあ……。雨が止む前に……逃げないと……」


 いつまでも壁に背を預けているわけにはいかない。

 イレーヌはすぐに走りださなければならなかった。

 着の身着のまま逃げ出してきたので財布すら無いため、タクシーを呼びとめるわけにはいかない。

 さらに土地感が無いため、脇道を通ってしまえば目的地にたどり着ける自信が無かった。


「あんな得体の知れない組織に頼ろうとした私が間違っていたわ。

 貴方は私が護る。命に代えても」


 母親の声音に不穏な気配を感じたのか、赤子が一際強く泣き始めた。

 イレーヌははっとして、強張っていた表情を崩す。


「弱気になったら駄目ね。

 私に何かあったら、貴方におっぱいをあげる人がいなくなっちゃうわよね。

 頑張るわ」


「追いついたぞ」


 硬質な靴の音を響かせ、高架下に第三者が乱入した。

 イレーヌは背筋に冷たいものを感じ、乱入者の姿を確認せずに走りだす。


「待て!」


「うあっ」


 首に走った痛みで髪を掴まれたと分かった。

 振りほどこうとすると引っ張り寄せられ、崩しかけた体勢を立て直すと、背後の男と眼があう。

 二十台後半くらいの、白衣の男が眼をぎらつかせながら、雨と汗で濡れた顔を近づけてくる。


「逃げたければひとりで行け。追いかけはしない。

 だが、貴様の娘は置いていけ」


「ふざけ――。くっ……!」


 罵声を浴びせようとしたが、怪我した左腕を掴まれたため、声は呻きに変わる。

 赤子を片腕で支えなければならないため、イレーヌは思うように抵抗できない。


「貴様の傷は治っていないな。やはり、吸血鬼なのは娘だけか」


「津久井! その呼び方は止めてと言ったはずよ」


 津久井と呼ばれた白衣の男は額に手を当て、大仰に高架の底を見上げる。


「ふふっ!」


 掴まれていた髪と腕を離され、イレーヌはよろめいた。

 高架下の薄暗い照明が点滅して津久井の歪んだ口元を浮かび上がらせる。


「身体にメスを入れても、ものの数分で完治してしまう貴様の娘が、吸血鬼でないと?  なら、いったい何だというのだ。

 常人を遥かに凌ぐ造血幹細胞の多能性をどう説明する」


 イレーヌは赤子を抱く腕に力を込め、身を盾にして庇うように身体を丸める。


「私は娘の異常体質の原因を知りたかっただけなのよ。

 娘を実験に使うなんて話は聞いていなかったわ」


 イレーヌは眉をつり上げて睨みつけるが、津久井は気にするでもなく、額に張り付いていた髪を掻き上げる。


「考え直せ、イレーヌ。悪い話じゃないだろう。

 俺は、お前の娘を殺そうなんて思っていない。

 その子の成長を誰よりも望んでいるんだ」


「ふざけないで。貴方は約束を破って私の娘を傷つけたのよ」


「私の書いたV型稀血の論文は読んだのだろう。

 お前の娘は吸血鬼と呼ぶしかあるまい。傷は治るのだから問題無い」


「私は、この子には普通の生活を送らせたいのよ。

 揺りかごもガラガラも無いような部屋に閉じこめられるのは、もう耐えられない!」


「なんだ。揺りかごが有れば良いのか。直ぐにでも用意しよう。

 これで問題は解決だ。さあ、その子を渡せ」


「そういう問題じゃない。

 貴方の下らない実験と妄想にこの子を使わせないと言っているのよ。

 貴方だって人の親でしょ。どうして、こんなことが出来るの!」


「ふん。私の実験の意義はお前には分からん。

 もう、お前の許可などいらない。

 こうして会話している間にも観察していたが、やはりお前の傷は治る気配が無い。

 それとも、もっと深い傷を与えれば、お前も治癒が始まるのか?

 喜べ。お前が代わりになれるか、今、試してやろう」


 津久井が無造作に手を振った瞬間、イレーヌの脚に裂傷が生まれ大量の血が噴きだした。


 そして。


「きっ――」


 絶叫を堪えながら桐原伊吹は目を覚ました。


 見慣れた天井が視界に入り、夢を見ていたことに気付くと伊吹は肺に詰まっていた息をゆっくり吐きだす。


「また同じ夢……」


 汗でじっとりとした背中に空気をあてたくて上半身を起こす。


「おはよう。今日も一日、よろしくね」


 障子越しの柔らかい日差しの中、胸に手を当て呟くと、長い黒髪が背中でさらさらと鳴った。

 死の恐怖すら感じる夢を見たのに、心臓は穏やかに脈打っている。

 伊吹の心臓は臓器移植されたものだから、悪夢の影響で動悸が激しくなることはない。


 春の夜明けに部屋が暖かくなるのと同じくらい、ゆっくりと心臓は鼓動している。

 伊吹は胸に手を当ててじっとし、室内をぼうっと眺めた。

 来月から高校生になる女の子の部屋にしては、殺風景な和室だった。

 らしい物といえば、枕元にある友人から貰ったテディベアくらいだ。

 家具は勉強机と本棚があるだけ。

 本棚には歴史小説の他に、壁から外した額装の表彰状が押し込んである。


 伊吹は時計を見て、三年前だったらジョギングと素振りを終えた時間であることを知った。

 そして、枕元のテディベアに視線を落とす。


「今頃みなさん、今日の試合に備えてウォーミングアップでもしているのかしら」


 自分にはもう関係のないことだ。

 三年前に重傷を負ってから、長時間の運動は出来ない身体になってしまった。


「ん……」


 軽く息を吐いてから、ぽてんと寝転がり、布団を頭から被って丸まる。


(遅く起きるのが当たり前になってるわね……)


 布団の中から腕だけ出してテディベアを引きずり込み目を閉じた。

 伊吹は別の夢が良いなあと思いながら、うとうとと微睡む。

 やがて眠りにつくと、ささやかな希望は叶い、先ほどとは違う優しい夢が始まる。


「あっ、んっ。おっぱい噛んじゃ駄目え」


 家族が聞いたら家族会議が開かれかねない寝言だった。

 臓器移植を受けてから見るようになった夢の内容を、伊吹は家族にも友人にも教えていない。

 悪夢の方は心配させるのが分かり切っている。

 子育ての夢も、やはり別の理由で心配させてしまうだろう。

 まさか、自分が外国人の女性になり、赤ちゃんに授乳したりお風呂に入れたりして子育てしているなんて、恥ずかしくて人には言えない。


 桐原伊吹十五歳。

 布団の中で見る夢は一児の母であった。

 熊の縫いぐるみを我が子のように抱く頬は、柔らかく弛んでいる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ