#96 細い線の中を塗り潰す
耳にイヤホンはなく、さりげない笑顔が戻り、愛していると呟けば聞こえしまう距離感にあなたがいて、そんなあなたのいる部屋の風景がここにある。
最近、塗り絵にハマっているあなたは、紙と色鉛筆と向き合っている今が、一番柔らかい表情をしている気がする。
私も赤色の鉛筆の、木の色をした部分をガッチリと持ち、左右に大きく動かしながら、あなたへの恋と同じようにゆっくり前に塗り進めていった。
今、手に持っている色鉛筆の色のような暖かさは、私の肌にはなく、あの日の雨の刺激はまだ皮膚を刺し続けていて、熱っぽさと震えが密かに迫り来ている。
24色も色があるのに、あなたは本来の花の色に似合わない、暗い色ばかり手に取り、強く強くしっかり向かい合うようにして塗り続けていた。
絵の具を使用する絵が苦手で、鉛筆画しか書けないと話していたあなたの前に、作り上げられていく絵は、しっかりとした骨組みのもと、ドンと強く構えていた。
腹筋に綺麗な横線が入っている自らの身体を撫でながら、あなたに見合った強さを必死で目指している、私の身体全てを労り続けた。
あなたは、好きなものに対しては饒舌の欠片が覗いてくるようで、今も塗り絵に話しかけるようにして、途切れることなく小さい声を放っていて、その声より小さい呟きをする萌那の声も、微かに聞こえ続けていた。
「集中すると、あまり驚かなくなるんだね?」
「あ、はい。やはり好きなものをやっているときは、他のものが入ってきませんね」
「玲音は本当に上手だね。私は久しぶりの塗り絵だから、上手くいってないけど」
「ああ」
「でも、楽しくてなんかいいね」
「はい」
「萌那も全然喋らなくなってるし」
「えっ、そうだった?」
「うん。でも、喋らない方が可愛く見えるからいいんじゃない?」
「ありがとうありがとう。あ?ん?ありがとうか?」
強欲の塊が弱まることはなく、あなたの人間的な香りを十分に鼻から吸い込んで、こめかみ辺りにパンパンに蓄えようとしている私がいた。
色鉛筆を、塗りかけで半分白い林檎の上に置き、乾燥ウメをしゃぶって、ゆっくりとゆっくりとあなたの思い出と共に、噛み締めて味った。
塗り絵みたいに、あなたや未来を自由気ままに、好きな色で塗り潰せたらいいのにな、と考えたりもしたが、あなたの愛が私の心に近くなっている気が確実にしている。
あなたの口元からマスクがいなくなっているのは、室内だからだと勝手に理由を付けて、自分の部屋に広がる白い壁をただ見つめていた。
玄関のチャイムが鳴り、向かってみると、ドアから馴染みの坊主が顔を覗かせ、萌那が勝手に呼んでいた先輩をむず痒くなりながら家に入れ、それが私の家に初めて先輩が足を踏み入れた瞬間となった。
部屋に戻り、先輩そっちのけで、塗り絵の輪郭からはみ出さずに、塗りムラもなく塗っていくことに、手の感覚や皮膚感覚が快感を覚え、手を止まらせることなく動かしていた。
もう、あなたがそばにいる間は寒さに困ることはない、というような身体に向けて、少しずつ少しずつではあるが、移行しているような気がしている。
数分前まで、黒い線と白地だけだったあなたの手元にある塗り絵は、命を吹き込まれたかのような立派なライオンと、不気味な花たちへと姿を変えていた。
優しそうに見守る先輩と、深呼吸をして腕を上げたり、首を捻ったり横揺れをしたりするあなたの姿は、相変わらずいつものままだった。
萌那と先輩の触れ合う姿から、二人の間に愛の行き来があることを実感し、安心が生まれ、私はあなたとの愛を確かめ合うように、あなたの手を優しく優しく撫でた。
家のすぐ横の道路を音を立てて、暴れながら走る若者感あふれる音にも、あなたは一切声を発さず、手を程よく揺らす程度に抑えていて、私の心もいつもより静寂を保っていた。




