#95 力の限り耳になる
装着時に、周りで鳴っている声が気になるという理由で、街中ではイヤホンをつけられないと呟いていたあなたが、イヤホンを付けて私に耳を全て任せながら、一緒に街を歩いている。
耳や口に何も入って来ないようにガッチリと塞ぎ、ずっと無表情でいるあなたは、無表情なりに心が飛び跳ねているように見えて、少しは安心した。
周りの音が聞こえていないあなたに、愛してるの上にある、愛してるの最上級の言葉を呟きたくなったが出来ず、ただ短い咳払いをした。
まだ馴染み始めたばかりの先輩の妹さんとの近すぎる関係のように、あなたとの境界線も薄まればいいのになと、身体を僅かに熱く火照らせた。
あなたは突然、私の視界の真ん前に手のひらを翳してきて、その風景が大きな壁に思え、瞳から心に影が入り込むような感覚が僅かにあった。
あなたのマスクが、まだ私との間に立ちはだかり、距離を取られている感覚は相変わらずで、その白すぎる白が二人の距離を物語っているように感じた。
私の手には、あなたの心臓や気持ちの一部がしがみついたり、のしかかっているような感覚があり、しっかりとそれが一面に溢れていっている感覚がある。
あなたの隣で目をキョロキョロさせたり、あなたの腕を優しく引っ張ったり、私はあなたの行動意識になりきっていたが、我慢出来ずにあなたの録音された声を、イヤホンを入れた右耳だけでこっそり聞きはじめた。
「話し掛けてくるのと、話し掛けて来ないのでは、天と地の差があります」
「興味があるのと無いのとでは、だいぶ気持ちは変化してきます」
「相手の出方次第で、気持ちはかなり違うものになります」
「僕は菜穂さんが話し掛けてくれることで、優しい気持ちになれます」
「僕に興味を持ってくれたことだけで、嬉しいことです」
「僕に優しく接してくれて、本当にありがとうございます」
「大好きです」
「本当に大好きです」
あなたから贈られた声のラブレターをしっかりと飲み込んだ後、先輩の妹さんにあなたを褒めてもらったことを脳に含んで、脳内で思い切り揉みしだいた。
私の声があなたに聞こえないなら、私特有の私らしいニオイをあなたの嗅覚へと漂わせて、ほんのりと感じていてもらえればいいなと思った。
あなたのシャンプーのいつもより気高い香りから、神経質の度合いの高いを感じ、それがあなたの味として寂しさに溢れていた口内に、ゆっくりと広がってゆく。
ゾロゾロとあちらこちらから早歩きの人々が連なりで押し寄せ、人混みという海に溺れて、言葉も発せないみたいな感覚が、私にも湧き始めた。
イヤホンの黒にも、細パンツの細さにも、美しさのある顔にもあなたを感じ、あなたの乙女な部分の見え隠れに、何度も笑みが溢れた。
あなたの足元から頭上に視線を移したり、時折あなたの肩を抱き締めたり、一歩一歩を脳で自覚しながら、歩みを進めてゆく。
あなたの手が触れていない場所が、私の皮膚に一ヵ所も無くなるくらいにまで深くなっていきたいと願い、あなたと手を繋ぎながら両手を数回擦り合わせた。
あなたの長いまつげも薄い唇も、覆うように被さるマスクや前髪に隠されてしまい、あなたの成分はもう、少な過ぎると言うしかないところまで薄くなっていた。
不安定なあなたのシートベルトになりたいと思うほど、あなたの歩みに力強さはなく、淀みの糸がピンと張っているような感じが、ずっと続いている様子だった。
雨男のあなたのせいか、突然、篠突くが降り出し、身体をキツく苛め始め、何も出来ずただオドオドするしかなく、身体が一気に縮み上がった。
この耳をあなたの声のために付いている耳として仕立てていたが、今はあなたの周りの音をあなたのために聞く耳として、成り立たせている。




