#93 シートベルトと共に
車からゆっくりと足を降ろすと、曲線美がセクシーな真っ赤な車体が青い空に映え、目の前を美しく彩り、あなたとの日々に色を添える。
サングラスと、ツバが広いハットの相乗効果で、お姉さんは上級の品格というべき雰囲気に満ちていて、私の憧れはウズウズと蠢いていた。
流されやすい私は、ドライブの雰囲気に流されて混乱に陥り早口になってしまい、そのことに聞こえのいい右耳だけが気付いていた。
あなたへの依存度があなたの症状を上回ってしまっているなかで、心地よい温度の日差しや風たちが、身体を柔らかくほぐしてゆく。
真っ赤なボディの真ん中を支配する窓ガラスに収まり、揺れ動いている私の顔面は素朴の一点張りで、あなたに溶け込むほど薄化粧は加速してゆくのだと実感した。
マスクをしているというのに、その蛇腹の白を突き抜けて浮き出てくるように、あなたの白い歯が見えてくる感覚に陥っている。
シートベルトが、どんなに驚こうと揺られようと守ってくれるという有り難き感覚が、ほどよい締め付けの名残で皮膚に伝わり続けていた。
あなたと僅かに沈む砂の上を、慎重に足をつけながら進むなかで、人生という広い枠においても、前に着実に進んでいる気がした。
「海はあまり来たことないんだよね。玲音はどう?」
「たぶん、一度もないと思います」
「これが初めての海?」
「はい。初めてが菜穂さんとでよかったです」
「あ、ありがとう。そんなことも言うんだね」
「すみません」
「謝らなくていいよ」
「いやっ、その」
「最近は玲音が前向きになった気がして、すごく嬉しいよ」
「あっ、はい」
「それにしても、綺麗な海だよね」
「そうですね。あの、菜穂さん?」
「何?」
「僕たち、男女の意識を全部取っ払って、お互いにしたいことをするみたいな感じにしませんか?」
「うん。まあ、それが一番だよね」
仕事に対する気持ちも、私に対する優しさも、ヒタヒタに満ちているあなたを、あなたの成分が足りたい私の心が、少し羨ましく感じていた。
鼻の奥を何かに擽られ、くしゃみが出る気配が段々と滲み、手を挙げてあなたにそのことを伝えると、耳を手で塞ぎ、ニコッと笑うあなたがいた。
潮風が吹いているだけなのに、ビーフジャーキーの名残もほとんど存在しないのに、気持ちを刺激する塩分が口の中に少量、湧いてるように感じてしまっていた。
上着の袖や裾、そしてあなたの黒々とした髪が、規則的に、そして時折、不規則的に揺さぶられていて、その力強さがとても綺麗に映った。
あんなに喋るお姉さんが、私たちが歩いている後ろで、しっかりと口を密封したかのように黙っており、少し不気味だったが、前よりさらに好意を抱くようになっていた。
耐えられない動作を目の当たりにすると、あなたは咄嗟に手のひらを広げて前に翳し、バリアのようにする癖があるが、初めての風景が映えている今の状況においても、微かにそれが発動していて、私はそれを真似するように綺麗な空に手を翳した。
広がる自然のなかで、波打ち際と砂浜の境目だと思われる場所まで歩を進めていた時、私はなぜか、僅かな段差も何も存在しない場所で少し躓いてしまった。
間近で見る波は、スローモーションのようにゆっくりと動き、心を白くしてねと言わんばかりに、雲で覆われた空が優しさを演出し、私たちを包んでくれた。
海のフチのような場所で、アニメキャラクターのように燥ぐお姉さんと、アニメキャラクターのように怯えるあなたが、同様に手で水を掬うという動作をしていた。
あなたに、この壮大にどこまでも広がる継ぎ目の無い海をバックに写真を撮ることをお願いすると、手の握りを強くすることでオッケーを示してくれ、身体が一ミリだけ縮んだ気がした。
抱き締める衝動を掻き立てる海の音色が、まだまだ外耳や内耳や鼓膜にどんどん染み入っている途中で、こんなに歌い出したくなる青なのに、こんなに歌が似合う景色なのに、歌うことが出来ない悔しさから、青が身体の外に流れ出している感覚があった。




