#92 恋のブレーキの必要性
あなたの姉に誘われたドライブの時間になり、家の外に足を踏み出して少し歩いていると、美しい曲線の赤い車が私のすぐ横に止まった。
運転席の下がってゆくガラス部分からは、サングラスをしてツバの面積多めのハットを被っている、お姉さんが華びやかな姿を覗かせた。
後部座席にいるあなたの隣に乗り込むと、波立たない程度の鼻唄を放ちながら、お姉さんはゆっくりとアクセルを踏み込み、ハンドルを優しく叩いてドライブに溶け込んでいて、完全に私とあなたはお菓子に付いているおまけのような待遇だった。
スピーカーから流れるしっとりしたピアノ曲が車内を席巻し、柔らかさを存分に感じられるシートは、私の身体の全てをあなた並に包んでゆく。
ドライブ前日のあなたからの文章は、短いものだったが楽しさが伝わるような踊った文字で、今、もう一度確認してみると、メールならではの躍動をどっぷりと感じた。
ハンドルさばきに無駄がないお姉さんの、おどろおどろしいくしゃみを予感したのか、あなたは事前に頭を抱えて前屈みになったのだが、それからずっと、小爆発が起きることはなかった。
私とあなたの姉の言葉が、あなたの口の鍵を解除し、あなたの氷のような手も段々と溶けたようになり、本来の柔らかさが漏れ出した。
あなたのお姉さんが目の前にいるというのに、ハグの歯止めが利かず、腕を広げてから隣のあなたの身体に、より接近し、シートベルトに抵抗しながら、思い切りその腕であなたを挟んで閉じた。
「ねえ?玲音の会社のこと聞かせてよ?」
「あっ、はい。えっと、少しは慣れましたけど、事務作業なので比較的楽な方だと思います」
「周りの人とはどう?」
「まあ、普通です。も、もっと喋るお仕事だったら、心が折れてしまったかもしれません」
「大丈夫そうなら良かった。白石さんとは話したりするの?」
「は、はい。色々と教えてくれたりしてくれます。仕事のこととかも、相談にも乗ってくれます」
「白石さんと白石さんのお父さんには、仕事のこと感謝しないとね」
「はい」
今は同じクラスの麗愛さんと、あなたを中心に脳内が構成されていて、もう恋のブレーキは利かなくなっていると、きっぱり決めつけるしかなかった。
車の運転が好きな人しか設置しなそうな、幼い頃に友達の家の車で嗅いだことがある、甘さを押し付ける強烈なニオイが、もうとっくに鼻の空気を占領するまでに満ちている。
信号待ちになり、お姉さんは身体をそらせながら、私たちにビーフジャーキーを手渡ししてきて、それを口の中に入れると、いつかあなたによって流した涙よりも、ややしょっぱい味がした。
前髪を掻き分けながら、たまに小声で一言だけ発するあなたのしているマスクだけが、して欲しいわけではないのに、ピシッと胸を張っていた。
性格に似合わず安全運転を行い、しっかりと目を各所に置きながら、道路を行くお姉さんとは正反対で、私はあなたにベタ踏みをし続けていた。
身体を小刻みに動かすあなたを確認し、お姉さんに声を掛けてコンビニのトイレまで連れていき戻ってくると、なぜかお姉さんは私を抱き締め、私は浮いた状態になった手を、煩く動かすだけだった。
あなたに目と髪質が似ているお姉さんは、ありがとうと口にしながら、私の頬に刹那のキスをし、その感触は綿のように軽さを帯びていて、とてもあたたかかった。
再び二人で後部座席へと乗り込み、シートベルトを締めると、あなたからスケッチブックを渡されて、開くとそこには白黒のリンゴや白黒のクマのぬいぐるみなど、立体掛かったものが数多く存在していた。
あなたはすぐに私に背を向けて、相変わらず、静止画のようにほとんど動かないまま、ただ窓の外ばかりを眺めているだけだった。
先輩の妹さんから今のあなたとのツーショット写真をメールでせがまれ、車内でシャッターを切るチャンスを伺っていると、ソワソワという言葉そのものの感覚が全身を襲った。
お姉さんは私の大好きな音楽を流してくれて、私の好きな歌姫の突き抜けるような歌声が車内に染み込み始めると、その声に合わせて口を動かしているあなたが、ガラスを通して私の瞳に映った。




