#89 驚きに足を踏み入れたなら
私もお揃いで所持しているクマのぬいぐるみの他に、文庫本・単行本などの本類や、ジャズのCDなど、以前あなたの部屋に入ったときには気付けなかったものたちが、目に溢れてきた。
あなたの優しくて余計なものがない、シンプルな顔には、いつまでも見てられるような、優しさの塊に似たエネルギーが存在している。
数十秒に一回、地震による振動に近い、地上全体を揺るがすような強風が、部屋の窓を小刻みに揺する音がする。
あなたと絶妙に噛み合わなかった私の母、金属が剥き出しになったキーホルダー、あなたが私に水を噴射してきたことなどが、プラス要素として、今の私の身体を動かしてくれている気がした。
恋人が互いの部屋で過ごすという、当たり前の行為は、壁やぬいぐるみ、そして蛍光灯に監視されているように思える、この特別な空間で、夢心地以上のものに変わってゆく。
あなたの鼻の下には、鼻をかみ過ぎた時に出来るザラツキが見え、暖かい気候のなかであるのに、ヒビ割れてしまっているあなたの唇からも、心の状態を連想してしまっていた。
あなたの唇に出来たヒビに、容器から中指で、少し多めに掬ったリップクリームを、しっとりゆっくりと塗りたくった。
ずっとあなたの唇に指を触れていたくて、2周でいいところを、3周も4周も余計に塗り、リップクリームと愛をしっかりとあなたに塗り込んだ。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
「ああ」
「唇が割れると痛いから」
「そ、そうですね」
「元気に近づいて、本当によかった」
「普通にこうやって接することが出来て、すごく嬉しいです。ありがとうございます」
「私に、だいぶ慣れてきたよね。時間は掛かったけど」
「菜穂さんを通して、世界に少しでも深く触れていきたいと思っています」
「うん。一緒に歩んで、一緒に進もう」
「菜穂さんに近づけば近づくほど、緊張が無くなっていくような感覚に、今はなっています」
「そう。それはよかった」
「あのっ、絵を趣味で始めてみたんです。鉛筆画の方を」
「そうなの?」
キチッと嵌まったパズルのピースでも、ひっくり返せば簡単に散らばってしまうが、それと似たような不安が、まだ心に付きまとっている。
鼻腔内にある空気は、部屋に漂っている空気同様、キラキラと透明に澄んでいて、無味無臭の香りを気体全体が所持しているように感じた。
唇が身体の中で、一番皮膚が薄いと聞いたことがあるのに、まったく血の味を感じず、今の微かに甘い、健康に近い状態の唇に戻れていることが、とても嬉しかった。
未だにあの少女に心を削られている感覚はあるが、神様の視点から見る色味の少ない部屋の私たちは、とても幸せそうに見える。
動き出したあなたの細い背中を、手を繋ぎながら追うと、あなたは鉛筆で描いた自画像をこちらに向かって掲げてきて、思わず見惚れてしまった。
元の位置に戻ろうと、無心で足を動かすと、フローリングとカーペットの僅かな段差に躓いてしまい、気付けば軽く前のめりになっていた。
手を繋ぐことから進化したように、ハグを日常的に求めてくるあなたに吸い寄せられるように、ぎゅっと抱き締められ、心臓が一番近くなるハグをしているときのあなたが、敏感にならず一番落ち着いていることを実感し、私の皮膚もピンピンしていた。
使われなくなったあなたの制服が壁からぶら下がっており、その制服の第二ボタンに詰まっているのは、ほとんど父の想いだということを、見上げながら心に染み込ませた。
手首を掴むクセをしながら、あなたは楊枝しか通らないような小さめの口で、対象ジャンルの分からない小声のありがとうを、私に呟いた。
歌うことがまだ難しいので、好きなラブソングの歌詞を、身体全体を絞って震わせて、心の限り語ってあなたに贈った。
アラームでしか使用していないジャズの音色を、本来鳴るはずのない時間に、鞄の中でスマホが奏で始めて、これ以上あなたと深く交わってはいけないことを、警告するアラームのように思えた。




