#82 安心がいない校舎
あなたのいない校舎は、何の揺らぎも感じず、心配と欲望が釣り合わない瞳に映るものはズタズタに伸びていたが、太陽もあなたもいつも通りに昇り、この世界に存在している。
別れていないのに、友達よりも距離のある関係にまで状況は変わり、その分、愛と想像の中のあなたは、実像以上に目の前で輝いていた。
最後に会ったあなたは、愛は愛でも恋愛ではない愛を私以外の全ての女性に持っているのだと、私に伝えてきて、今はそれが耳の記憶となって堂々と残っている。
責任感が備わっていなければ、恋は0から1に変わらないこと、恋愛は自尊心の集合体であることなどを、改めて身体に巡らせ、背筋をグンと伸ばした。
一週間ほど会わずにいるだけで、あなたの私に対する接し方が、顔見知りくらいにまで変化しそうで怖くて、手鏡に映ったその怖さが乗り移った自分の表情に、さらに不安がグングンと増してゆく。
仕事を始めたあなたを心に閉じ込め、私は何を辞めてもあなたの恋人を辞めないことを、田中さんの極端に曲がった猫背を見ながら、しっとりと誓った。
暖房が去ろうとしない教室では、頭皮の毛穴から汗のようなものが噴き出し、その汗のようなものに擽られているように、ムズムズが強さをどんどん増してゆく。
私の魂や精神を、少しの間だけ身体から出して、空気中にふわふわと漂わせて、その脱け殻を居抜き物件として誰かに貸し出したいくらい、行動を起こすことが億劫になっていた。
「菜穂さん、どうしたんですか?元気ないですけど」
「玲音がね。学校を辞めちゃったの」
「そうでしたか」
「ゴメンね。田中さんには言ってなかったよね」
「大丈夫ですよ。あっ、相談はいつでも乗りますからね」
「ありがとう」
「今は一人になりたいですよね?前向きますね」
「あっ、ねえ?相談したいことがあるんだけど、いいかな?」
「あっ、はい」
「最近、海原先輩と二人きりでデートしたんだよね。先輩が気持ちの区切りをつけるためだったみたいなんだけど」
「はい」
「それは、もちろん玲音も公認してくれていたの。でも、その日あたりから、また玲音が不安定になっちゃって。それが原因かなって?」
「キッカケは些細なことから生まれますからね。それだけが原因とは言えませんよ。とりあえず、今まで通りに接していれば関係は保てると思いますよ。ごめんなさい。私も正直よく分からないです」
「ありがとう」
メープルシロップの沼で、溺れてベタベタになるかのように、先輩が心に纏わり付いてきて、先輩が始めから優しい印象だったかのように、脳に居座る。
校舎内に心が落ち着ける男性は、もう先輩くらいしかいなくて、私の周りには今、女性特有の甘い香りがふわっと溢れ、それらが身辺をしっかりと固めてくれている。
ペットボトルを傾けて、冷たいミルクティーを流し込むと、口が幸せに満ち、左胸に光が点灯するかのように、一瞬だけ冷たさがヒヤッと灯って、すぐに消えた。
モヤモヤを掻き分けるような清々しさが存在する理由は、教室の窓から望める緑の目映さや、春の暖かさのせいではなく、他の理由のような気がする。
長い間、鞄から覗いていた先輩のプレゼントが気になり、包み紙を開けると、そこにはあなたが好きそうな、漆黒に白い模様がポツリポツリと入ったタオルや絆創膏など、あなた向けのものがいくつも入っていた。
これから起こるあなたとの全ての偶然のために、顔の筋肉を引き締めるように動かしたり、顔全体を手でほぐしたりして、常に豊かさを抱けるように調整した。
中途半端に開いた教室のドアの隙間から、風がスースーと流れ込み、先輩と触れ合った肌の感触を、その風がフワリと何処かに飛ばして行く。
身に付けている制服の裾から伸びる糸を見つけ、あなたとの恋人関係はこのようなしっかりした糸で繋がっているのではなく、納豆の糸のようにか弱いけど、粘りがある糸で繋がっているんだと感じた。
坊主頭のクラスメートが右横を通り、先輩ではないのに、ついつい目で追ってしまい、身を引き締めるために久し振りに整えたツインテールが、ギュンと引っ張られた。
肌の表面から、身体の1センチ内側にかけて、言葉には無いような優しい痛みが、ぐるぐるぐると渦を巻くように、歩き続けているのが分かった。
スマホをポケットから取り出して手を添えると、珍しくあなたからの不在着信があり、残っていた留守電を聞くと、あなたの芯のある声と、周りで鳴るガサガサ音が耳を通過し、それが心臓の硬さをとろとろに溶かしてくれた。




