#81 離れても自ずから
気付いたら、どんどんとあなたとの思い出と周りの塀や家々が、勢いよく私の横を通り過ぎ、一直線にあなたの家へと走っていた。
あなたが、大学生である白石さんに誘われ、白石さんの父親の会社の事務を始めたという話を萌那に聞いてから、あなたと萌那の何とも言えない表情の名残が視線を阻害する。
その事実を告げられた時の、萌那の声が未だに耳に残っていて、まだ鳴り止むことのない身体で風を切る音が、それを全て消し去ることは、しばらくの間は無い。
どんなムズムズよりも大きなムズムズが心にはいて、それは身体にどんな刺激を与えても消えないもので、身体はいくら走り続けても疲れを感じないほどの、興奮に包まれていた。
アスファルトにある地面のザラザラとした凹凸も、瞳に綺麗に嵌まらないほど、足と腕を思い切り動かしていて、気が付けば所々にボヤけた染みのある、あなたの古びた小さな一軒家に乗り込んでいた。
チャイムを鳴らすと、一皮剥けて明るさを取り戻したような、暖色を身に纏うあなたのお母さんが扉の隙間から現れ、私に気付くと、すぐにあなたの名前を後ろに放ち、家中に響かせてゆく。
恐る恐る歩み寄ってきたあなたの手を、お腹を空かせた子供のような、我慢しきれない手ですぐに握り、玄関の前であなたに温かさを送りながら、静かに声を発した。
先輩との接し方がキッカケで、あなたの元に天から限界が降りてきたのかと思うくらい、嵌まらずに歪な形で落ち着いている、あなたの頭から足までの全てを、目でゆっくりと舐め回した。
「仕事始めたの?」
「は、はい」
「白石さんのお父さんの会社なんでしょ?」
「そ、そ、そうです」
「学校辞めるなんて聞いてないよ」
「すみませんでした」
「怒ってはないけど、相談してくれなかったのは寂しいな」
「あっ、すみません。ハァッ」
「大丈夫?落ち着いて。これから学校に玲音がいないって思ったら、気分が下がってきちゃった」
「ああ、こ、このままではツラかったので。何か変えたかったんです」
「大丈夫だよ。自分で決めたんだから、良いと思うよ」
「ぼ、僕はずっと恋をする予定も恋愛をする予定もなかったんです。でも、菜穂さんと付き合えてしまい、上からの景色を見てしまったことで、逆に苦しくなりました」
「そうだったの」
「ネガティブで怖がりで、男らしさの種も持っていない僕が嫌ではないんですか?」
「嫌じゃないよ。それが私の心に馴染んでいるから。学校を辞めたのって、私がいることも結構関係してる?」
「えっ、あっ、それはないです」
「玲音が学校を辞めても、私は恋人を辞めないからね」
「はい」
時々、あなたの何かに触れまいとする心に振り回されて、一人置き去りにされることがあるが、これまでのように幸せを与え続けてくれないのなら、あなたの幸せは保ったまま、もっと私を悲しませてほしい。
玄関の外にある、屋根と民家の隙間から空を見ると、どんよりとした雨やカミナリが来る前の不気味な雰囲気を感じ、あなたの変化を感じられなかったことに呼吸が乱れ、湿っぽいニオイが鼻腔を突く。
舌の下部から溢れ出た、酸っぱさを少し薄めたような味に、ひっそりと細い粒となり、頬から流れたしょっぱさの成分が加わり、口の中は曇天に変わっていた。
肩に掛けていた鞄から、格子模様の赤い包み紙がチラリと覗き、それを私に贈ってくれた先輩の顔が、相談相手という役割として、目の前に浮かんでゆく。
心身がまっくろに白濁しているように見えるあなたには、自分を曝け出すことを抑える透明な膜があり、私はそれに躓いてしまい、このまま燃え尽きても、たぶん灰にさえもなれないような気がする。
あなたのことを長時間見つめることに罪悪感を覚え、振り返った先には分厚い雲があり、先輩とのデートの事実も、あの雲の隙間に隠れてくれたらいいのに、と思った。
愛情表現が抱き締めることくらいしか思い付かず、先輩とのハグに上書きするように、あなたの冷たく強張った身体に吸い付くように、ぎゅっと抱き付いた。
時折、上方向に顔を向けても、涙が重力に逆らえず溢れ、涙の世界の広がりを抑えることがずっと出来ず、涙色がこのまま延々と続いてゆくような予感がした。
あなたとの関係と、私のこの長すぎる髪をバッサリ切ることは一番避けたいことだったのに、この煌めく髪の毛への愛情は、以前よりも遥かに薄くなってきていた。
もっと話を聞いてあげれば良かった、という気持ちの塊が、身体の熱を徐々に上げていき、震えていたことが嘘のように、全身が僅かに落ち着きを取り戻していた。
先輩とのデートが脳で圧縮され、耳の奥に騒音として現れ、言葉を抑えようとしても、あなたの足手まといである狼狽が、わんさと溢れ出し、それが自らの耳の聞こえも制限していった。




