#08 逃げることは恥ではない
太陽と蛍光灯がついさっき仲違いをし、暗さを帯び始めた落ち着く教室に、いつもの配置で接合された机や椅子やものたちが、脳の見本と寸分の狂いもなく再現されていた。
猛スピードで地面を目指す窓の外の雨のように元気に、萌那は私に手を振り笑い掛け、あなたは見えなくなってしまった空の奥の太陽のように席で顔を隠して、散髪によって出現した耳しか肌色を見せていなかった。
あなたの負担にならないくらい曖昧で即効性がなくて、動きにも言葉にも無いような愛情の表し方を探してるが、見つかる訳もない。
もうすぐ冬休みに入る喜びのせいか、二学期が終わる悲しみのせいか、萌那の声は潤滑度が増し、教室に流れるざわざわの音量も増えたのに、何の反応もしないあなたに、今好きと言っても微動だもしないだろう。
おこがましくて、二回というあなたに差し支えのない回数しか感じることの出来なかった病院特有の匂いも、あなたに合っているこのジメジメとした雨の日の匂いも、あなたが関わる匂いなら気分が上を向く。
名も知らない生徒の机に、白い袋から出した目を疲れさせない白と黄色のたまごサンドと同系色のミルクセーキを乗せると、それらは同じく同系色の光に照らされた。
突如、萌那が思い出したかのように腰をあげ、自分の席を両方の手全体で指し示しながら、あなたに背を向けている私を低姿勢で反対側の席に誘導し始めた。
「菜穂さん!長木玲音の監視をお願いします」
「その言い方やめてよ。気持ちが悪いから」
「分かったよ。たぶんアイツは、疲れて寝てるか、絶望に浸っているかのどっちかだと思うけど、どっちにしろそっとしておいた方が良さそうね。異変があったら急行してよ」
「う、うん」
「あのさ、二回お見舞いに行ったのに全然距離が近づいてなくない?アイツも菜穂に慣れたみたいだし、もう少し積極的に話し掛けなよ。髪切った?とかね」
「長木くん、短いのも似合ってるもんね」
「うん。でも、隠れてた耳と邪魔されてた視界がすっきりしたから、聞こえやすくなったり見えやすくなったりして、敏感度が増したんじゃない?」
「そんなに変わらない気がするけど」
「そっかな。それより、先輩が菜穂に話し掛けたら一緒に私も話そうかなとか、先輩が菜穂を遊びに誘ったら付いていこうかなとか考えてたのに、先輩に距離を置かれてるのは何でかな?」
「私のことが好きではなかったんだよ」
「好きでもないのに菜穂がプレゼントしたハートのタオルをあんな頻繁に使わないでしょ?」
「プレゼントはしてないよ」
「長木玲音に渡すためのプレゼントを先輩が奪ったんだったっけ」
「うん、そんな感じね」
「先輩みたいな俺様系が私は好きだから、されたら嬉しいけどさ」
「私はそういうタイプが苦手だからね」
「そうね、昔からタイプが真逆だもんね。私と菜穂は今、海原先輩と長木玲音っていう対極の存在を追いかけてるしね」
「まあね」
「菜穂、先輩と何かあったでしょ?何かないと急に距離を置いたりしないもん。ビンタしたとかさ」
「そんなことするわけないでしょ。何もないよ」
「冗談だよ。私、先輩には好きと言われてないけど、嫌いとも言われてないからまだチャンスあるよね」
「うん、大丈夫」
「よし、愛の巻き添えを食らうぞ」
背景に目を動かすにも、喋ったり食べたりで口を動かすにも、ペットボトルの蓋をクルクルと両手で開けるにも、最後を噛み締めながらしっかりと動かした。
瞳や瞳の周りが名残惜しさで痛痒くなることなく、気兼ねなく堪能しているあなたという被写体によって歯は常に露わとなり、頬は下がることを知らず、恥ずかしさはこそげ取られていた。
机も、椅子も、机の両側に掛けられた青いバッグと黒い鞄も、目に写る全てのものに萌えていたこの私も、この平穏な教室内であなたが突然動き、それによって揺るがされるなんて想像もしていなかった。
髪と服の黒から肌色が覗き始めて、あなたと目が合いそうになり、私は咄嗟に目を逸らしたが間に合わず、暗闇から出てきて初めて見えたものが、萌那の後頭部と見切れた私の目になってしまった。
声をあげて椅子ごと横転したあなたに気を取られ、多めに流れ落ちたミルクセーキのとろみや冷たさが顎や首の表面を撫で、不快感を残していき、泥濘は拡大の一途を辿る。
私はタオルを持った手を必死で動かしていると、萌那は私に背を向けてあなたに手を差し伸べるという行動を起こしており、泥濘に嵌まって動けない私とあなたの距離が縮まらない訳も拭き取りたくなった。
私の身体を襲ってきた目に見えない程度の震えが、寒さなのか、あなたが傷を負うことへの恐怖なのか、距離の縮め方が分からないことへの苛立ちなのかは、判断し兼ねている。
空の涙がより一層激しく強くなる外の世界を覗いた後、空の涙でも本当の涙でもない、黄色い液体のある床を優しい気持ちで項垂れ見る。
恐る恐る近付いて来てくれたあなたと心配の声を掛け合った後、拭き取り慣れたあなたのタオルは私ではなく、下の四角形の連なりを優しく撫でていた。
フワッとした玉子をドロッとした玉子で流し込んで、尖ったものは何もなく刺激が殆どない状態の口内は今、物足りなさの味を思い知った。
私の声やタオルで拭く音、靴音や周りの声、箸の音や机や椅子の音など、些細な音量で短く小さい叫びを繰り返すあなたの顔はずっと地面を向いたままだ。
甘さが染み付いて、甘い香りが住み着いている制服から簡単に香りを拭うことは出来ず、甘美な生活を望んでいる私からもあなたは拭うことが出来ない。
快楽の坩堝なんて欲してなどいなくて、欲望の戯れ事ではない真実の愛であなたと私の無理を追放してみせる。