#75 溢れることを止めない
木目模様が目立つ板や、黒い床くらいしかなく、鈍い光しか入って来ていない、暗さ溢れるこの場所では、お見舞いという言葉よりも、見舞われるという言葉の方が合っている気がする。
あなたの実際の姿を見るまでは、あなたの写真に触れることを一旦は封印しようと決めて、今までで一番不安の消えたあなたの顔を、脳全体に思い浮かべた。
スッと引いた静けさに、荒れた波が急激に押し寄せて来たかのように、過呼吸気味の息遣いたちが、救急車のサイレンのようにオドオドと近づいてきた。
部屋で今も泣いているであろう、あなたのことを想えば想うほど、私のこの心と肉体から放たれる涙が、止まる気配は段々と薄れてゆく。
ゆったりと視界の情景は動きを見せ、あなたの気持ちのように静かに時間を掛けて茶色の扉は開かれ、ずっと下がってしまっていた目線は、あなたの顔が現れた瞬間に、スッと上を向いた。
表情よりも先に、伸びが早いあなたのボサボサの髪の毛が目につき、情熱の赤を纏うことが、今のあなたには全く合っていないという事実を、改めて飲み込んだ。
あなたの実像が現れた瞬間から、あなたの両手を握り締めていた私の震える掌からは、先程までの冷たさからは想像できないほどの熱が溢れていた。
僅かな間だけ手の力を緩め、あなたと離れてから掌を見てみると、あなたの手と一緒に握っていたお守りのキーホルダーが、ぐにゃっと曲がってしまうくらいの勢いで、あなたを強く想っていたことが分かり、そっとキーホルダーをポケットにしまった。
「玲音のお母さんとは、前からコンビニで色々と話してたんだ」
「今日、玲音のお母さんだって初めて知ったんだけどね」
「本当にいいお母さんだよね」
「さっき、お母さんから全部聞いたよ。本当に苦しかったよね」
「ずっと学校休んでたから心配で来ちゃった。迷惑だったらごめんね」
「でも、連絡がないから、いてもたってもいられなくなっちゃったの」
「今度悲しいことがあったら、私に言って」
「今度寂しいことがあったら、私を頼って」
「そういうことに抵抗があることは、よく知ってる」
「でも、私は彼女なんだからね。何でも言っていいの」
「本当に寂しいのは、私の方かもね」
「明日からもまた、一緒に過ごそう」
「あの、すみません。僕は菜穂さんと別れたいんです。先輩に譲ります」
いつも電話に出ることはなく、日常生活もさらに困難に近づいたあなたが、私の想像する未来から離れていく光景を、心の手が必死で引き留めていた。
必死に呼吸を整えようと、喉や鼻を動かしても、いつもあるはずのあなたの匂いは少しも感じられず、あなたを取り込む機能まで失われた感覚に落ちていた。
いつ大波が来るかなんて誰も分からないという事実を、唾液と一緒に飲み込むと、微かな酸味が喉につかえたような感覚が、ただ残った。
扉の隙間から、私の大好きな作家の文庫本が見え、あなたの左手の人差し指の第二関節にある、ほくろも目に入ってきたのだが、無言が漂うこの空間には重さしかなかった。
少し前にあなたが、ボソッと口にした言葉の声色や、今のあなたの身体には、ストレスが現れていて、あなたの細い手首や手の甲の絆創膏からも弱々しさが滲んでいる。
しっかりとした強さを持っている父のボタンを、あなたの心臓に近付ければ少しは回復するかもしれないと思い、私は自分の服の胸ポケットに入れてあったそのボタンを、あなたに無言で手渡した。
あなたの手が、撫でるように素直に、私の掌を通り抜けはしたが、ハグの感覚を更新したい身体に逆らうように、先輩の誠実さが脳の中で、潰されながらも生き続けていた。
ピンと張りつめた空気に、長い間触れ続けていた瞳からは、純度のある透明な雫が流れ、この世界が水没したかのような気持ちでいっぱいになった。
いつもはあるのに、今はコンビニを突き抜けるくらいの元気がないあなたのお母さんが、気配を消すように後ろに現れ、そっと佇んでいて、まるで初めて会った人のように嫌な新鮮さを放っていた。
口の中は様々な種類の味が入り乱れ、複雑な味が全体に広がり続け、それが身体の方まで達し、いつまでも右往左往が続いている。
あなたの鼻を啜る音と、あなたのお母さんの鼻を啜る音に挟まれた私は、静けさを垂れ流すだけでなく、気付いたら叫びに似た音を放っていた。




