#69 テスト、後の祭り
解答用紙との戦いは終わり、穏やかな空気が煌めいている廊下は、太陽の光の存在感が大半を占めていて、あなたの存在感と凄くいい勝負をしていた。
あなたの皮膚に傷は絶えることなく、うっすらと茶色を帯びた痣のようなものは前からあったが、今のあなたには思い切り何かがぶつかったような濃い痕が、顔付近にハッキリと幾つも存在していた。
歌のお陰で好きになれた地声をあなたへ飛ばすと、あなたは電波が悪い地域での通話のように、途切れ途切れな言葉でトイレに行くと告げ、この場から足早に去った。
萌那と二人きりになり、あなたの声が混ざるハーモニーの余韻が、未だに残る脳のお陰で、リズミカルに効率的に行動出来ているような気になっていた。
廊下の窓から伺うことが出来る、あの青い空にある、あの空虚のような雲に目が届いているのだから、手もきっと届くだろうという過信をしながら、萌那と話を続けた。
細さを存分に感じるあなたの身体のパーツ達の残像も、あなたの傷だらけの残像も、一緒にいる萌那の笑顔が、とても柔らかなものに変えてくれた。
あなたの水分を吸い取るために用意したタオルは、握っても押し返しも纏わり付きもせず、ただ硬さしか主張して来なかったが、このゴワゴワしたタオルがあなたの心ならば、私はきっと、吸い取ってくれるだけでもいいと思ってしまうのだろう。
モヤモヤシールを身体の全面に、隙間なく貼られているのかと思うくらいの蟠りと、あなたの痛みを想像したことで生まれた刺激が、交差しながら、じんわりと強く襲い続けてきた。
「ねえ、萌那?昼より玲音の傷が増えてない?」
「私も思った」
「玲音に何かあったのかな?何か知らない?」
「私が知る限りでは、何にもなかったよ」
「いつかな?何かあったのかな?」
「私はずっと一緒にいる訳じゃないから分からないよ。連れションするほどの仲ではないからね」
「そうだよね。ごめんごめん」
「あっ、菜穂さん、萌那さん、おまたせしました。ごめんなさい、時間が掛かってしまって」
「大丈夫だよ。じゃあ、行こうか」
「あの、すみません。少しいいですか?少し話があるんですけど」
「玲音のことだから何となく分かる。菜穂と別れたいんでしょ?好きだけど、迷惑かけたくないから別れたいんでしょ?」
「あっ、あ」
「えっ?玲音、そうなの?」
「あっ、はい、そうです。最近は学校生活もまともに送れていませんし、将来のことを考えると別れた方がいいのかなと」
「えっ、待って。玲音の前歯少し欠けてない」
「あっ、本当だ。玲音、絶対何かあったよね?」
「あっ、はい。あの、菜穂さんのクラスの男子生徒に殴られました。それで、その男子に菜穂さんと別れるように言われました」
「そうだったの。言ってくれてありがとう。傷、大丈夫?」
「はい。傷は目立たないくらいなので大丈夫です」
「前にも言ったと思うけど、私は玲音とずっとずっと一緒にいたいの。玲音のことをずっとずっと守っていきたいの」
あなたの近くであなたの香りを貰っても、その香りが鼻や印象に蓄積することなく、すぐに消え、人の夢は儚いと決まっているかのように、鼻腔が浮遊感でいっぱいになった。
下唇の下部に出来た小さなニキビのような塊が、やるせなさや無力な自分を、そのまま剥き出しにして噛み締めたせいで崩壊し、血の味が僅かに舌に貼り付く。
沢山ある歯車の歯の一つを折られたかのように、あなたの幸せへ向かう動きは無に等しくなり、ドミノ倒しの初めのピースが倒されたかのように、幸せがバタバタと倒れていくことが、安易に想像出来た。
未来への進路を真新しい壁が塞いで、もう何もまともに見える気がせず、階段の平面も奥行きも壁も、全てが曖昧に見えるほどにまで落ちていた。
肩の異常な上がり具合で、あなたの変化はすぐに感じ取れ、明らかに最近のあなたとは違うと分かり、あなたとの距離は、あの日のステージと客席くらい遠いもののように感じた。
外に出ても眩しさをあまり感じず、三人で遊ぶことの楽しさの想像もあまり出来ず、化粧水で保護した肌が弾力を指の皮膚に自慢してくることさえ、受け流すしかなかった。
合唱祭の日の、あなたのクラスの歌声が終わりを迎えた辺りから、歌声の他にも大事な何かが消えてしまったように感じていたが、今になってそれらが心臓を絞めるように襲ってきた。
ポケットから取り出して、何気なくキーホルダーにいるライオンのイラストを見つめていると、あなたと同じようにそのライオンは、幾つもの傷を負ってしまっていた。
あなたの制服の第二ボタンはいつの間にか姿を消し、あなたの笑顔もいなくなり、幸せという類い全般が消え去ったような感覚がして、ただ小音で歩くしか選択肢がなかった。
遠くの遠くにあるであろうスマホから、絞り上げるような警報音が鳴り、あなたはそれにより微動を起こしたが、緊急地震速報をいつもオフにしている、青空の下の私たちの世界では、静かにしているスマホしかいない。
不安定なあなたに、溜め息に乗った呻き声が口から飛び出すことを止められず、それは綺麗に飛び出し、あなたはそれにビクッとなり、いつかあなたの声の周波数しか受信しない耳に変わりたいなと思いながら、耳の入り口をあなたの方向に誠心誠意傾け続けた。




